第32話 暗転
水を打ったように辺りは静まり返る。
その場に居た全員が、みな動きを止めて闖入者に視線を注いだ。
「おお、これはこれは。なにをしに来られたのですか、ジョーカー」
裁判官が強張った声で問いかけた。
ジョーカーは不敵に笑い、どこか演技めいた口調で言った。
「アリスの弁護にやってきたの」
「それは、つまり」
「判決に異議を唱えるわ」
彼女の言葉に、どよめきが起こる。
「あ、あなたはなにを言っているの」
わなわなと震える声で女王が言う。
怒気のはらんだ声だったけれど、金切声をあげることはなく、そこには委縮したような響きがあった。
「アリスがなにをしたのか、わかっているのかしら」
「ええ、もちろん。でもそれは事実であって真実ではないの」
対照的に、ジョーカーは鷹揚とした口ぶりだ。
「なにを言って——」
ばさっ、と鳥が羽ばたくような音が女王の言葉を遮った。
ジョーカーが紙束を取り出し、それを女王に突きつけたのだ。
女王は怯えた表情になり、両手を胸の前で重ねた。
隣に立つ裁判官が、庇うように前に出て紙束を受け取る。
葉擦れの音に紛れながら、裁判官が紙をめくる音がした。
「……これは、計画書?」
「ええ」
「こんなものをどこで」
「そんなことより、それが誰の字なのかわかる?」
裁判官は怪訝そうに眉根を寄せ、それから背後に向かって声をかけた。
応じたのは、銀縁眼鏡をかけた蓬髪の痩せた男だった。
年の頃は判然としない。
三十代にも五十代にも見えた。
銀縁眼鏡は紙束を受け取ると、目を細めて探るように視線を動かした。
その目が大きく見開かれる。
「この筆跡は、ハートのエースのものです」
「なんだとっ」
裁判官は彼を睨み付けた。
「まさか、貴様……」
「ち、違います。私はそんなもの、知りません」
「ならこれはなんなのだ!」
裁判官が紙束を銀縁眼鏡から奪い取り、彼に突きつけた。
「それは……。アリスに脅されて、無理やり書かされたのです。私を共犯に仕立て上げるために」
「貴様は先ほど、そんなものは知らぬと申したではないか」
彼は何も答えられずに押し黙ってしまった。
裁判官の顔に怒りが滲んでいく。
「本当に、貴様が企てたのか。アリスと共謀し、王様を殺害したのか」
女王が何事かを叫ぶ。
でもそれは言葉の形を成していなかった。
「ちょっと待ちなさい。早合点はよくないわ」
ジョーカーの言葉に、張り裂けそうになっていた空気が一時的に停滞した。
でもそれは弛緩したわけではなく、薄い膜で包むようなぞんざいな抑制だった。
「なにが早合点だと言うんです。これは明らかに」
「最初に言ったはずよ。私はアリスを弁護しにきたの。ハートのエースを糾弾しにきたわけじゃない」
「おっしゃる意味がよく……」
「トランプ兵はアリスに壊滅させられたのよね」
「ええ、その通りです」
「おかしいと思わない? 聖剣を手にしてたとはいえ、トランプ兵がこんな小娘一人にやられるなんて」
「事実、そうではありませんか」
「だから、それは真実ではないの」
裁判官は彼女の煮え切らない返答に少し苛立っている様子だった。
「何が言いたいのです」
ジョーカーは裁判官に歩み寄り、手を差し出した。
裁判官は少しためらってから、紙束を彼女に渡す。
ジョーカーはページをめくり、そして、
「これ」
とある部分を指した。
裁判官が、そこに書かれた文章を読み上げる。
「『トランプ兵はアリスに一方的に派手にやられる』」
裁判官の顔がみるみる険しくなっていく。
「まさか、他のトランプ兵たちも」
ジョーカーは首を振った。
「そうじゃない。私が言いたいのは、この字だけ筆跡が違うでしょってことよ」
「確かに、他とは違って癖の強い字ですな」
裁判官はぴんとこないのか、首を傾るだけだった。
反応を見せたのは女王だった。
彼女は裁判官を押しのけて、ジョーカーの手から紙束を奪う。
そして鼻先が触れそうな近さでそれを凝視した。
「ど、どうされたのですか?」
「……これ、王様の字」
裁判官は息を飲む。
「おいっ」
裁判官に呼ばれた銀縁眼鏡が、女王の肩越しに紙束を覗いた。
そして、
「王様の字で、間違いありません」
と困惑しつつも断定した。
女王は、すがるような目でジョーカーを見た。
「どういう、こと」
「トランプ兵たちがアリスに敗れたのは、それが王様の指示だったからよ」
「そんなわけないじゃない! 彼は殺されたのよ!」
「計画書の最後を見てみなさい」
女王は言われるがまま、震える手でページを捲った。
「なによ、これ」
ひび割れた声。
ジョーカーの顔が一瞬、苦しげに歪む。
けれどそれはほんの短い間で、すぐに取り澄ましたような表情に戻った。
「計画の通りに行けば、殺されていたのはあなたなのよ」
「お、王様が、私の殺害を企てていたとでも言うの? あ、ありえないわ」
「でも表紙にちゃんと署名もあるのよ」
女王は紙束を閉じて、そこに書かれた二人分の名を目にした。
「王様はきっと、自分と同じ権力を持ったあなたが疎ましかったのでしょうね。あるいは、あなたのヒステリックな性格にうんざりしていたのかも。だからあなたの殺害を企てた。自分も被害者でいられるような計画をね」
