空白の三年 其ノ陸
貴方以外は何も要らないから——
「もう覚悟は出来てる」
——僕の知らない僕の過去にも、こんな事があった。僕を助ける一之瀬。一之瀬はどんな時でも、同じ様に僕を助けてくれる。
「秘密を…話す?」
「少し場所を変えよっか」
一之瀬は優しく微笑んでいる。しかしそれは何処か諦めた様な笑顔。何となく予想出来る。恐らく、この話で、
歯車は大きく動き出す。
僕らは学校を出た。人を忘れた、この学校を。二人で帰路を並んで歩く。さっきまでここを走って学校へ行ったのに、もう同じ道を辿っている。しかし学校にいたこの一瞬は、重すぎる。最早長く居すぎたと感じる。
駅に着き、何処へ向かうのかと聞こうとした矢先、一之瀬は改札口へ向かった。小田急線の改札口。これもまた、今朝通った道。いや、毎日通る道。そんな通い慣れた道の筈なのに、僕は道案内されているかの様に、一之瀬の後ろに着いていってた。
乗った電車は、快速急行藤沢行き。電車内は騒がしかった。これから遊びに行くのであろう大学生、私立学校の生徒。そんな者の楽しそうな話で活気としていた。対して、僕等の間には世間話も、与太話も何一つ飛び交う事はなく、静寂に包まれていた。
乗ること数分、てっきり家の最寄り駅で降りるのだと思っていたが、一之瀬は降りる気配を見せず、そのまま通り過ぎてしまった。降りる場所がここではないのなら、もう行く場所は何となく予想出来た。
「(次は終点、藤沢です)」
一之瀬は席を立ち、電車を降りた。僕もつられて席を降りる。そのまま改札口を通り、人の行き交う開けた通路に出た。一之瀬の行く場所は何となく分かる。そしてその予想は当たった。一之瀬は江ノ電の方へ向かった。僕もついて行く。
僕の疲れた足取りとは裏腹に、一之瀬は真っ直ぐ、一歩一歩を噛み締めて歩いている。その一歩に、計り知れない想いが込められている。僕は改めて息を呑む。緊張する。手が震える。
その震えた手で江ノ電の改札口を通る。すぐ傍には、窓枠の辺りをクリーム色で、上下を緑で挟んだ、四両編成の電車が鎮座している。最近顔を合わせた筈なのに、やはり特別感が拭えない。その一番前の車両に乗り、出発を待った。
鎌倉行き。この電車はノロノロと走り出した。最早走った方が早いのではないかと思う程、ゆったりと走り、これから速度を上げるのかと思いきや、速度を落とし始め、次の駅に到着した。
数駅進んだ後、辺りは住宅地となった。家と家の間を、手を伸ばしたら届きそうな距離で進んで行く。一瞬見えるシーフードのお店や、家に立てかけてあるサーフボードが、海がすぐ傍にある事を実感させてくれる。
江ノ島に着き、人の乗り降りが少し激しくなった瞬間、一之瀬が口を開けた。
「ねえ。ここで降りた事、覚えて…ない?」
その言葉には、願いが込められていた。この返答一つで、彼女の運命が大きく変わる様な、そんな気がした。僕はそれを分かってても尚、偽りの返答をするのではなく、真実を告げた。
「ごめん。覚えてない」
自分ではそれがどう伝わったのか、どう見えたのか、知る由もない。しかし決定的に分かる事はあった。
これは、望まない回答。
「そうだよね。ごめん」
景色は空気を読まず、窓はどこまでも続く海を映し出した。空の薄い水色に海の青色。その境界線に多くの人が魅了される。しかしこの二人の間にはそんな美しい物が痛かった。空気を読まない絶景に目を背けたくなった。
一駅挟んで七里ヶ浜に到着した。一之瀬はここで降りた。僕も一之瀬が降りる前から出る準備は済ませていた。大方ここで降りる事は予想出来た。短く狭いホームに簡易的な改札口。朝のこのホームは、どこか新鮮だった。一之瀬はホームに降りた瞬間、僕を見る事なく、口を開け始めた。そのままゆっくりと歩き始める。
「むかーしむかし、ある所に小学生の男の子がいました。そして、ある所に小学生の女の子もいました」
一之瀬はゆっくりと進みながら話を続ける。改札口を通ってる間も話を止める気配は無い。
