エピローグ
夕暮れ時。
教室には私の他には誰もいなかった。
みんな運動場に集まっているのだろう。
さっきまで活気づいていた校舎は、遊び疲れた子供のように、ひっそりと静まり返っている。
私は自分の席に座り、ノートに筆を走らせていた。
支離滅裂でも文法が間違っていても気にしない。
心に浮かんだものを、そのまま形にしていった。
「こんなところにいたんだ」
声に顔をあげると、教室の入り口にハジメが立っていた。
「何してるの? もうすぐ後夜祭、始まるよ」
「うん、今行く」
ノートを鞄にしまい、立ち上がる。
私たちは昇降口を出て校舎の外縁をぐるりと半周した。
眼下に広がる運動場には、大勢の人の姿が。
およそ全校生徒の七割ほどがいるだろうか。
集会のように列をなすことはなく、思い思いに集団を作っていた。
運動場の中央には丸太が井桁に組まれていて、その周囲には立入りを禁じるロープがめぐらされていた。
階段を下り運動場に足を踏み入れた時には、すでに太陽は沈み辺りは暗くなっていた。
秋の日は釣瓶落とし。
「有子」
佳代の声がして、私は立ち止まる。
人ごみの中に、深紅のドレスを身に纏った女王様の姿があった。
さすがにその衣装だけだと寒いのか、上から学校指定の地味なカーディガンを羽織っている。
けれど彼女の美しさは、微塵も損なわれていなかった。
隣には唯もいる。
私はハジメに目配せし、彼が頷くのを確認してから二人と合流した。
唯は私と同じく制服姿だったけれど、頭に大きなウサミミをつけていた。
制服の下にはバニーガールの衣装を着ているのだけど、はた目にはわからない。
ならなぜ私がそのことを知っているかというと、その衣装が私と佳代で折半して買ったものだからだ。
計画は何日もかけて練り上げた。
どの教室が空いているのか、どのように唯を誘導し、そしてバニーガールの衣装を着せるのか。
文化祭の準備なんてそっちのけで佳代と計画を練った日々は、とても楽しく刺激的だった。
そして文化祭当日の朝、計画は実行に移された。
手はず通り、私が唯を空き教室にまで誘導する。
そこで佳代が待ち受けている。
彼女は机の上に立ち、今まで見たことがないほどの満面の笑みで、バニーガールの衣装を掲げていた。
唯はもっと抵抗するかと思っていたけれど、呆れたように苦笑して、
「二人の前だけならいいよ」
と意外とあっさり受け入れた。
普段ならあり得ないことだけれど、きっと彼女も文化祭の空気に当てられていたのだろう。
まことに残念でならなかった。
私はバニーガール姿の唯が見たかったのではなく、嫌がる唯に無理やりバニーガールの衣装を着せたかったのだ。
その思いは佳代も同じだったようで、彼女は見るからに不機嫌になって、しばらく唯と口を利こうとしなかった。
バニーガール姿の唯が半泣きになりながら、
「ねえ、有子。私、佳代に何かした?」
と縋ってきたので、私は概ね満足だった。
「火をともすぞ」
年配の男性教師がロープを跨ぎ、薄闇の中で屹然と佇む丸太の塔に近づいていった。
そしてその根元に跪く。
運動場にいる全員が固唾を呑み、その姿を見守った。
ざわめきは遠くの宵闇に溶けてしまう。
皺の深く刻まれた年配教師の顔が一瞬、暗闇に浮かんだ。
彼はさっとその場を離れ、安全圏まで退いた。
やがて、ぱちぱちと火の爆ぜる音が響き始める。
丸太の塔の中央には、がらくたが積み上げられていた。
それらは文化祭で使われ、そして不要になったものたちだ。
可燃性のものだけを集めて後夜祭のファイヤーストームと共に燃やす。
それがこの学校の伝統だった。
がらくたの中には唯の背景や私のしおれた聖剣も含まれていた。
『三年六組! 女装メイド喫茶!』と書かれた木製のプラカードが目に入る。
どうやら画用紙を張り付けているようで、表面だけが虫に食われたように溶けていく。
後には骨組みだけが残されて、それもやがて灰になっていった。
「綺麗ね」
ぽつりと佳代がつぶやいた。
「そうだね」
「今日は楽しかった。文化祭って、楽しいのね」
「今まで知らなかったの?」
「去年まではずっと、一歩引いたところから傍観していたから。こんなにまじめに取り組んだのは初めて」
ありがとう、と佳代は言った。
「なによ、あらたまって」
妙に照れくさくて軽く受け流す。
私は自分の都合で二人を巻き込んだだけなのだ。
お礼を言わなければならないのは、私の方だ。
二年四組の演劇は、それなりに好評だった。
アリスとトランプ兵たちのチャンバラでは観客の失笑を買ってしまったけれど、白ウサギの正体がハートの女王だったというオチはそれなりにウケた。
演劇部門では銀賞ももらえた。
「やめとけって。危ないから」
「おい、止めんな。ちょっとだけだから」
そんな声が聞こえてくる。
視線をやると、二人の男子生徒がもみ合いになっていた。
どうやらロープを超えようとしている一方をもう一方が引き留めているらしかった。
