第29話 名前
目を覚まし、初めて自分が眠っていたことに気がついた。
ここはどこだろう。
真っ暗だった。
私の部屋は街灯のせいで夜になっても真っ暗にはならない。
いつもカーテン越しの明かりが家具の輪郭を薄ぼんやりと浮かび上がらせている。
知らない枕の感触と、シーツの肌触り。
視線を巡らせると、長方形の白い枠線が暗闇に浮かんでいた。
扉の隙間から微かに光が漏れだしているのだ。
私はようやく現状を、そしてこれから迎える結末を思い出した。
また涙が滲んだけれど、もう取り乱したりはしなかった。
扉の向こうから微かに話し声がする。
そっと起き上がり、扉を少しだけ開けて耳をそばだてる。
二人の会話を断片的にだけど聞き取ることができた。
彼の口から『密告』という言葉が出てきたのを確かに耳にする。
どうやら彼はジョーカーに密告するように頼んでいるようだった。
よかった、と私は思った。
彼が私を見捨てるつもりでいると知って心底ほっとした。
同時に「王様殺害の咎で斬首」と言う事実を、自分の中で「幼馴染の姿をした彼のための献身的な自己犠牲」に挿げ替えようとしていることに気付いていた。
どうせ避けられない結末なら、せめて善良でありたい。
そんなただの自己欺瞞だ。
けれどそれでも構わないと思えるのは、それで彼が助かるからだった。
その想いに嘘はなかった。
私は盗み聞きをやめ、壁に背中を預けて丸くなった。
やがて会話が途切れる。
少し時間を置いてから、私は部屋を出た。
「おはよう」
私を認め、ジョーカーが声をかけてくる。
「おはようございます」
そう応えて彼の隣に腰を下ろした。
テーブルの上には何も置かれていない。
ティーセットは片付けられてしまったようだ。
紅茶、飲んでおけばよかったな。
そんなことを思った。
それからしばらく、無言の時間が続いた。
私は隣に座る彼を振り返った。
血の気の引いた青白い横顔。
「大丈夫?」
「ああ、うん。起きてたんだ」
話しかけられるまで気づかなかったみたいだ。
取り繕うように笑顔を見せ、そして唐突に立ち上がる。
「じゃあ、行こうか」
「……うん、そうだね」
私は何も尋ねなかった。
どこに行くの、なんて質問は意味のないことだ。
これからどこに向かおうと、私が迎える結末は、もう決まっているのだから。
「そんなに急がなくてもいいんじゃないの」
ジョーカーが私たちを呼び止める。
「もう少しゆっくりしていけばいいじゃない。覚悟を決めるのにも、正確な判断を下すのにも、時間は必要だわ」
時間は十分にあった。
私たちはすでに、がらくた部屋で約束を交わしているのだ。
むしろ彼の気が変わらないうちに、私に未練が湧いてくる前に、全てを終わらせてしまいたかった。
「いえ、もう決めたことなので」
私の胸中を代弁するように、彼が言った。
「本当に、それでいいのね。私はあなたに言われた通りにするけど」
「はい」
「……わかった。もうなにも言わない」
彼は扉をあけて廊下に出る。
入ってきたのと同じ扉のはずなのに、廊下は植物に埋もれていた。
勘違いしているだけなのか、寝ている間に成長したのか、私にはわからなかった。
「ありがとうございました。あとはよろしくお願いします」
彼がジョーカーに深々と頭を下げる。
どんな時でも律儀な人だ。
私も彼を見習って、ちゃんと謝意を伝えた。
彼の後を追おうとする私を、
「ねえ」
とジョーカーが呼び止める。
「彼のこと、恨まないであげてね」
私は破顔した。
「もちろんですよ」
彼を責める気持ちは、まるでなかった。
むしろ約束をちゃんと守ろうとしてくれていることに感謝していた。
廊下は相変わらず左に緩くカーブしている。
彼は進路を確保するように私の前を歩き、草木を掻き分けていく。
「そういえばさ」
しばらく進んだところで、彼が口を開いた。
「なに?」
「君の名前って、なんて言うの?」
「え?」
心臓がびくんと跳ねる。
「な、名前?」
「うん」
「……アリス、だけど」
「それは役の名前でしょ。本名が知りたいんだ」
「教えて、なかったっけ?」
教えていないのは、自分でわかっていた。
意識的に隠していたのだから。
少し躊躇ってから、私は名前を告げる。
「藤村有子」
声が上ずらなかったのが不思議なほど動揺していた。
周囲に視線をやる。
確認するまでもなく、私たちの他には誰もいない。
私たちは二人きりだった。
彼は私のことをなんと呼ぶのだろう。
「藤村」と呼び捨てにするのだろうか。
いや彼は知り合ったばかりの相手を、いきなり呼び捨てにするような人ではない。
ともすれば、彼は私のことを敬称をつけて呼ぶのだろうか。
彼が私を「藤村さん」と呼ぶところを想像してみた。
ああ、だめだ。
そんな他人行儀な呼ばれ方をしたら、きっと泣いてしまう。
それは私にとって、どうしても耐えられないことだった。
頭では分かっているのだ。
彼がただ波戸を模しているに過ぎないことを。
それでも私は彼を、どうしても現実の波戸と分けて認識することができないでいた。
だって彼はどこからどうみても幼馴染なのだ。
見た目も仕草も言動も、乱れのない服装さえもだ。
ぽつりぽつりと他愛もない会話を続けながら、私はずっと身構えていた。
でも結局彼が、私を名前で呼ぶことは一度もなかった。
「藤村」とも「藤村さん」とも呼ばなかった。
二人きりでいる時は、名前で呼ばなくてもなんら不都合はないのだ。
