第28話 ジョーカー
「そんな……」
私の口からひび割れた声が漏れる。
血の気が引いていった。
そうなった時、私に脅されたという言い訳は通用するだろうか。
いや駄目だ。
脚本が決定的な証拠としてあげられてしまう。
そうなってしまえば、もうどんな言い訳だって通用しないだろう。
脚本さえ処分できれば……。
私の狙いに気づいたのか、彼女は脚本を両手で握りしめた。
憎しみに似た強い怒りを覚える。
力ずくで奪え返してやろうか。
こっちは二人だ。
細身の女性から紙束を奪うことなんて造作もないだろう。
そう考えて、前かがみになりながら彼に目配せした。
私の視線に気がついた彼が、力なく首を振った。
その態度に苛立ったけれど、すぐに理解する。
彼は保身のために女性に乱暴を働くような人ではない。
でも、と私は思う。
これは彼の命にかかわることなのだ。
なりふり構っている場合ではなかった。
すがる思いで、もう一度彼を見た。
彼は泣き笑いのような顔をして、また首を横に振った。
私はどうすればいいのだろう。
この状況では、何を口にしても彼の助けにはならない。
ただ無闇にジョーカーの反感を煽り、彼の立場を今以上に危うくするだけだ。
本当は彼の潔白を叫びたかった。
無実を訴えたかった。
けれどそれは、私のエゴだ。
ただ自分の感情を発散させたいだけに過ぎない。
そんな浅ましい考えで、これ以上彼を追い詰めるけにはいかなかった。
私はソファに身を沈めた。
黙って丸くなることが最善なこともある。
たとえそれが、最悪から一歩の距離しか離れていなくても。
ジョーカーが追い詰めるように彼に問いかける。
「なぜアリスを見逃したの? なぜアリスの話を信じ、危険を冒してまで救おうとしているの?」
「……わかりません」
「説明も言い訳もしないということは、認めるということでいいのね」
彼は首を振った。
「なら、なにかあるでしょ」
ジョーカーの声音は、まるで懇願するかのようだった。
それでも、彼は首を振ることしかできない。
「本当に、わからないんです。初めは、怒りに震えていました。自分の手で仇を討ってやるんだと、そう息巻いてすらいました。けれど……」
彼は私を横目に見る。
憎むような、慈しむような、不思議な表情だった。
「彼女を見つけて、彼女が首を刎ねられるところを想像して、駄目だって思ったんです。それだけは、絶対に駄目だって。だから……」
言葉はそこで途切れた。
彼は深く項垂れる。
手足の震えが、かすかに伝わってくる。
「……すみません。理由になっていませんよね」
長い沈黙。
やがて彼女は言った。
「いいえ、そんなことはないわ」
そしてまた、長い時間黙り込む。
誰も何も言わなず、衣擦れの音さえしない。
私は妙な酩酊感を覚えた。
「つまり、逆なのね?」
「……逆?」
「あなたは、この子の話を信じたから救おうとしてるわけじゃない。この子を救いたいと思ったから、この子を信じることにしたんだわ。名前を呼ばれたから、なんてのも後付けの理由に過ぎないんでしょ?」
彼ははっと顔をあげ、息を大きく吸い込んだ。
差し出された手に、咄嗟に飛びつきそうになったのだろう。
けれど言葉は出てこなくて、口元は戦慄くだけだった。
やがて絞り出すように、
「……わかりません」
と繰り返した。
そしてまた俯いてしまう。
「本当に、なにもわからないんです。彼女を恨む気持ちは、今でも確かに俺の中にあるんです。でもそれ以上に、俺は彼女を救いたいと思ってる。それがどこからくる感情なのか、いつ芽生えたものなのか、自分でもわからないんです」
ジョーカーは彼から視線を外し、ちらと私を見た。
「もしかしたら、この子には人を操る術があるのかもしれないわね」
なんだそれ、言いがかりにもほどがあるだろう。
怒りを通り越して笑ってしまいそうになったけれど、それならそれでいいや、と思った。
彼の疑いが晴れるなら、もうどんなことでも受け入れられる気になっていた。
ジョーカーは私のことをじっと見つめ、やがて自嘲するように小さく笑った。
