空白の三年 其ノ伍
貴方以外は何も要らないから——
「大いなる想いには、それ相応の代償が伴う。その代償は例えば……」
——眠りから覚めてしまった。最早昨日いつ寝たのかも覚えてない。死んだように寝て、夢も見ず、気づいたら朝だった。時刻は六時丁度。少し早いが、眠い訳でも無い為、この前入って気に入った、朝シャワーでも浴びてこよう。
冷たいシャワーを頭から浴びながら、ぼんやり考える。立花による変異。一之瀬の手紙。過去最大規模の事柄が二つ同時に襲いかかる。しかし僕は落ち着いていた。放心状態と言ってしまったら、九割はそうなのだが、一割は違う。その一割は、
真実まで、大きく前進した事だ。
前回までは何も確信的な手がかりがないので、予想、推察で止まり、その先が進めなかった。その事が何より忌々しく、焦れったかったか。でも今、やっと大きな一歩を踏み出した。今まで繋がれていた鎖が解ける音が聞こえる。
しかし、問題は何も解決してない。立花の件、一之瀬の件はどうしたものか。一之瀬の件に関しては、触れないだけで良いのだが、立花は…。
立花を問い詰めないと話は進まない。見て見ぬふりをしているだけじゃ、何も解決しない。でも、今その事実を立花に告げた所で、どうなるのかの予想もつかない。上手く話がまとまってない内は、まだ大胆な行動に出ない方が吉と言える。
立花の行動と発言には今まで以上に注意を払いつつ、加えてなにか新しい推理が出来る要素があれば、それも取り入れる。一先ずは様子見だ。
朝の準備の事など考えていなかったが、無意識に身体が動いていた。もう後はご飯を食べるだけ。薫子に出された料理をゆっくりと食べて、疲れた足取りで玄関を出た。
最寄り駅に着き、改札目掛けて歩いていた最中、後ろから声をかけられた。
「朱斗くーん」
驚いて振り返ると一之瀬がいた。七里ヶ浜で会ったぶりか。いや、本当は違うんだろうけど。
そういえば帰り際、よく分からない事を言われたよな?それを言われてから僕は…まあその件含め手紙の内容含め、なんだかどう接すれば良いのか分からない。
僕が言葉を詰まらせていると、それを察したのかそっちから話題を振ってきた。
「ん?どうしたの?体調悪い?」
「いやいや全然。ちょっと驚いてな」
「そんなびっくりした?」
「膵臓が出そうな程」
「心臓の下まで行ってるじゃん」
一之瀬は普段と変わらずに接して来てくれた。やはりあの手紙については僕から聞かない方が良さそうだ。そっちが話す時、話さないと行けない時に話してもらおう。呉々もそれを話す前に消えないでくれよ。
「なんか久しぶり」
「2日ぶりだろ。でもなんでだろうな。確かに久しぶりに会った気がする」
恐らく、始業式から最初の休日だからだろう。日が空いて会うのは初だ。
僕等は改札を通り、プラットフォームに着いた。僕は、いつもとは別の行き方でプラットフォームへ行った。いつもは真っ直ぐにある階段を下るが、一之瀬はその反対の階段を下る。今日は一之瀬に合わせて普段は通らない階段を下った。なんだか新鮮だ。別の駅の様だ。
数分経って、いつもお世話になっている電車に乗る。そういえば、僕と同じ時間という事は、一之瀬はいつもより少し遅いのか。偶然か。それとも意図的か。
「あ、これ」
僕は一之瀬の鞄の変化に気づいた。
「あ、そうそうこれ鎌倉の時のお土産」
「てか自分の物なのにお土産って変だな」
「せめて二人でお互いの買えば良かったかもね」
「それ、鞄に付けてるんだな」
「そりゃそうだよ。キーホルダーなんだし、と思ったら付けてない人が一人」
「落したり壊したりしたら大変だろう。僕はもっと安全な場所に保管してある」