その二人には見覚えがある。
というか瀬川とハジメだ。
もちろんロープを越えようとしているのが瀬川で、制止しているのがハジメだ。
瀬川がハジメの腕を振りほどき火に、というか炎に駆け寄り、そして「熱っ!」と叫んで飛び退いた。
虫を掃うように両手で顔を叩いている。
想像以上に熱風がきつかったのだろう。
真帆ちゃんが飛んできて瀬川の首根っこを掴み、ずるずるとロープの外にまで引きずる。
その勢いのままぶん投げて、瀬川は運動場をごろごろと転がった。
「なにやってるんだろ、あいつ」
私はけらけらと笑う。
瀬川は教師陣に囲まれて叱責されながらも、どこか満足気な表情をしていた。
そこまでして目立ちたいのだろうか。
私には理解できなかった。
「なんだか有子って、瀬川くんに優しくなったよね」
唯がそんなことを言った。
「優しく、というよりも、寛容になったのかな」
「そうかな」
とぼけたけれど、本当は自覚していた。
王様を殺害したことによって、現実の瀬川にまで危害が及んでいるのではないかと、私はずっと恐れていたのだ。
彼の無事を知った時の安堵は、自分が救われた時よりも、よっぽど大きなものだった。
あるいは彼の無事を確認して初めて、私は救われたのかもしれない。
後夜祭では催しが何もなかった。
市の条例か何かで夜間に音楽を流すことが禁止されているらしく、BGMすらない。
だからフォークダンスも踊れやしない。
いつもの休み時間と同じように、仲良しグループで集まってそれぞれ騒ぎ、まったりと過ごすだけだった。
それでも、ずっと後になって今日を振り返った時、今この瞬間が一番印象に残っているだろうな、という予感があった。
だから自由参加にもかかわらず、これだけたくさんの生徒が残っているのだろう。
やがて丸太の塔が崩れ、大きな音を立てた。
その瞬間が、後夜祭一番の盛り上がりだった。
時間が経つにつれ人がまばらになっていく。
佳代と唯の二人も家路についてしまったけれど、私は最後まで残っていた。
熾火がとても綺麗だった。
終わりを連想させるものは大抵美しい。
先生たちが完全に火を消してしまうと、辺りの気温がぐっと下がったような気がした。
遠くのパトカーのサイレンに応えるように、木枯らしがびゅうと吹く。
私は首を竦め、運動場を後にした。
校舎までの長い階段に足をかけたところで、背後から声をかけられた。
「帰るの?」
振り返ると、そこにはハジメが居た。
走ってきたのか少し呼吸が乱れていた。
視線がまっすぐにぶつかる。
階段一段分が、ちょうど私たちの身長差なのだと知る。
私は頷いた。
「そっか、じゃあ俺も一緒に帰るよ」
「文実の仕事はいいの?」
まだ後始末が残っているはずだ。
「大丈夫。もともと後夜祭は別の管轄だから」
もしかしたら彼は、私が帰るタイミングを見計らっていたのかもしれない。
私がそうしていたように。
階段を上りきったところで、私は運動場を振り返った。
ナイター設備のような上等なものはない。
運動場はどっぷりとした暗闇の底に沈んでいる。
そこを漂う、まばらな人々の影。
「あれ? 扉があいてる」
校舎の正面に回ったところで、ハジメがそんなことを言った。
見ると、確かに校舎の扉が、一か所だけ開け放たれていた。
「本当だ。閉め忘れかな?」
「どうだろう。先生たちの出入りのために開けられてるのかも」
「ふうん」
そうつぶやきながら、正門を出ようとするハジメの袖を、ほとんど無意識に掴んでいた。
「どうしたの?」
「あ、いや、なんて言うか。よかったらさ、中に入らない? 折角だし」
「見つかったら怒られるよ」
「そうだけど」
私は少し言いよどむ。
「ほら、私、最終稽古とかで文化祭回れなかったから、雰囲気だけでも楽しみたいなー、と思って」
文化祭の後片付けは明日だから、まだ形だけは残っているはずだ。
「わかった」
ハジメは特にためらわずに言った。
見た目は委員長っぽいし、実際に委員長なんだけど、彼が規則や決まり事にそこまで頓着しないことを、私は知っていた。
校舎の中は明かり一つなかった。
見咎められることを恐れてスマホで足元を照らすこともできない。
私たちは手を繋ぎ、お互いの体温を確かめ合うように寄り添って歩いた。
「このクラスは縁日をやったみたいだね。隣のクラスは、お化け屋敷かな」
「あ、いいなー。お化け屋敷、入ってみたかったな」
「今がまさにそんな感じだけどね。お化け屋敷というよりも肝試しだけど」
ハジメの言葉に、私は声を殺して笑った。
「そうだね。でも、全然怖くないな」
夜の学校といえば、墓地や病院に次ぐ怪談話の温床だ。
もっと恐怖心を煽られてもいい気がするけれど、不思議と心穏やかだった。
文化祭の名残があるせいかもしれないし、隣に彼がいるからかもしれない。
もしかしたらそのどちらでもないのかもしれないけれど、正確なところは自分でもよくわからなかった。
