第33話 夢
誰かが私を呼んでいる。
その声は深い井戸の底から響いてくるように、遠くくぐもっていた。
あるいは井戸の底にいるのは私の方なのかもしれない。
慟哭のようなその声は、聞き慣れたものだった。
かさぶたをはがすようにして、私は瞼をあけた。
喉の奥から小さなうめき声が漏れた。
「よかった。全然目を覚まさないから……」
私は泣きそうな顔をした幼馴染に抱き起こされていた。
彼の頭上には、まばらな星々と、少しだけ欠けた月。
「足を滑らせたの? 怪我をしてるなら、救急車を。そもそも、なんでこんなとこに」
彼は肩で息をしていた。
私はぎこちない動きで辺りを見渡す。
月明りが反射する川面。
密生する木々。
そして、恋愛永樹。
「……どうして」
舌がうまく回らない。
「どうしてって、帰ってきてない、連絡もつかないって聞いたから。そしたら、こんなところで」
私は首を振る。
「なんで、あんな勝手なこと。なんで、自分を犠牲にしてまで」
「な、なんのこと。犠牲?」
「約束したのに。全部私のせいにするって言ったのに!」
痙攣するように手足に力がこもる。
激情に身を焼かれ、うまく呼吸することができなかった。
カビが根を張るような鈍い痛みが頭に走り、意識がもうろうとする。
ジョーカーは言っていた。
——彼のこと、恨まないであげてね。
でもこんなの、あんまりだ。
彼は困惑するように言った。
「怖い夢でも見てたの?」
「……夢? あれは、夢なんかじゃ」
——ない、のだろうか。
わからない。
確信が持てなかった。
彼はハートのエースの柄が描かれたポロシャツではなく、学校の制服を着ていた。
「混乱してるんだよ、きっと。早く帰ろう、みんな心配してる。携帯は?」
私はポケットからスマホを取り出した。
画面に触れても何の反応もしない。
「困ったな。俺も充電が切れてるんだ。これだと無事を伝えることも、助けを呼ぶこともできない」
「私、歩けるよ」
立ち上がろうとして、よろめいた。
足に力が入らなかった。
「無理しなくていいって。ただでさえ夜の山は危ないんだ」
彼はしばらく黙り込み、木立の方を眺めていた。
自分だけが下山して、助けを呼びに行こうか迷っているのだろう。
こんなところに一人で取り残されることが恐ろしくて、私は彼に手を伸ばした。
でも暗闇のせいで距離感が掴めなくて、私の手は何にも触れることができなかった。
彼は大きく息を吐きだすと、疲労が滲んだ声で言った。
「夜が明けるまで、ここにいようか。早く無事を伝えたいけど、怪我をしたら元も子もないし。それに、少し疲れた」
波戸は崩れ落ちるように座り込み、そのままの勢いで横になる。
どこかをぶつけたようで「いてっ」と叫ぶ。
ごつごつした石が転がる河原だ。
寝心地は最悪だろうに、彼は気にならないようだった。
今は何時ごろなのだろう。
装飾品は校則で禁止されているから腕時計はしていない。
だから時刻を知るすべがなかった。
ここで夜を明かすことに異論はないけれど、やはり多少の抵抗はある。
夜の山は怖い。
葉擦れの音も川のせせらぎも、日が差す場所でなら心安らぐのに、今は恐怖心を煽るばかりだった。
確証はないけれど、今は夜の九時ごろなんじゃないかと当たりをつける。
波戸が制服を着ているということは、彼は家で着替えることもせずに、私を探していたということだ。
おそらく学校から帰宅して、すぐに私が帰ってきていないと聞いたのだろう。
それからずっと探していたとなると、今はそう遅い時間ではないはずだ。
夜明けまでは、まだかなりの時間がありそうだった。
(……なんで、彼に訊かないんだろ)
私は自問する。
今何時?