「ある日の事、女の子は、公園で酷く泣いている男の子に出会いました。女の子は幼いながらに、その泣き方が普通では無い事を悟ります」
「声を押し殺し、必死に耐えている。辛い現実から目を背けないように、抗っている。目を背けた瞬間、自分を構成する全てが壊れてしまう」
「女の子は男の子の泣き方を見て、そう悟りました」
「女の子は勇気を振り絞って、男の子に話しかけました。「どうしたの?なんで泣いているの?」と、気になっていた事を真っ直ぐ伝えました。すると男の子は満身創痍な状態の中、俯いたまま、独り言の様に答えました。「全員死んだ」と。続けてこう答えました。「お父さんもお母さんも妹も。全員、僕が殺した」と」
「女の子は少々驚きましたが、続けて質問をしました。「君が殺したの?どうやって?」と、少し意地悪な事を聞きました。男の子は答えます。「僕を助ける為に、皆死んだ」と」
七里ヶ浜に着いた後も一之瀬はこの話を続けた。そのまま、砂浜に行く階段を降り、一之瀬は波打ち際で足を止めた。
「川崎一家連続殺人事件。川崎市に住む家族が次々と殺害された連続殺人事件。その当時はこのニュースで持ち切りでした。川崎市に住む家族は恐怖と畏怖に包まれ、安心して寝られませんでした。否、違う。怖いと思う反面、自分の元にはどうせ来ないと、大半が思っていました。男の子の家族も同様です」
「しかし不幸にも、それは男の子の家族を襲いました」
「親は子を守る者。襲われた時も、必死に守ってくれたのでしょう。親は見事、自分の命と引替えに子供の命を救う事が出来たのです。しかし、片方を除いて。もう一人の、妹は助けられなかった。残された男の子は必然的にこう思ってしまったのでしょう」
「自分を助ける為に皆死んだ、と」
「女の子は男の子の手を掴み、必死に慰めました。「貴方のせいではない」と、何度も繰り返しました。しかしそんな言葉も、男の子にとっては傷を抉られるのでしょう。「うるさいなぁ!」と一蹴されてしまいました。それでも女の子は諦めませんでした。空いた心を埋めたい一心で。少しして、漸く男の子は口を開けました」
「「なんで僕等なの?」と。それには苛立ちと憎悪と悲しみが織り交ざる、細さの中に確かな力強さがある、そんな声でした。誰もが自分は大丈夫と決めつけてました。なんの確証もないのに」
「その後、男の子はこの出来事を苛立ちと共にポツリポツリと説明してくれました。全て話し終えた後、男の子は必死に抑えていた涙が、意志とは反して勝手に零れ落ちた事に驚きと恥ずかしさで動揺してました。女の子は男の子の頭にそっと手を置いて包むように撫でました。男の子の目から大粒の涙が零れ落ちました」
何の話か、なにも分からない。それでも、聞かなければならない気がする。一之瀬から不思議な想いを感じる。
「その後、女の子は男の子の空いた心を埋めてあげたい一心で出来る事を尽くします。次第に二人は互いにとって掛け替えのない存在となったのです。なにか特別な事がある訳ではありませんが、ただ傍にいるだけで安心する。そんな関係となりました」
「時は経って、二人は中学生になりました。中学生になっても二人の関係は変わりません。互いが互いを支え合う。一つ変化があるのだとしたら、思春期に突入した事で、少し照れくさくなったくらいです。暫く二人は平穏な暮らしを手に入れる事が出来ました」
「しかし、そんな日も永くは続きませんでした。転機は突然訪れました。中学二年生に上がった最初の土曜日、二人は遊ぶ約束をしました」
「鎌倉へ行こうという予定でした」
「二人は最寄り駅で集合して、共に鎌倉まで行きました。鎌倉に着いて、海鮮丼を食べました。抹茶ソフトクリームも食べました。鶴岡八幡宮にも行きました。帰りにお揃いのキーホルダーを買って、帰りにはここ。七里ヶ浜にも行きました。その日の海は今日の海のように、綺麗で切ない風貌でした」
「男の子はそこの階段を降りて右手側に見える、あの江ノ島を指差してこう言いました」
