第26話 化け時計、下りの登り階段
彼は廊下の真ん中を突き進む。
私は肝を冷やしながらその後を追った。
「だ、大丈夫なの?」
「なにが?」
「もう少し隅っこを歩いたほうが……」
「身を隠せるような物陰なんてないし、変わらないよ」
「そ、そうかもしれないけど」
「たとえ後ろ暗くても、やると決めたからには堂々としてればいいんだ」
私は少し考える。
「開き直るってこと?」
「覚悟を決めるってことだよ」
そう言う彼の横顔は、少し引きつっていた。
首筋には薄っすらと汗が浮かんでいる。
恐れていないわけではないのだ。
恐れたうえで、罪悪感を抱いたうえで、彼は私を救おうとしてくれているのだ。
目地の廊下がひたすら続く。
赤い床、白い壁、豪奢な扉、甲冑、燭台。
単調な景観にめまいがしてくる。
ずっと同じ場所で足踏みをしているような錯覚に襲われて、歩き方がわからなくなってきた。
もつれて転びそうになったところを彼が支えてくれた。
「少し休む?」
「ううん、大丈夫」
「この辺りはほとんど使われてない通路だから、少しくらい休憩しても問題ないよ」
彼はしっかりと現在地を把握しているようだ。
その事実が心の支えとなって元気が戻ってくる。
「ありがとう。でも本当に平気」
「わかった」
私たちはまた歩き始めた。
しばらく進んだところで、彼は扉に手をかける。
開くと、その先には下り階段があった。
幅は狭く、横に並んで降りることはできそうにない。
「足元、気をつけてね」
そう言って、彼は階段を降り始めた。
私も後に続く。
階段は廊下以上に薄暗かった。
しかも底が目視できないほどに長い。
踊り場も手すりもなくて、足を滑らしたら下に着くまで止まることもできず転がり落ちてしまいそうだ。
もし私が転んだら、前をいく彼も巻き込んでしまう。
私は壁に手をついて、注意深く降りていった。
途中から無意識のうちに段数を数えていて、百五十を超えた辺りで下に辿り着く。
前半は数えていなかったから、多分二百段は優にあっただろう。
下に辿り着いた時には息があがっていた。
もしこれが登り階段だったら力尽きていたかもしれない。
辿り着いた先は、これまでとは様相の違う廊下だった。
赤い床と白い壁はそのままに、甲冑や燭台、豪奢な扉がどこにもない。
それに幅が五分の一くらいになっていた。
元々が馬鹿みたいに広かったから、それでも学校の廊下くらいの幅があるけれど。
壁の高い位置に採光窓が点々とあるものの、薄暗さは相変わらずだ。
でも自然光だからか、閉塞感は若干和らいだ気がする。
心なしか呼吸がしやすかった。
右手の壁沿いに何かが置かれているのが目に入る。
木製の巨大な柱時計だ。
通り過ぎる際に、チラと時刻を確認する。
「……あれ?」
思わず足が止まってしまった。
時計が読めなかったからだ。
短針がない代わりに、なぜか長針が四つもある。
しかもてんでバラバラな方向に、てんでバラバラな速度で動いているし。
それに数字もおかしかった。
壱とか弐とか難しい方の漢数字っぽいんだけど、どれも見たことがない。
創作漢数字とでもいえばいいのだろうか……。
そもそもその創作漢数字も全部で九つしかなかった。
現実の時計とは、似ても似つかない。
「……なにこれ?」
そう声に出してから、背筋に冷たいものが走る。
(そういえばスマホの時刻表示も、変になってて……)
でもあれは本当に、スマホの時刻表示がおかしいのだろうか?
私が時刻を認識できなくなってしまっただけなんじゃないだろうか?