「そんな大切にしてくれてるなんて」
「当たり前だ。仮に僕等のどっちかが消えて、それを忘れてしまっても、これで思い出せるかもだしな」
「確かに。そうなら良いね」
その言葉は何処か、諦観の念を抱いていた。頭では期待してるけど、心では期待出来ていない。そんな調子だった。しかし当時の僕は、何も気づけなかった。
「ねえ朱斗くん」
「ん?あ、そうだ。この二日でまた夢見たか?」
「そう。その話」
一昨日、言及された夢の内容。あんな事を言われてから訊くのは少し躊躇いを感じるが、それでも、より真実に近づく方が余っ程良い。
「一昨夜は私と朱斗くん二人で遊びに行く夢。そして昨夜は…」
一之瀬が次に言う言葉が怖い。僕はどうか、最悪の事態にならない様に心の中で強く願った。
「朱斗くんが道路の上で蹲って泣いてる夢」
道路で泣いていた。僕はそんな夢を、何処かで見た。懐かしいあの日の匂い。正面にいた女。
ああ…思い出した。一面に広がる田園風景に一直線の道路。その中心で泣いていた僕。それを励ます白いワンピースの女。神社で気を失った時に見たあの夢。そうか。そうだったのか。正面にいた彼女は、
一之瀬だったのか。
何処か儚げない、触れたら消えてしまいそうな、泡のような彼女。言われてみれば、少し似ている気がする。まあでも髪型は違うし、今より少しだけ幼く見える。
僕にその記憶がないのと、それを夢で見たという事は、中学生の頃の記憶だと予想出来る。
「朱斗くん、凄い辛そうな顔してた」
勿論、僕には中学生の頃の記憶が無い為、当時感じていた哀しい気持ち等分からない。あの時に一之瀬の放った言葉も殆ど覚えてない。
「なあ一之瀬。その話詳しく聞かせてくれないか?」
「……」
一之瀬は俯いて何処か迷った顔をしている。
何かを決心したのか、僕の方を見て口を開けた。
「ごめん。この話も、今は聞かない方がいいかも」
「……そうか」
今は。
今聞くことで何かしらの影響があるのだろう。そう、それは、あの手紙の内容のように。無論、深堀する事もヒントを貰う事もしない。
ここ最近で、一之瀬と僕との間に酷く哀しい、それでいて必ず知る必要がある、重大な過去がある事を、僕は知った。一之瀬が口を開くその時まで、僕はただ祈る事しか出来ない。
この後はひたすら、たどたどしく、ぎこちない会話が続いた。
「じゃあな」
「うん、またね」
各々のクラスへ向かう。一之瀬は階段を登ってすぐのAだが、僕は一番端のEだ。他クラスの様子を伺いながら廊下を歩く。案の定、また人が減っていた。もう全体の三分の一程度の人間しかいない。しかし前ほどの焦りは無い。犯人の目処はついている。
そしてそれは、この教室にいる、
「おはよう。雨宮くん」
二人だけの教室に座る立花。
「ああ。久しぶりだな」
今はまだ、平然を装う方がいい。もっと確実な証拠や解決の目処が立った時に、真実を突き詰めるべきだ。
「あら、この二日間で疲れは取れなかったの?いつにも増して死んだ目をしているじゃない」
「僕はいつもこんな感じじゃないか?」
「言われてみればそうね」
荷物を出していると手を滑らしてしまった。ゴミが散らかる。そのゴミは立花の椅子へ向かった。鎌倉抹茶ソフトクリームと書いてあるソフトクリームのゴミ。立花はそれを拾い、僕に尋ねてきた。
「これ何?」
「あー、一之瀬と鎌倉に行った時に食べたやつのゴミだな。すまんすまん」
「そう」
立花は僕の手にゴミを渡し、再び姿勢を正して前を向いた。僕はそれを眺めながらゴミを教室のゴミ箱に捨てた。
「さ、雨宮くん。早く帰りましょう」
「そうだな」
授業も終わり立花と教室を出た。階段を下っていると一之瀬とすれ違った。