「「次は江ノ島にいこう」と。」
「女の子は喜び、早速予定を立て始めました。それを見て呆れる男の子。それでも必ず付き合ってくれる。女の子は男の子のそんな優しさに、いつしか心を打たれていました」
「でもその帰りで、悲劇は起きてしまいます。場所は藤沢駅でした。七里ヶ浜から江ノ電に乗って小田急に乗り換え、ホームで電車を待っていたその時です。女の子が話しかけようと男の子の方を振り向いた瞬間、視界は男の子ではなく、線路上を写します。女の子の身体は線路の上に舞います。後ろには回送電車。止まることなく、進み続ける」
「「ドン」という低く鈍い音が鳴ったその刹那、女の子は自分の身体が、電車の進行方向と同じ向きに進んで行くのを感じました。自分の鮮血の温度を感じるや否や、直ぐにそれは感じなくなりました。その後視界が暗くなり、最後に残ったのは電車のクラクションとブレーキ音と人々の悲鳴だけでした。次第にそれも聞こえなくなり、女の子の心臓は動くのをやめました」
嫌な予感が神経を撫でる。一之瀬が話すその声に、意識を持っていかれる。波の音は次第に聞こえなくなる。
「後にそれは意図的な殺人事件として、警察が本腰を入れて調査を行いましたが、なんと犯人は見つかりませんでした。防犯カメラにも載っていました。目撃者の証言もありました。では何故見つからなかったのでしょう?」
「答えは簡単でした。変装、ただそれだけです。それだけの筈なのですが、見つからない要因はその超越した技術にありました。まさか本来の姿がお爺さんで変装した姿が若い男とは、日本中の誰もが思わなかったでしょう」
波は一之瀬の足を何度も往復する。一之瀬はずっと海を見たままその場を動かない。足の辺りの砂が削れてる。
「男の子はただ呆然と見る事しか出来ませんでした。目の前に起きてる現状を脳が処理しきれないのでしょう。しかし脳ではなく、脊髄で、突き飛ばした犯人の方を向きました。男の子は一目で分かった筈です。「あいつだ」と。階段の途中にいるこちらを睨む赤い瞳。男の子は本能で追いかけました」
「追いかけた筈でした。しかし、身体は言う事を聞きませんでした。震えて動かない足。止まらない動悸。何もしてないのに、身体はとうに限界を迎えていました。その場に倒れ、呼吸が苦しくなります。薄れ行く意識の中で彼を憎む心だけが最後まで残りました」
「男の子は目が覚めると病院のベットの上でした。目が覚めた事を確認した医者は、いくつか質問をしました。自分の名前、年齢、今日何してたか、何故ここにいるのか。男の子は名前や年齢は答えましたが、今日の出来事は答える事が出来ませんでした。それを見た医者は神妙な面持ちで男の子の目を見つめてこう言いました。「貴方が何故病院にいるのかを話します。落ち着いて聞いて下さい」と」
「医者は開けたくない口を、事実を言いたくない口を必死に開けて、ゆっくりと、女の子の事故について話し始めました。男の子は俯きながら医者の話を聞きました。医者が話し終えた後も、終始俯いたままでした。しかし男の子は医者の一言目「一之瀬さんの事です」と放った瞬間から、全ての記憶を取り戻していました」
——……は?
「ん?どうしたの?」
「お前…」
「そんな、死人みたいな顔して」
「お前今…なんて、言った?」
「一之瀬さんという名前を聞いた時点で記憶は戻っていた、って言ったけど?」
「……ああ」
「それにしてもこの場所、懐かしいね〜」
「…一之瀬、お前…」
「あの江ノ島も、行ってみたかったなぁ」
「…お前、女の子…なのか?」
「どうしたの急に。見て分からない?」
「…なあ、まさか…」
「……」
「…おい…嘘…だろ……」
「あのね、男の子くん」
一之瀬は漸く、身体をこっちに向けた。髪が一瞬フワリと宙を舞う。一之瀬の後ろには海。ゆっくりと口を開ける。
この話は…
「これは私と君の、本当の出会いと別れの物語」
そう言って一之瀬は、
——姿を消した。
二千二十年四月十七日




