空白の三年 其ノ弐
貴方以外は何も要らないから——
「今の私を構成する物」
——懐かしいあの日の匂い。
僕はゆっくりと目を覚ました。寝ぼけた頭をすぐ整理する。なんだったんだ、今の夢…。朱斗くん…?
聞き覚えのある声と、その雰囲気。でも顔が思い出せない。名前もまるで分からない。でも懐かしい。あの日の情景から匂いに至るまで、全てが奥底に眠る古い記憶に直接語りかける。
過去に推理したが、僕の考えでは、夢は現実ではないので、変異が通用しない。変異によって変えた世界も、変異によって消された記憶も。夢を見てる時だけ、変異から遠ざかる事が出来る。
そうすると、今の僕の夢も過去に体験していると言う事だ。しかし決定的な記憶は何も覚えてない。思い出すには変異を解決する他ないのか。解決するヒントになる筈なのに、解決しないと見れない。なんとも焦ったい。
思い出したかの様に時計を確認したが、まだ五時だった。カーテン越しに暗い光が見える。
二度寝はしない。もう目が冴えてしまった。でもまあ、たまには早起きするのも悪くはない。どうせなら朝を満喫しよう。
僕は自室のドアを開いて、リビングに行く。五時特有の薄暗さを孕んだリビングは、何処か異郷感があった。そのまま洗面所に行って顔を洗い、歯を磨いた。時間もあるので、このままシャワーも入ってしまおう。
少し温度を下げ、心地よい冷たさのシャワーを浴びる。頭を覚ますと同時に身体も起こしてくれる。なんだか元気が湧いてくる。この習慣、悪くない。
シャワーから出た後も、家は独特の空気感が漂っていた。身体を拭き、ドライヤーで髪を乾かし、そのまま軽く髪をセットした。寝癖を直す手間も省けて一石二鳥だ。制服を着て、リビングへ向かった。すると人影が見えた。
「おお、おはよ。何かあるの?今日早くない?」
「いや特に。なんだか目が覚めちゃってな。シャワーも入ってきた」
「整った?」
「そりゃあもう細胞から」
キッチンに薫子が立っていた。朝ごはんと昼のお弁当を準備している。まだ五時半というのに大変そうだ。
「こんな早かったんだな」
「準備?」
「ああ」
「いつもの時間でもあんたの朝は早いからこっちも早くなるのよ」
「学校が少し遠いからな。しょうがない」
「もー」
薫子はお昼の弁当の準備から僕の朝ご飯の準備へと変えた。もう出来上がりそうだ。ご飯に鮭にフルーツが机に出される。
「味を噛み締めながら食べな」
「折角の機会だし、そうしてやる」
言われた通りゆっくりと味を感じながら食べた。食器をキッチンに置き、その後僕はリビングのソファーで時間を潰した。そろそろ家を出る時間で、いろはと志朗も起きてきた。眠そうにご飯を食べる姿を見ながら、僕は学校に向かった。
もう空はいつもの顔を見せる。まだ四月なので、そこまで明るくはなく、気温も高くない。いつもより心地よく感じるのはシャワーを入ったからだろうか。
家から最寄り駅までは徒歩で十五分位だ。綺麗な景色とは言えない住宅地を歩く。駅に着き、電車に揺られ、学校の最寄り駅に着いた。そこから少し歩く。周りにもチラホラ学生がいる。同じ制服を着ている者もいれば違う者もいる。一体何処の高校なのだろうと思いながらも、一度も調べた事はない。
通学路を歩く最中で、何やら泣いている子供がいる。その前には身に覚えのある後ろ姿。
「おい。何子供虐めてるんだ」
「ん?あ!違う!違う!私はこの子を助けようと…って朱斗じゃん!」
こいつは同じバイト先で働いている、沙乙女雫。少し天然で忙しない奴。見た目は幼げがあり、中学生のよう。今時の女子高生。
「よしよしーもう大丈夫だよー。怖かったねー」
「だから、違うって!」
「どうしたの?」
「…お母さんが」
「この子迷子みたいで」
「そうか。いつはぐれちゃったの?」
「分かんない…」
「一先ず、交番に行くか」