その問いかけ一つで知りたい答えが返ってくるのに、私はそれを口にできなかった。
彼に話しかけること自体に抵抗を感じていた。
私はゆっくりと立ち上がり、足元に気をつけながら恋愛永樹に近づいた。
彼が暗闇の向こうから注意を向けてくる気配がしたけれど、声をかけてくることはなかった。
幹に触れる。
ざらりとした手触りと、独特な甘い香りがした。
私は恋愛永樹に背中を預けるように座り、膝をかかえた。
不思議の国での出来事は、本当にあったことなのだろうか。
理性がすぐに否定する。
そんなわけがない、と。
足を滑らせて頭を打ち、意識を失った。
そして長くリアルな夢を見て——最後は幼馴染の腕の中で目を覚ました。
それだけのことだ。
不思議の国での出来事も、思い返してみたら馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
窮地に追いやられたところを想い人に救われる、なんて、まるっきり私の願望だからだ。
きっと潜在意識が夢に影響を与えたのだろう。
思わず笑ってしまう。
そもそもありえないじゃないか。
自らを犠牲にしてまで他人を救うなんて。
現実の世界でだって、私と波戸は特別な関係じゃない。
行方知らずになれば、ご近所づきあいで捜索の協力くらいはしてくれるみたいだけど、その程度の仲だ。
彼が私のために命を投げ打つ理由なんて、どこにもないのだ。
「……寒いな」
波戸がぼそりとつぶやいた。
私は物思いからふと覚める。
季節は秋で、場所は夜の山の中だ。
凍えるほどではないけれど、彼の言う通り、かなり冷える。
彼は立ち上がると詰襟を脱ぎながら近づいてきた。
そしてそれを私の肩にそっとかけ、隣にどさりと座り込む。
カーディガンは着ていなくて、彼はカッターシャツ姿だった。
「……寒いんじゃなかったの?」
「ん?」
「さっき、寒いってつぶやいてたじゃん」
「うん」
彼は頷く。
けれど私の言いたいことは、まるで伝わっていないみたいだった。
そうだった、と私は思った。
彼は自分が寒いと感じたから、人に上着を貸すような人なのだ。
気取ったふうもなく、ごく自然にそういうことができてしまう人なのだ。
だから私は、彼のことを——
ふと、違和感を覚えた。
彼の顔がさっきよりもずっと鮮明に見て取れるのだ。
「夜が明けて来たな」
私は思わず立ち上がる。
遠くの空が、赤く色づき始めていた。
「……なんで?」
私は間の抜けた声を漏らす。
「なにが?」
「なんで太陽が昇るの?」
「え? いや、それはだって、夜が明けたら普通に……」
「今何時?」
さっきできなかった質問が自然と口を突いて出た。
「たぶん五時過ぎだと思うけど」
「朝の?」
私は当然のことを尋ねた。
彼にとっても予想外の質問だったらしく、咄嗟に「たぶん」と答えてから、すぐに「いや絶対」と訂正した。
「もしかして、こんな時間まで私を探してたの?」
「え? いや、まあ、うん」
「ずっと?」
「ずっとっていうか、たまに休憩したり、連絡を取り合ったりしながら、まあずっと」
考えてみれば、当然のことかもしれない。
私がここに来たのは、ほんの気まぐれからだ。
誰も私がここにいることを知らないし、手がかりなんて何もなかったはずだ。
それなのに、なぜ彼はここに来たのか。
簡単な話だった。
中学の卒業式の日にたった一度だけ訪れた、こんな辺鄙なところにまで足を運ぶほど、彼は私を必死に探し回ったのだ。
「え?」
波戸が調子の外れた声を上げる。
目を見開き、私の胸元を凝視していた。
つられて私も視線を落とす。
そこには、朝日を浴びてきらきらと光るハートのペンダントがあった。
「な、なんで」
彼は引きちぎりそうな勢いでシャツのボタンを開けた。
瀬川と掴み合いの喧嘩になり、教室の隅にまで飛んでいったシャツのボタンを、私はふと思い出した。
彼は自分の襟元に手を突っ込み、そこから何かを引っ張り出す。
彼の手に握られていたのは、私の胸元にあるのと同じ、ハートの形をしたペンダントだった。
「……なんで、それを持ってるの?」
「そ、それはこっちの台詞」
「それ、捨てたじゃん」
私は川を指さした。
そうだ、彼はそれを川に投げ捨てたはずだ。
私の目の前で、間違いなく。
彼は視線をそらし、傷ついた子供のように、ぽつりと言った。
「……探し出したんだ」
「どこから?」
「どこって」
彼は川を一瞥する。
「川から、拾ったの?」
彼は頷いた。
「なんで?」
「なんでって言われても」
「ハート、嫌いなんでしょ?」
彼は辛そうに言いよどむ。
「……だって、泣いてたから」
あの時、私は泣いていたのだろうか?
