空白の三年 其ノ肆
貴方以外は何も要らないから——
「いい加減、目を覚まして」
——予期せぬ事態は、返って僕を落ち着かせた。最早どういう感情を持てばいいのかも分からない。しかし、疑問だけが僕の頭を右往左往する。
何故、帰りの記憶を思い出せないのか。何故、一之瀬は、逆に目を引かれるのに、あえて手紙を残したのか。その夢の内容は何なのか。
一之瀬は、夢で何を見たのか。
この手紙に反して、内容を一之瀬に聞くつもりは無い。この指示には従うべきだと、本能が言う。そもそも僕にとって不利な情報を耳にした所で、何の得もない。少しの疑問が解消されるだけであって、それに価値はない。
僕は手紙を机に置き、時間を確認する。今日はバイトがある。昼からだ。一先ずもうこの手紙の内容を深堀するのはやめよう。次いでに、帰りの記憶の件も、一旦置いて置こう。
全くいつも通りじゃない、僕の日常に戻ろう。いや違う。非日常に戻ろう。僕はあの生活を日常とは思っていない。思いたくない。
バイトまで、まだ時間はある。とりあえずベットの匂いでも吸いに行くか。
気がついたらもう家を出る時間だった。僕は軽い荷物を持って、重い頭と重い足を引き摺る様に家を出た。
裏口のドアを開けて、中に入る。更衣室にて、制服に着替え、タイムカードを切る。最早機械的に、何も考えず動いている。そんな調子のまま、ホールへ向かうと、もう沙乙女が客を案内していた。僕は沙乙女を目で追う。沙乙女は僕に気づくや否や、こっちを見て睨んできた。僕は苦笑いを浮かべた。
「ねえ!さっきの顔何?マジムカつくんですけど」
「別に馬鹿にしてる訳じゃないぞ」
「じゃあなんの顔?」
「虚仮にしてる」
「結局馬鹿にしてるじゃん」
僕は同じ顔を作った。
「うざいうざい!一体何処で覚えたの!」
「お前に送る為に毎日鏡で練習してた」
「えーっと、一一九っと」
「火事でも救急でもないだろ。一一〇の間違いだぞ」
「あ、そうだった」
こいつと同じ高校に通っている自分が情けない。
「良かったな。殺人犯に追われている時に、間違えて一一九に電話して死ぬ事は無くなったな」
「朱斗に間接的にでも命を助けてもらったとか、死んだも同然じゃん…」
「そんな事言うなよ。一応人助けはこれで二人目なんだぞ。もっと褒めてくれよ」
「はぁー?もう一人救ってんの?」
「ああ。それも間接的じゃなくて、直接、命を救った」
「夢の中の話は無しだよ?」
この質問にはどう答えるべきか。夢で見たけど現実で起きた事。まあ半々と言った所か。そんな事言っても伝わる訳がない。そんな事は分かってるけど、こうとしか言えない。
「夢と現実の半々ってとこかな」
「…?」
「(ピンポーン)」
「ほら、呼び出されてるぞ」
「なんで私なの」
ややこしい話をして、軽く混乱した表情を見せる。何か言いたげだったが、そんな余裕は無いので、渋々客の対応をしていた。僕もそろそろちゃんとやるか。
飽きたら沙乙女にちょっかいを掛けつつ、僕はバイトに勤しんだ。一通りバイトが終わり、裏で休憩をしていると、案の定沙乙女から質問された。
「さっきの、夢と現実の半々ってどういう意味だったの?」
まあそうなるよな。もう大人しく正直に答えよう。
「僕は、ある女の子の命を救った夢を見たんだ。僕は夢だと思ってたけど、色々な方法を使って過去本当にあった出来事だと証明された。でも僕は過去に現実の世界でその女の子を助けた事なんて全く覚えてないんだ。あくまで夢で見ただけって感じ」
「えー。なんか…信じられない話。普通の人が聞いたら引くよ?」
「まあだろうな」
「それで、誰を助けたの?知ってる人?」
「ああ、立花だ」
「……ん?」
人は本気で驚くと瞬きを忘れる。今知った豆知識だ。
「立花さん?」
「そうだ。立花だ」
「…えぇ?」
「なんだその反応」
「いや…ちょっと変化球すぎて」
「まあさっきも言ったけど、僕にはその助けた記憶はない。だから僕だって確信がある訳じゃない」
「まあ、それでもそれは本当にあったんでしょ?」
「僕だって信じてないけど、本当らしい」