「ごめんなさい、そんなわけがないわよね。そんな馬鹿げた力が使えるのなら、そもそも私を頼る必要なんてないし」
彼女は私たちを何度か見比べる。
それから大きく嘆息した。
「わかった。あなたたちのことを信用します」
彼女の言葉に、私たちは顔を見合わせた。
彼はぽかんと間抜けな顔をしている。
たぶん私も同じような表情になっていると思う。
「ただし私が信用するのは、あくまであなたたちよ。あなたたちが、私を貶めようとしているわけじゃないって判断したの。やっぱり、この世界がはりぼての作り物だなんて、どうしても信じる気になれないわ」
彼はぎこちない動きで彼女に向き直り、かすれた声で尋ねた。
「それは、つまり……」
「私にできる範囲なら、協力してあげる」
私と彼は手を取り合って喜んだ。
彼女にたしなめられても、落ち着くまでにしばらく時間がかかった。
「それで、お願いってなんなの?」
「え?」
「最初に言っていたでしょ。私にお願いがあるって」
そうだった。
ジョーカーに協力を取り付けた時点で救われた気になっていたけれど、そうではないのだ。
「この世界からでる方法を教えてくださいっ」
私は前のめりになって、そう言った。
でも彼女の反応は、私が期待していたものとは程遠かった。
「……この世界から出る方法」
眉間にしわを寄せて、彼女は私の言葉を繰り返す。
そして押し黙り、宙に視線をさまよわせた。
「重い罪を犯した者に、国外追放が言い渡されることがあるわ」
けれど、と口の中でつぶやき、それ以上先を言葉にしなかった。
でも続きを聞かなくても、言いたいことはわかった。
同じことを彼から既に聞いていたからだ。
私が犯した罪は重すぎる。
到底、国外追放で済まされるものではない。
興奮が波のように引いていく。
「他に、方法はないんですか?」
そう尋ねながら、私は自分の中に燻る不安の正体に思い至った。
ジョーカーは真帆ちゃんを模しているのだ。
服装も言動も、記憶がないことを除けば等身大の真帆ちゃんだ。
なら彼女は私がイメージしていたような、超越的な人物ではないのかもしれない。
だとしたら、この世界から抜け出す方法を知っている可能性も、決して高くはないのではないか。
その不安に実体を与えるように、彼女は重々しく首を横に振った。
「ごめんなさい。協力するとは言ったけど、力になれそうにないわ」
彼女はこの世界の誰よりも知識を有しているらしい。
それはきっと事実なのだろう。
ハートの女王ですら逆らえない、まさにワイルドカードのような存在だ。
そんな彼女が知らないのなら、この世界から抜け出す方法は、そもそも存在しないのかもしれない。
少なくとも、私の前に都合よく差し出されるものではないのだろう。
つまり、私のたどる未来は今ここに決定した。
斬首。
だから私は精一杯笑った。
「仕方ないですね。そもそも、ダメ元だったわけですし」
彼女が痛ましいものを見るような目を向けてくる。
もしかしたら、うまく笑えていないのかもしれない。
それでも私は笑みを形作った。
「すみません。ちょっと疲れてしまって、よかったら少し横になってもいいですか?」
「ええ、かまわないわよ」
彼女は私を別の部屋に案内してくれた。
六畳ほどの広さの薄暗い部屋で、ベッドだけが隅に置かれていた。
「ありがとうございます」
頭を下げて布団にもぐり込む。
背後で扉が静かに閉められる音。
部屋は暗闇に包まれた。
私は右手の親指の付け根を噛み締めて、必死に嗚咽を堪えた。
彼に泣いていることを悟られるわけにはいかない。
もし彼が同情し、抱く必要のない罪悪感を抱けば、私を助けるために無茶をする恐れがある。
ハートの女王に直談判、なんてことだってありえる。
そんなことをすれば、彼も私と一緒に首を刎ねられてしまうだろう。
それだけは、絶対に避けなければならなかった。
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