⑤
サリファの……
その静かな佇まいに、シズクはほっと息を吐いた。
この人がいることで、いろんな意味で、安心している自分に逆に驚いてしまう。
「ナナン、貴方のおかげで、ただでさえ立てつけの悪い扉が壊れてしまいそうですよ。どうするんです?」
「わ、私じゃ……」
「私が出会った人間で、足蹴りで扉を開けて入ってきたのは、貴方しかいません」
「ごめんな……さーい」
消え入りそうな声で謝罪した少女は、今までの不遜な態度から一転して、機敏に立ち上がると慇懃に頭を下げた。
「あっ、ともかく、ご無沙汰しております、先生。ただいまナナン、ノエムから戻って参りました」
「ご苦労さま」
サリファは険しい表情を少しだけ緩めると、シズクの方に向き直った。
「シズク君、大変な思いをしたことでしょう。彼女はナナンと言います。南部のアンソカ族の出身でしてね。アンソカ族は武芸に秀でた一族で、素晴らしい身体能力をしているのですが、その能力を上手く使わない人は、たまに扉を壊したりしてくれるのです」
「…………先生、絶対根に持っていますね?」
「これじゃあ、寒いじゃないですか……」
……まあ、そうだろう。
彼女が扉の隙間風の面積を増やし、室内で雪を落としたことで、かえって室内の温度が低くなったのは事実だ。
「ともかく、温かい茶を淹れましょう」
言いながら、大きな木箱をゆっくりと机に置いたサリファはさっさと台所に消えて行った。
彼にぴったりと寄り添うように、ナナンが移動する。
「先生、ノエムにしっかり神話を根付かせてききましたよ。識字率も上がるだろうし、ちょっと気分が良いです」
「ありがとうございました。さぞ、大変だったことでしょう」
手を動かしつつ、素直に礼を告げるサリファの背中を一歩離れてシズクは見ていた。
(神話って、さっきの……?)
「もしかして、サリファさんはこの国の神話を広めているの?」
「ええ。そうなんです」
あっさりすぎるほど、早々と答えが返ってきた。
「少しでも識字率を上げたいと思っていましてね。何が手っ取り早いかと考えた時、歴史とか神話とか、今まで口伝だった内容を文章にして知らせた方が、興味を持ってもらえると思いました。幅広く国民が字を読めるようになれば、アルガスや大国が付け入る隙も減るでしょうから……」
「凄いなあ……」
そんなことを考えていたなんて……。
彼の興味は、薬草や植物だけではなかったのだ。
ナナンがこの男を尊敬している気持ちが少し分かったような気がする。
「でも……さ、いずれサリファさんは、アルガスに戻るんでしょ? どうして、ここでそんな不利なことをしてるの?」
「識字率を上げるのが不利なことなのでしょうか? そうは思いませんけどね。対等になってくれた方が有難い商売もありますよ」
「そういうものなのかなあ……?」
「君ももう少し大人になったら、分かりますよ。その国の人間でないからこそ、必要なことが見える時もあるようです」
やれに説得力のある一言だ。
やっぱり、シズクは子供のようだ。
もっと勉強をしたいし、見識を深めたいが、この環境でどう勉強をしたら良いのか分からない。
サリファやナナンのように、全国を放浪することはシズクには不可能なのだから……。
「あの、サリファさん、薬を取りに来た人はいなかったよ。僕、お茶を頂いたら家に戻るね……」
「ええ、そうですか。今日は留守番をして下さって、有難うございました。私も何とか無事に戻ることが出来て良かったですよ」
「はあっ!? ちょっと先生、どういう意味よそれ?」
やっぱりというか、案の定というか、ナナンが過敏に反応した。
まとわりつくように、サリファの視線の先をうろうろとしている。
それを知ってか知らずか、サリファはいつもの仮面のような笑みのまま、ふわりと言った。
「そうですね。そろそろ陽が暮れますしね。丁度、雪もやんでいますから、今帰るのが得策でしょうね。ついでといっては何ですが、大変申し訳ないのですが、この子も一緒に君の自宅に連れて行ってくれませんか?」
この時ばかりは、ナナンととてもよく気が合った。
二人して大口を開けたまま、たっぷり時間を設けて硬直した。
――一瞬。
(この人、爽やかな顔して、一体何を言っているんだろう?)
本気で、シズクは思ったのだった。