時間を確認する。いつもより少し早く出たので、急げば遅刻せずに学校に着く筈だ。
「よしじゃあそっちの迷子の子も来て」
「私は迷子じゃないから!」
子供のペースに合わせて歩き、その間に励ましの言葉を入れて、恐怖心を和らげた。その後、無事交番に送り届けられた。はぐれたお母さんに会える事を願う。
「ほら君も」
「だから迷子じゃないって!」
沙乙女で遊んでる時間はない。急がないと間に合わない。
「案外時間ないぞ。走るか」
「人使いが荒いんだから」
「ダイエットに丁度いいだろ」
「太ってないし!」
僕等は通学路を走った。
「お前足キツくないか?」
「何それ馬鹿にされてる?」
「全然太い足が重そうとか言ってないし思ってもない」
「くうー!ムカつく!」
「また大きくなったんじゃないか?」
「えーやっぱり?春休みに食べ過ぎたかも…」
「僕はそれでいいと思うよ」
「男と女の基準は違うの」
こんな調子で雑談を交えながら走っていたら、意外と間に合った。登校時間の五分前には着いた。僕等は教室を目指しながら歩く。
「僕のペースに着いてこれて偉いね」
「えへへ〜…って子供扱いするな!」
「沙乙女は可愛いな」
沙乙女は顔と耳を赤くする。
「うるさい!可愛いって言うな!」
「沙乙女の顔を見るとついからかいたくなるんだ。しょうがない」
「全く。そういえば、最近バイトいなくない?」
本当は昨日辺りで西園達と遊ぶ予定だったから、シフトを出す際、この日周辺を入れないようにしていた。まあ今となってはどうでもいい事だが。
「ああ。ちょっと予定があってな。でも今日からいつものペースで入るよ」
「そうなんだ。あ、私も今日は入ってるわ」
「そうか。嬉しいな」
沙乙女は少し照れくさそうにしていた。
「何それ」
「バイト中にからかえて遊べるからな」
「うわ!ムカつく!私は全然嬉しくない!」
頬っぺを膨らませて僕を上目遣いで睨んでくる。可愛い奴だ。
「じゃあ、またバイトでな」
「んー!!」
沙乙女は二-Bへ向かった。そういえば何気なく会話していたが、まだ沙乙女は消えていなかったのか。良かった。
僕の教室は一番奥のEだ。立花に昨日休んだ事をどう謝ろうかと思っていたが、
——立花はこの日、学校に来なかった。
たまたま体調を崩したのだろうか。僕は今日、HRも授業も常に一人だった。昨日の立花の気持ちがよく分かった。唯一今日学校で話したのは沙乙女と一之瀬だ。沙乙女は朝に話した。一之瀬は、昼休みにこっちのクラスに尋ねてきた。
「今日も見たよ。朱斗くんの夢」
その言い方は何だかあざといからやめて欲しい。
「で、どんな内容だった」
「まあ、また同じ感じかな。でも今日は三人称だけじゃなくて二人称の視点もあったよ」
「ほう。何か話したのか?」
「うーん、詳しくは覚えてないんだけど、楽しそうに話してたよ、朱斗くん。それに私も」
「その二人称の視点は自分の物って分かるのか?」
「まあ、何となくね」
これで少し分かった。僕と一之瀬は中学の時から面識があった。そこから紐解き、何か展開出来ないものか。
あの後は通常通り五、六限を一人で受けて、そのまま帰って今に至る。帰り、廊下を歩いている途中に気づいたが、一昨日来た時からまた、人が減っている。ペースは上がってもないが、下がってもない。今でも着々と変異は進んでいる。焦りと恐怖が天秤に乗る。
駅に着いた時、朝に行った交番に目を持っていかれた。あの子供はちゃんと親と合流できたのだろうか。疑問を残しながら、特に立ち寄る事もなく、再び歩いた。
電車に乗って、いつも通り、今日の出来事を振り返る。別に授業中や、休憩中、常に話していた訳ではなかったが、立花がいないだけで、こんなにも暇なのだと実感した。僕等はお互い唯一のクラスメイトなのだから、協力し合えたら良いのだけど、立花はそもそも協力という言葉すら知らなそうだ。