「お、じゃあねー」
「ああ。またな」
校内には不気味な静けさが漂っている。人気がなく活気のない、まるで夜中の学校の様な薄暗さ。
「なあ、立花」
「何?」
「お前はこの世界に満足してるか?」
「それはどういう意味?」
「そのまんまだ」
「そうね。私達が生きる上で必要な酸素もあって、水もあって、豊かな生態系があって。この地球には満足してるわね」
「まあ…そうだな」
いや、普通ならこれが模範解答なのかもしれないな。変異がどうなんて、最初から馬鹿げた話だ。
「でも」
「でも?」
「最近の世界にはもっと満足してる」
「……そうか」
その言葉の意味が、僕には分かる。聞きたくなかったのに聞いてしまった本音。そもそも、なんでこんな事を聞いたのか分からない。立花の口から何か変異の事を話して欲しかったのか。いや、やっぱりそんな事ないな。ただ聞いてみたかっただけなのだろう。
「じゃあね。雨宮くん」
「ああ。またな」
いつもの帰り道。もう何百回と通った道。しかし何故だろう。今日の景色はいつもより澱んで見える。
僕はそのままバイトに向かった。
「どうしたの朱斗?今日は随分と目が死んでるね」
「僕はいつもこんな感じじゃないか?」
「確かにそうだったね」
「沙乙女もまた身長縮んだか?」
「嘘?!って昨日会ったのにそんなわけないじゃん!」
「身長は縮むのに体重は増える一方なんですーってか」
「むかつく!なんで私の悩みが筒抜けなの!もう行きますよ」
僕は時間までバイトに勤しみ、身体と精神共に疲れたこの身を家へと運んだ。
「あれ?帰ってきてたならただいまを言ってよ」
最早ただいまを言う気力もない。少しずつ僕の心に積み重なり、今はまだバランスを取れているが、いつか崩れてしまいそう。
「もう暖かいからチンはしなくていいよ」
「おっけい」
目の前には夕食がある。それをいつもより早く、そしていつもより多く食べた後、すぐに寝る準備を済ませた。一秒でも早く寝たい。しかし僕は寝る事に対しても、一抹の不安がある。どんな夢を見るのか。恐ろしい事実か、悍ましい真実か。そんな不安を抱えながら寝なくてはならない。
まあそんな事も、寝てしまえば全て忘れてしまう。明晰夢の様に夢の中で夢だと自覚した事はない。次この現実を思い出す時は、朝起きた時だろう。
僕はゆっくりと目を閉じた。この現実から逃げるかの如く。
——薄暗い部屋の中央に立っている。傍には女。ベットにうつ伏せに転がる立花。突然視線を向けて、口を開ける。
「ねえ雨宮くん。明日は」
——もっと、満足出来る世界よ。
「っっ!!」
飛び起きるように目を覚ました。心臓が波打つ。体が痙攣する。動悸が止まらない。
耐性がついたのかは分からないが、深呼吸をし、身体をじっと丸めていたら、すぐ収まった。
あれは恐らく、立花の部屋だ。薄暗くてあまり見えなかったが、勉強机の壁に不気味な物が薄らと見えた。
それは、僕の写真だ。
いつ撮ったやつなのかも、いつ撮られたのかも分からない。それを眺めている暇もなく、立花が夢の中の存在である筈の僕に話しかけてきた。最初からそこに来る事が分かっていたかの様に。恐ろしく、それでいて、何処か優しい眼差しで僕に話しかけにきた。
明日の世界…即ち今日だ。今日のこの世界が、立花にとって、昨日よりも満足のいく世界だという事だ。わざわざ言ってくるあたり、通常とは比較にならない変化があるのだろうか。
途端に不安と恐怖が僕を襲う。怖い。怖い。怖い。
心の中で、いや最早この身体、五臓六腑全てで祈る。祈った所で何も変わらない。そんな事分かっておきながら、それでも尚、祈る事を辞めなかった。