そのことを私は高校に入学してからの一年半で、嫌になるほど学んでいた。
廊下を進めば進むほど植物が増えていく。
もうほとんどの木が私の背丈の倍以上ある。
でも不思議と進路を妨害されることはなかった。
どうしてだろうと考えて、廊下の幅が広くなっていることに気がついた。
いや幅だけじゃなく、天井も信じられないくらい高くなっていた。
徐々にだったから、全然気づけなかった。
(……もしかたら、私たちが縮んでたりして)
そんなことを考えた。
そうこうしているうちに壁はなくなり、樹冠の向こうには青空が。
いつの間にか城の外に出ていたようだ。
遠くで鳥が甲高く鳴く。
しばらくして、川原に辿り着いた。
唯が書いた一枚目の背景の、あの川原に。
「君がこの国に迷い込んだのは、ここなんだよね」
「うん」
私は桂の巨木を——恋愛永樹を指差した。
「あの木の根元に穴があって、そこに落ちたの」
私は桂の木に近づき、根元を確かめた。
周囲をぐるりと一周したけれど、穴はどこにもなかった。
「落ちたってことは、穴は空にあるんじゃないの?」
そう言って、彼は上を仰ぎ見る。
「なにか見える?」
「……いや、なにも」
「そっか」
彼は歩み寄ってきて、桂の木の根元にそっと腰を下ろした。
「君も座りなよ」
「うん」
お城の赤い尖塔が、遠くに見える。
最初に見た時は巨大に感じたのに、中を散々歩き回った今となっては、信じられないくらい小さく感じる。
でもそれを変だとは思わないのだから、私もいよいよこの世界に染まってきているのだろう。
終わりが間近に迫った今頃になって。
「そのうち、ここに女王様たちがやってくる。ジョーカーに頼んであるんだ。密告してくれって」
そのことは知っていたけれど、盗み聞きがばれるのが嫌で、頷きだけを返した。
「でもまだ時間はあるはずだから、話を聞かせてよ」
「話?」
「君と——君の世界の俺の話を」
私は迷う。
思い出話なんてすれば、その記憶がなかったとしても、彼の感情を揺さぶってしまうのではないか。
その蒼白な顔を見ればわかる。
私を見捨てることを、彼は軽く考えてはいない。
もうこれ以上、彼に負担をかけたくなかった。
「大丈夫だよ」
私の逡巡を察したようで、彼は微笑みを浮かべて言った。
「もう決めたことだから。俺の考えは変わらない」
それでも躊躇っていると、彼は私の顔を覗き込んで、おどけるように尋ねてきた。
「君の世界の俺は、優柔不断な男なの?」
「……いや、むしろ頑固」
「そっか、俺と同じだ」
彼はおかしそうに笑った。
つられて私も笑ってしまう。
そして私は話し始めた。
時系列もへったくれもない。
思い出話を思い出した順に語った。
私は何度も泣きそうになって、その度に「えっと、それでね」なんて思い出すふりをしてごまかした。
彼は時折相槌を打ちながら、私の話に耳をかたむけていた。
どれくらい時間が経っただろう。
ぽちゃん——と小魚が跳ねるような音がした気がして、私は川に視線を向ける。
川は淀みなく流れていた。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもないよ。えっと、それでね……」
その時、遠くから大勢の足音が響いてきた。
私も彼もハッと息を呑んで、足音がする方向に視線を向ける。
先に硬直が解けたのは彼の方だった。
「ここまでみたいだね」
立ち上がり、私に手を差し伸べる。
その手を掴んで私も立ち上がった。
彼の手は驚くほど冷たくて、かすかに震えていた。
足音が大きくなるにつれ、疼くような恐怖心が湧き上がってきた。
何も考えないようにと、何も感じないようにと、そう自分に言い聞かせる。
このままでいいのかな、と私はふと思った。
過去の話をいろいろして、それでも全然語り足りないくらいだけれど、中学の卒業式の日に恋愛永樹の下で——ちょうどこの場所で、二人の間にあったことは最後まで口にできなかった。
何度も何度も、勢いに任せて喋ってしまおうとしたのに、その度に喉がぐっと詰まってしまった。
いつもそうだ。
軽口ならいくらでも叩けるのに、大切なことになると途端に口が重くなる。
私の想いを伝えることができるのは、今が最後だ。
これから私は首を刎ねられるのだから。
それに比べたら、恐れることなんてなにもない。
こんな状況にでもならないと、想いを言葉にすることもできないなんて、それはそれで情けない話ではあるけれど。
(そもそも告白するわけじゃないんだし……)
ただ波戸のことがずっと好きだったと、幼馴染にそっくりな彼に伝えるだけで。
私は彼を振り返った。
彼は自分のポロシャツのボタンを、一つ一つ丁寧に外しているところだった。
そして襟元に手を突っ込み、何かを引っ張り出した。
それはハートの形をしたペンダントだった。
彼はそれを首から外し、私に差し出してくる。
「これ、よかったら貰ってくれないかな」
「……どうして?」
それは「どうして君がそれを持ってるの?」という問いのつもりだったけれど、彼は取り違えたようだった。
「すごく大切なものだから、君に持っていてほしいんだ」
私は頷く。
でも手を伸ばすことができなかった。
ただただ、彼が差し出すペンダントを、じっと見つめることしかできなかった。
「ごめん」
近づいてくる足音に慌てるように、彼は私の首に手を回してペンダントを巻いた。
そして彼が私から身を離した時、木立の隙間から大勢の不思議の国の住人が姿を現した。
♠ ♥ ♣ ♦