電車を降りて、一先ず家に帰る。バイトまでは少し時間がある。ゆっくりしてから行こう。
ドアノブに手をかけ、深呼吸をしてから覚悟を決めて扉を開けた。
「あ!!」
「んー」
良かった。今日も大丈夫そうだ。今日は実害のある出来事には遭遇していない。
薫子がリビングにいる。そういえば今日は仕事休みだった。何やら上機嫌だ。
「ねえ。これ、触ってみな」
「ん?なんだ」
何だか多くは語るまいと、そういう雰囲気がある。勝ち誇ったような、満足気な顔だ。机の上にはタオルが畳まれている。とりあえず言われるがまま、それを触ってみる。
「…っ!!なんだこれ!」
「ふっ。これが極地!」
凄い。凄いぞ。肌を優しく包み、まるで雲を触っているかと思わせる、この安心感。まるで幼少期の追憶を刺激する触り心地。そしてなんと言ってもこの吸水性。軽く撫でるだけで身体の表面に着いた水の分子すら残さず拭き取る。このタオルに包まれた瞬間、そこには大地が拡がる。雄大な自然。胎児に戻ったかの様な安らぎと、庇護。
全ての安寧は、ここにあった。
「泣く程凄いとは…恐れ入った」
「すげえ…涙も軽々吸収してくれるぜ…」
流石タオル子。経験と知識の集大成だ。
僕がそのタオルの安心感に包まれた時、今までの苦悩が涙として溢れてきた。
その後はダラダラと過ごして、ふと我に返り時間を確認するともうそろそろ出なければいけない時間だった。僕は早急に準備を済ませ、バイト先へ向かった。
僕のバイト先は駅前の飲食店。そこの裏から入り、タイムカードを切った。制服に着替えていると裏口のドアが開いた。
「うわぁ!なんでここで着替えてるの!更衣室で着替えてよ!」
「ここで着替えて、あわよくば沙乙女が来る事を願ってた」
「思う壷じゃん」
「積極的だなお前」
「なんでこの時間に来たんだろ」
沙乙女はブツブツ文句を言いつつ更衣室で制服着替えに行った。制服に着替えた後、座っている沙乙女の頭を後ろから撫でた。
「道に迷わず来れて偉いな」
「えへへ〜…って甘やかさないで!」
僕は時々沙乙女をからかいつつバイトに勤しんだ。その途中、思わぬ来客があった。
「はーい。お一人様で…って立花じゃん」
「久しぶりね雨宮くん。その低い姿勢とってもお似合いよ」
「僕の天職は召使いですね。それで、どうしたんだ?」
「どうしたって、食べ物を食べに来たのよ」
「いやそりゃそうなんだけどさ。ほら今日休んだじゃん」
「昨日のお返しよ。同じ屈辱を味わいなさい」
「なんだよ。ああ悪かったな。ところでなんで立花がここにいるんだ?」
「食べ物を食べにここに来たのよ」
「だから、そんくらいは分かる。お前この周りに住んでる訳じゃないだろ。なんでここなんだ。しかも僕が働くここに」
「本当、酷い偶然よね」
「全くだ」
「早く案内してくれる?後ろに人が来たわよ」
「ああ、そうだった」
僕はテーブル席に立花を座らせた。
「ご注文決まりましたらお呼びください」
「いや、もう決まったわ」
「はいお伺いします」
「普段から私に対してはその対応でいいわよ。これから私の召使いなんて、皆から羨ましがられるわ」
「そりゃ良い」
「じゃあ雨宮くんをお持ち帰りで」
「ご注文は天才のイケメンで宜しいですか?」
「やっぱそれを枝豆に変更で。プラスでこの季節薫るスペシャルパフェをお願い」
「僕の価値は百円かよ」
「最低価格がそれしかないのよ」
「更に求めている訳じゃない」
疑問は残ったままだ。何故立花がここに来ていて、さらに僕の働くこの店に来たのかは分からないけど、偶然と言う事にしとこう。
「あれ、立花さんだよね?」
「ああそうだな」
「仲良いの?」
「まあ同じクラスだからな」
「本当に綺麗だわー。私もあんな雰囲気出せたらなー」
「沙乙女には天地がひっくり返っても無理だな」
「何それ!ムカつく!」