リビングに行くのが怖い。家を出るのが怖い。電車に乗るのが怖い。電車を降りるのが怖い。
学校に行くのが、怖すぎる。
僕が恐怖に押し潰されて、頭を抱えていると、部屋の扉が開いた。薫子が起こしに来た。
「あれ、もう起きてるじゃん。早く降りてきなさい」
まあ、流石に無いよな。家族が消えるなんて。少しの安堵を抱えてリビングに向かい、朝の準備を済ませた。もう既に少し遅刻してしまうのは確定した。まあしょうがない。学校へ行く決心がついただけでも、よく頑張ったと自分を褒めてやれる。
覚悟を決めて玄関の扉を開けた。
そこにはいつも通りの通学路。空は曇っていた。自分を奮い立たせ、足を動かす。駅に近づくにつれ、再び安堵する。
いつもと変わらぬ人混み。
まだ、学校外の人間は消えてないそうだ。
僕は僕の言葉で血の気が引いた。学校外。では、学校内の人間は…。
「嘘だ…」
僕は自分が思った言葉が事実にならない事を願い、走った。一心不乱に走った。半狂乱になりながら走った。
いつもより電車が遅く感じる。焦れったい気持ちを必死に抱え、ひたすら学校の最寄り駅に着くことを願っていた。
ついた瞬間、通学路を全力で走る。
同じ制服の人が誰もいない。
いや違う。これは僕が遅刻しているからだ。
校内に入ってすぐの事務室に人がいない。
いや違う。これは何か会議をしているのだろう。
校内に入っても、物音一つしない
いや違う。今は試験かなにかやってるのだろう。
僕は階段を二段飛ばしで登る。その勢いのまま、廊下を全力で走り、教室を見た。どうか、見せてくれよ。
一之瀬の顔。沙乙女の顔。残りの三分の一の生徒。
僕の足は止まった。
「ああ……」
外は雨が降っていた。風が木を揺らし、遠くで雷の音がする。
僕は再び足を動かした。自分のクラスに向かって。何も考えられなかった。足が勝手に歩き出した。
教室には立花。ゆっくりと僕に視線を移す。
「おはよう雨宮くん」
——昨夜はよく眠れた?
僕はあまりの恐怖でそこから逃げ出した。本能がそうするように命じた。
「…ゴホッゴホッ」
息切れではなく、現実逃避の咳。本当に勝手に出る、心臓の咳。肺ではなく、心臓が痛くなる。
「おい…なあ!!」
「おい!誰かいないのか!誰でもいいから!」
この学校にもう誰もいない事など、薄々気づいていた。考えないようにしていた事すら僕は知っている。
「誰か!頼むから!一人くらい!」
それでも、現実に抗うようにありったけの大声で叫ぶ。体を支配する恐怖を叫ばないと、内から壊れてしまいそう。
「西園!野々宮!」
もっと前に消えた奴等がいる筈ない。そんな事は僕が一番理解している。
「四条先生!沙乙女!」
先生ならいる。いや、そんなわけない。なら沙乙女なら。あいつのことだから、どっかで迷子になってたり。いや、考えるだけ馬鹿馬鹿しい。
「なあ…誰かいないのか……なあ!お願いだから!」
廊下の壁に、もたれかかった。ようやく足が限界を迎えていることに気がついた。床に四つん這えに倒れる。
「…なあ…誰か…」
「…」
「一之瀬!!」
数秒の沈黙の後、前からスタスタと歩く音が聞こえる。それは僕の前で止まった。
「そんな大声出さなくても聞こえるよ」
「…一之瀬」
僕はその名を呼びながら顔を上げた。ゆっくりと、事実を確認する様に。前にいるのは、一之瀬だ。
「ほら、立って」
僕はこんな光景を何処か懐かしく感じた。僕の知らない過去で、こんな事があった気がする。
「…一之瀬…なんでいるんだ?」
一之瀬は沈黙の末に、口を開いた。
「私が秘密にしてた事、話す時が来たみたい」
二千二十年四月十六日
二千二十年四月十七日