確信は無いけど、本当なのは分かる。今までの夢を鑑みるに、恐らく中学生の時に僕は立花を助けた事がある。そう。自殺を止めて。
だから、記憶もないし、その時一度、会ってた事も知らなかったのだと思う。
「それで、どんな風になんて言って助けたの?」
「あんま詳しく言える事ではないけど、僕は立花の命を救った。そういえば助けるついでに、なんか言ってたな」
「立花さんの…命を?」
「そうらしい」
「なんて言ったかは思い出せないの?」
「んーなんだっけな?確か…生きる意味が無いなら愛を知ればいい、みたいな事を言ってた気がする」
「うわ恥ずかし」
「そうだな。僕にも何故当時の僕がそんな事を言ったのか理解出来ない」
「まあ、でも」
「でも?」
「いやまあ…その状況になってみないと分からないかもだけど、命を救ってもらって、その後にこの言葉をかけられたら、結構かっこよく見えるかもしれない」
「そうか?」
「うん。私だったら多分好きになってるかも」
「遠回しの告白なら、遠慮するぞ」
「違うし!」
でも、今まで考えた事もなかった。実際聞いたら、どうしてそんな事を思い出せなかったのか。そういえば僕はそんな事を口に出してた。「私だったら好きになってる」か。そういう物なのか?仮にそうだとしたら、
立花は僕を「愛」してるのか?
僕が言った、「生きる意味は愛を知る事で見つかる」という言葉通りに行くなら、その可能性はある。でもあるだけだ。そんな素振りは見せてこないし…
…いや、見たかもしれない。
心当たりはある。僕以外のやつとは話そうともしない癖に、僕には話しかけに来たり、異様に僕の行動を知りたがったり、僕と一緒に帰りたがったり。あの神社の件だってそうだ。
始業式からの違和感が膨れ上がる。
僕の知っている立花、耳にしていた立花はこんな人間ではなかった。もっと口調が鋭い?もっと厳しい性格?いや違う。
もっと無関心だった筈だ。
誰とも話そうとしない。人に関心がない。そう。立花からすれば、周りの人間は空気同然なのだ。と、一年の僕はそんな事を耳にしていた。でも違った。正確には、僕だけに限り、違っていた。
この際、口調とか性格とかは関係ない。話しかけに来る事自体、誘われる事自体、人として扱われる事自体が、僕にとっては違和感だった。
始業式当初の違和感が今分かった。あの口調も、あの態度も、あいつなりの優しさなのだ。優しさと言うか、あれが楽しく、幸せなのだろう。別に僕も、立花が悪意を持って話している様には見えなかった。だから僕も、正直話しやすかった。
今までの話を整理すると辻褄は合う。合わない要素が無い。
中学の時に、僕は立花の自殺を止めた。そして、生きる意味が見つけられない彼女に「誰かを愛しろ」と言った。命の恩人でもあり、生きる意味を見出してくれた僕。立花はそんな僕を愛する事で生きる意味を見つけた。
今更何故自殺しようとしているかは後回しだ。それは中学の記憶を取り戻せば、分かる事だ。
「じゃあお先に失礼しまーす」
「おつかれ」
沙乙女がドアに手を当てながら言う。僕は反射的にそう答えた。沙乙女が出ていくのを見て、漸く帰る事を思い出した。
僕は制服を脱ぎ、準備をしてバイトを出た。神妙な面持ちでトボトボと帰宅し、軽く夜ご飯を食べてそのまま自分の部屋に戻った。
机の上には行く前に見た、一之瀬からの手紙。再度目を通しで、もう一度考える。
この件が一之瀬の手紙の内容なのだろうか。でもこれを知った所で、どういう影響が及ぶのか、まるで分からない。
——いや嘘だ。思い当たる節は、ある。
僕への関心。僕と立花だけのクラス。夢の内容。
消えた人々。消えた神社。消えた記憶。
あの神社の時、脳裏に過ぎった恐ろしい仮説の欠片が、徐々に繋がっていく。信じたくない。脳が信じる事を拒否する。筋違いな点はないか。齟齬が生じてないか。しかし、考えれば考える程、僕の理想とは掛け離れた結論が出てしまう。もう……そうとしか、考えられない。
変異の原因は、
——立花だったのか。
二千二十年四月十五日