よく覚えていない。
「だから、探したんだ。見つけるまでに三日かかったけど」
言葉が何も出てこなかった。
長い時間呆けたように黙ってから、私は少しズレたことを言った。
「あのときはまだ三月だよ。相当寒かったんじゃないの?」
「ああ、うん。そのあと熱が出て十日くらい寝込んだ」
だから彼は春休みの間、一度も私を訪ねてこなかったのか。
「もしかしてシャツのボタンを律儀にかけてるのって、それで?」
彼はぎこちなく頷く。
「最初は、財布の小銭入れに入れて持ち歩いてたんだ。こう、小さなケースに入れて。でも一年のころに財布を落として……。それからは、身につけることにしてる」
沈黙がしばらく続いた。
彼は私の反応を待っているようだったけれど、私は混乱してなんのリアクションも取れないでいた。
そうこうしてる間にも太陽は少しずつ上っていき、世界の輪郭は濃く深くなっていく。
微かに霧が立ち込めてきた。
「本当はっ」
耐えかねたように、彼は話し始めた。
「本当は、もっと早く謝りたかったんだ。熱で寝込んでる時ももどかしくて、何度も嫌な夢をみて……。許してもらえないかもしれない、無視されるかもしれない。それでも許してもらえるまで何度でも謝ろうって……。でも熱が引いて久しぶりに顔を合わせたら、まるで何もなかったみたいに接してくれて、それで、だから……」
ごめん、と彼は言った。
その声は小さなものだったけれど、絞り出すような声音に彼の想いの全てが詰まっているような気がした。
私の口から乾いた笑い声がもれた。
「なにそれ」
私も、同じだった。
彼に謝ろうと思っていた。
悪気がなかったことをどうしても伝えたかった。
でも彼に怒っている様子がなかったから、謝るきっかけを見つけられなかった。
「なによ、それ」
私はお腹を抱えて、むせるようにして笑った。
おかしくて仕方がなかった。
笑わないではいられなかった。
彼は、おろおろと取り乱す。
「なんで泣いてるんだよっ」
「え?」
私は自分の頬に触れる。
指先が、暖かい涙に濡れた。
「あれ? 変だな。なんでだろ」
笑い声の中に、嗚咽が混じり始めた。
涙が滂沱と溢れてくる。
満足に立ってることすらできなくなり、彼が咄嗟に支えてくれた。
私は彼の胸に顔をうずめて、なおも泣き叫んだ。
落ち着くまでにどれくらいかかっただろう。
絡まった二つのハートのペンダント。
本当は、しばらく彼の腕に抱かれたままでいたかった。
それでも私は、彼から少しだけ身を離す。
そして彼を見上げ、精一杯笑った。
きっとひどい顔をしていると思う。
目は腫れているだろうし、下手をしたら鼻水が垂れているかもしれない。
それでも、この想いは彼の目を見ながら笑って伝えるべきだと思った。
だから、笑った。
無邪気で無防備な子供のように——
「私も、ハジメのことが好きだよ」
彼は不思議そうに眉根を寄せて、それから目を見張った。
果物が熟すように、みるみる顔が赤らんでいく。
「そ、そんなの今言うことじゃ。いや待って。『私も』って何? それじゃまるで俺も」
「違うの?」
彼は息を飲む。
一度距離を取りたがっているみたいだったけれど、私を支えることを優先して離れられないでいるようだった。
私は問いを重ねた。
「なんで一晩中ずっと私を探してくれたの? なんでそこまで必死だったの? なんで一度は捨てたペンダントを、わざわざ探して大切にしてくれているの? ねえ、なんで——」
「それは……」
はぐらかすための言葉を探していたのかもしれない。
でもすぐに、覚悟を決めたように口元を引き締めた。
そして、彼は言った。
「有子のことが好きだからだよ」
一陣の風が吹き、ハートの形をした葉が舞い散った。
それは彼が、初めて口にする二度目の言葉だった。
× × × ×