私たちは一階から四階までを順番に巡り、最後は二年四組の前に行き着いた。
扉を開けて教室に入る。
出し物が演劇だったから、教室は普段と変わらない。
廊下の雑多さに比べ、とても静謐だった。
空気が澄んでいるようにすら感じる。
窓からは街を眺望することができた。
綺麗な夜景。
星々のような光の群れを、指でなぞったように川が寸断していた。
遠くには、あの山も見えた。
「そういえば、さっきは何を書いていたの?」
「ん?」
「ほら、俺が呼びに来たとき、ノートに何か書いてたでしょ」
「ああ、あれはね、物語を書いてたんだ」
「物語?」
「うん。不思議の国でのお話」
ハジメは首を傾げた。
「もう文化祭は終わったのに?」
「それとは関係なく、個人的に」
いや、個人的ではないかもしれない。
それは人に見せる目的で書いているものだから。
「それって、どんな話なの?」
彼の問いに、私はくすりと笑った。
「どうかした?」
「いや、前にもこんなことあったなって」
「ああ、あったね。あの時とは立場が逆だけど」
「そうだね」
あの時は、私が彼に脚本のあらすじを尋ねたのだ。
「いいよ、座りなよ」
私は近くの椅子を引いた。
あの時のハジメの真似だ。
ハジメがそこに座ってから、私は近くの机に腰かけた。
残念なことに、私はほんの少し足が短い傾向にありがちな気がするので(勘違いかも知れない)、あの時の彼のように様にはならない。
かろうじて爪先がつくのが、かえって恥ずかしく、それを誤魔化すために足をぷらぷらとさせた。
不思議の国での出来事を、私は誰にも話していなかった。
信じてもらえないと思ったからだ。
でもハジメだけは違う。
彼ならきっと、私の話を信じてくれる。
けれど自信がなかったのだ。
あの世界での体験を、言葉で十全に伝える自信が。
大切なことを口にするのが苦手なのだと、私は最近自覚した。
ハジメに告白すると決心してから実行に移すまでに一年もかかったし、それだって言葉にはせず物を贈るという遠回しなやり方だった。
春休みに彼に謝りに行けなかったのもそうだ。
人見知りはしないし、むしろおしゃべりな方だと自分では思っているけれど、大切なことになると途端に口が重くなる。
でも、さすがの私も学習した。
大切なことを口にするのが苦手なのなら、文章にしてしまおうと考えたのだ。
何度も反芻し推敲を繰り返し、不思議の国での出来事と、私の想いを余すところなくしたためようと思ったのだ。
ある意味これは、ラブレターなのかもしれない。
私は口を開いた。
プロローグ。
というよりも、あらすじだろうか。
それくらいなら、私にだって言葉にできるはずだ。
「私はね、白ウサギを追いかけて不思議の国に迷い込んでしまうの。そこはとても規律正しい世界なんだけど、だからこそ私にとっては不条理で、過酷な世界だった。味方も逃げ道もなくて。そこにね、ハジメが助けにきてくれるの。私を救ってくれるの。そして最後は、舞台の中央で熱い口づけ」
彼はどう反応したらいいのか戸惑っている様子だった。
「ま、実際は恋愛永樹の下でだったんだけど」
私がそう続けると、何かぴんとくるものがあったようだ。
「もしかして、そのペンダントと関係があるの?」
私は自分の胸元にそっと手を伸ばした。
ハートのペンダントに指先が触れる。
今日は文化祭だから、仮装の範疇として許されているのだ。
「うん。不思議の国で、ハジメにこれをもらったんだ」
彼は腕を組んで小さく唸り声をあげた。
どこをどのように尋ねるべきなのか迷っている様子だ。
質問がさっと出てこないくらい、わからないことだらけなのだろう。
「もう少しだけ待ってよ」と私は言った。「書き終わったら、すぐに見せるから」
彼はもどかしそうにしていたけれど、やがて私の意を汲んで頷いてくれた。
「でも、せめて題名くらいは教えてよ」
「題名?」
それは考えていなかった。
確かに、物語には題名があってしかるべきだ。
そのまま『不思議の国のアリス』とか、少しもじって『文化祭の国の有子』とでもするのがいいだろうか。
それか『有子とアリスの神隠し』だとか。
(いや、そういうんじゃないよね)
これは私とハジメの物語なのだ。
ちょっとしたすれ違いから恋人に至るまでの、あるいは恋愛永樹の伝説の真偽が判明するまでの、甘い甘いラブストーリー。
不思議の国での出来事も、そんな私たちの物語の挿話の一つに過ぎなくて。
それなら、この物語にはどんなタイトルがふさわしいだろう。
「そうだね」
悩むことなく、それはするりと浮かんできた。
「タイトルは——」
× × × ♥
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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