これはあくまで推測だけど、とジョーカーは前置きをしてから、あらかじめ用意されていた台詞を口にするように滔々と言った。
「アリスはあなたを殺害することを聞かされてなかったんだと思うわ。だから王様は、わざわざアリスにトランプ兵を襲わせた。そうすることで、後に引けなくさせたかったのね。でもアリスは計画に背いた。あなたを殺すことを拒んだ。そのことに憤慨した王様は、あるいは口封じのためにアリスに危害を加えようとし、逆に殺されてしまう。アリスが抵抗するなんて考えていなかったのでしょうね。どう? これで全ての辻褄が合うと思わない?」
「し、証拠は?」
「そこにあるじゃない」
ハートの女王は紙束を握り潰した。
「こんなもの、いくらでも偽装できるでしょ。もっと別の、確たる証拠よ!」
「ないわね」
「証拠もないのに、そんな、ふざけたことを」
「でも証人はいるわ。いや、この場合は被疑者かな」
全員の目がこちらに向く。
私にではなく、隣に佇む彼に。
裁判官が低い声で言った。
「貴様の関与はもう言い逃れできまい。本当のことを、全て話してみよ」
遠くで鳥が鳴き、静寂を際立たせる。
彼は長い時間黙り込んでから、やがて震える声で答えた。
「ジョーカーの言う通りです」
悲鳴のようなどよめきが起きた。
女王がその場にぺたりと座り込む。
「つ、つまり王様が、あなたと共謀して、私を殺そうとしたってこと?」
「はい。アリスを騙し利用しようとしたのですが、うまくいきませんでした」
「彼は、どうしてそんな……」
「それもジョーカーの言った通りです」
「……そう」
ハートの女王はうなだれ、それ以上は何も尋ねなかった。
「貴様以外のトランプ兵たちも共犯なのか」
「いいえ。彼らは王様の指示に従っただけで、計画のことはなにも知りません」
裁判官はひとつ頷いてから、唸り声をあげた。
「それが真実だというのなら、さきほどの判決は、覆さねばなりませんな」
ハートの女王が項垂れたまま、そうね、と呟くように言った。
その姿を痛ましげに見つめてから、裁判官は憎悪に満ちた目で彼を睨んだ。
「さきほどの判決は取り消す。そして、ここに新たな判決を下す」
緊迫した空気が熱を帯びる。
引火してから爆発するまでの一瞬の間のように。
「大逆の罪によりハートのエースを斬首に。そして不法入国及び騒乱の罪によりアリスを——」
裁判官は大きく息を吸い込み、咆哮するように言った。
「国外追放に処す!」
何十人もの怒号で地面が揺れた。
中断していた作業が再開される。
断頭台が着実に組み上げられていく。
私はわけがわからなくて、隣にいる彼に視線をやった。
ちょうど彼も私を振り返ったところで、はたと目が合う。
彼は気まずそうに、気恥ずかしそうに、視線をそっとそらした。
その表情を見て、私はようやく理解する。
彼が何を犠牲にし、何を救おうとしているのかを。
私にペンダントを贈った、その真意を。
「……どうして?」
何に対する問いなのか、自分でもわからなかった。
ただ意識するよりも先に、そう口にしていた。
彼は視線をそらしたまま、ばつが悪そうに言った。
「ほら、ジョーカーの部屋でさ、彼女が『あなたを首謀者として報告する』って言ったでしょ。その時に、この方法なら君を救えるなって気づいたんだ」
私は首を横に振った。
訊きたいのは、そういうことではなかった。
「黙ってたこと? だってほら、正直に話しても反対したでしょ」
「違う!」
私は叫んだ。
眼窩が熱を帯び、じわりと視界が滲んだ。
「どうしてこんな、自分を犠牲にしてまで、なんで」
「……ああ」
彼は首を傾げた。
「どうしてだろうね。君とは出会ったばかりのはずなのに、こんな……。自分だけじゃなく、王様の名誉や、女王様の心を傷つけてまで……」
「だから、なんでっ」
彼はしばらく黙り込んでから、
「おにぎり」
とボソリと言った。
「……え?」
「本当はね、梅干しを入れようと思ってたんだ。全部同じより、そっちの方が絶対にいいでしょ」
なのに、と彼はここじゃないどこかを見るような遠い目になる。
「なんでかな。どうして、そうしなかったんだろ」
「な、何を言って……」
彼は断頭台に視線をやって、それから私を見た。
そして、彼は笑った。
無邪気で無防備な、子供のような笑顔だった。
彼は言う。
「————」
視界の隅で断頭台が完成する。
一際大きい歓声が上がり、不思議の国の住人が我先にと駆け寄ってくる。
そして彼に掴み掛かり、断頭台まで乱暴に引きずって行く。
「待って」
割って入ろうとした私の肩を、誰かが掴んだ。
その手を振りほどこうとした時には、すでに何本もの腕に羽交い絞めにされていた。
「ハジメ!」
私は彼を呼んだ。
何度も何度も、彼の名前を叫んだ。
意識が急激に遠のく。
耳の奥で錆びついた歯車が軋むような音がした。
手足の先から喪失するように感覚が薄れ、やがて全身に広がっていく。
滲んだ視界が歪み、明滅しながら急速に狭まってきて、そして——
——暗転。
♠ ♥ × ×