「得意不得意があるもんだ。お前はお前の長所を伸ばせ」
「なんかいい事言ってくれるじゃん。私の長所って例えば?」
「肉付きがいいとか」
「死ね!もうマジムカつく!」
ツンツン文句を言いながらキッチンへ帰っていった。
「はいこちら季節薫るスペシャルパフェと僕です」
「ご苦労」
立花は直ぐさま枝豆を食べ始めた。
「いつもより美味しいわ」
「その枝豆僕が盛り付けたからな」
「自分が自分の盛り付けって」
「ごゆっくりお召し上がりください」
立花はこっちを見ながらパフェを食べている。なんでこっちを見てくるんだ。
「ねえ。立花さんの席の片付け私にやらせて!」
「ああ良いけど、なんでた?」
「近くで見たいのよ」
立花はパフェと枝豆を食べ終わり、水を飲んでいる。そこに沙乙女が寄る。
「お済みのお皿お下げしますね!」
「ええ。有難う御座います」
「(パフェと枝豆って変な組み合わせ)」
お皿を小さな身体で頑張って運んでいる。蟻みたいだ。
「どうだった?」
「本当に凄い綺麗で美しかった…羨ましー!」
「まあそうだな」
外見だけなら否定する所はない。外見だけなら。
「にしても枝豆とパフェって変な組み合わせだね」
「その枝豆は僕だ」
「は?」
「ん?」
立花が出ようとした時、一声かける。
「明日は来いよ」
「何を言っているの。明日は土曜日よ」
そうだ。そうだった。死にてえ。
「間違えた。月曜な」
「お互いにね」
立花が帰った後も、少しバイトをしてその後自分も帰る準備をした。
「お疲れ様!次日曜ね!」
「ああ。日曜逢えたらいいな」
「逢えたら?」
僕は振り向くことはなくそのまま帰宅した。これは本当の想いだ。また沙乙女と日曜日にバイトが被る。その時にはもう消えているなんて事起きませんように。
ぼんやりと帰路を歩く。その最中見覚えのあるお爺さんがいた。
「あのー」
「ん?あーこの前の若い…あぁ、そうか…」
「ん?え?どうしたんですか?」
「お前さん、早く変異を取り払うんだ」
「早く、ですか?」
「お前さんに取り巻く変異を早めに解決しなければ、酷い状況になってしまう」
「そんなに強くなっているんですか?」
「いや、お前さんが思っているやつとは別の方が強くなってきておる」
「別の方…ですか」
「ワシに言える事はこの程度しかない。今更言って変わるものでも無い」
「…」
「じゃあなお前さん。ワシも急ぎの用があってな。もう一度言うぞ。なるべく早く、変異を解決するんだ」
「…はい」
別の方。考えれば考える程謎は深まる。早めに解決と言っても、まだ誰かかも目星はつけられていないというのに。
そのお爺さんの焦りと諦めに満ちた声が頭で木霊する帰り道を歩いていたら、気づいたら玄関に着いていた。またもあのトラウマをフラッシュバックしながら戸を開けた。
「あ!!」
「んー」
今回も大丈夫。薫子といろははリビングにいた。志朗は多分まだ帰ってない。
「ご飯温めて食べてね」
「おっす」
ラップで蓋をされたご飯とおかずをレンジで温め一人でご飯を食べた。その時もシャワーの時も寝る時も、あのお爺さんの言葉と顔が気がかりで、どれも集中出来なかった。
明日はバイトも予定も無い。ゆっくり寝るとするか。
僕は徐に目を瞑り、眠りに入った。
——見覚えのある田園風景の中心に立っている。
「ねえねえ!進路何処に決めた?」
「…」
「一緒のとこ行きたいから!」
「…」
「え、遠いね。どうしてそこなの?」
「…う」
「分からないって。変なの!」
「…ゅう」
「しゅう!!」
——眠りから覚めた。薫子が僕を揺さぶってくる
「どうしたんだ。まだ七時だろ。何かあったか?」
「あんたの友達が来たのよ」
「ん?友達?誰?」
「え〜っと…一之瀬って人だったかしらね」
え?一之瀬?どうして僕の家に?てか、
——なんで知ってる?
二千二十年四月十三日
二千二十年四月十四日