(もしかして、おかしいのって……)
私が立ち止まっていることに気づいたハートのエースが戻ってくる。
「どうしたの?」
「……これって何時?」
「ああ、これは化け時計だよ」
「化け時計?」
「うん」
彼はそれ以上の説明をしなかった。
きっとこの世界では当たり前の存在なのだろう。
「……それで、今って何時なの?」
「さぁ。女王様に聞いてみないと」
「時間を知ってるのって、ハートの女王だけなの?」
「知ってるというか、女王様が時間を決めるから」
「時間を決める?」
その言葉の意味を、しばらく考えてみる。
「……女王様が『今は九時だ』って言ったら九時になるし『十二時だ』って言ったら十二時になるってこと?」
「君の世界だと違うの?」
「そもそも女王様がいないから」
まあ国によってはいるんだけど、それを説明するとややこしくなる。
「え? でもあの映像には……」
「だからあれは私の友達だって。女王様でもなんでもないよ」
「あ、そっか……」
私と同じくらい、彼も混乱しているようだ。
そのことがおかしくて、つい笑ってしまう。
「ごめん、引き止めて。行こう」
「そうだね」
廊下には脇道がたくさんあって、迷路のように入り組んでいた。
これは確かに彼の道案内がなければ、到底辿り着くことはできないだろう。
どの廊下も左にゆるくカーブしていて、先を見通せなかった。
引き返しても同じように左に曲がっているんじゃないかと、ふとそんなことを思った。
「それにしても、不思議の国って全然人がいないんだね」
何気なくそう言うと、彼が非難するような目を向けてきた。
「え? な、何?」
「……君がトランプ兵を壊滅させたんじゃないか。だから俺たちは、こうして動けてるんだ」
「ああ」
なるほど、そういうことなのか。
トランプ兵たちとの大立ち回りが無駄ではなかったと知って、ちょっと嬉しかった。
「君もトランプ兵なんだよね。なんで君だけ無事だったの?」
ふと思いついたことを、そのまま口にする。
それから「しまった」と思った。
この世界の矛盾点を指摘してしまったら、何が起こるか分からないのだ。
私もろとも、この世界が崩れ落ちてしまう可能性だってゼロではない。
でもそんな私の心配をよそに、彼はなんでもないことのように答えた。
「トランプ兵は五人一組で行動するからね。どうしても一人余るんだよ」
私は思い出す。
——あ、そっか。ハートの女王をのぞけば五一人か。
いつだったか、瀬川がそんなことを言っていた。
この世界は私が想像しているよりもずっと、整合性がとれているのかもしれない。
ふと廊下の先が、やけに明るいことに気づく。
電灯でもついているのかと思ったけれど、そうじゃなかった。
その一角の壁が、ぽっかりと開いていたのだ。
「あっ」
さらに近づいて、そこがバルコニーだとがわかる。
私は衝動的に駆け出し、バルコニーに出た。
外の見えない城内にずっといたことが、自覚している以上にストレスになっていたようだ。
開放感が私を満たし——そしてひゅっと短く息を吸い込む。
想像していたよりもずっと高かったからだ。
眼下に広がる森は白く霞んでいる。
私は校外学習で登ったスカイツリーの展望台を思い出した。
いや、多分これはそれ以上に高い。
おかしい。
外から見た時は、こんな馬鹿げた高さの城ではなかったはずだ。
森から城を見上げた時と、城から森を見下ろした時とでは、高さがまるで違う。
いや、そもそも……。
「危ないよ」
腰の高さくらいしかない柵から身を乗り出していた私の腕を、ハートのエースがそっと掴む。
「……ねえ、私たちって階段を下りてここに来たよね?」
「うん」
「なのになんで、こんな高いとこにいるの?」
「あれは下りの登り階段だから」
「下りの登り階段?」
「そうだよ」
また彼は詳しい説明を省く。
きっと尋ねても「君の世界にはないの?」と問い返されるだけだろう。
バルコニーから城を振り返り、私たちが今いるところが、いくつかある尖塔のうちの一つだと知る。
私は廊下に頭だけを戻し、左右を確認した。
ゆるくカーブしているから突き当たりは目視できないけれど、とにかく相当な長さであることは間違いない。
というかこのバルコニーに辿り着くまでにも、かなりの距離を歩いてきたのだ。
もう一度バルコニーに出て、尖塔を確認する。
直径はせいぜい二十メートルといったところだ。
「…………」
「どうしたの?」
「……ううん、なんでもない」
私はもう尋ねることもしなかった。
むしろ私たちの世界の方がおかしいような気さえしてくる。
下りの登り階段がなかったり、下から見上げた時と上から見下ろした時の高さが同じだったり、外観と内観の規模が一致していたり……。
そうであることの方が、変なんじゃないだろうか。
私たちの世界は、どうしてそうなっているのだろう?
誰に尋ねれば答えてくれるのかすら、私にはわからなかった。
「あれ」
ハートのエースが、ここよりもさらに高い位置にある尖塔を指差した。
「俺たちが目指してるのは、あそこだよ」
「ふうん」
こことあそこを繋ぐ連絡通路のようなものはない。
どうやってあそこまで行くのか気になったけれど、きっとまた下りの登り階段とかを通るのだろう。
自棄っぱちにそんなことを考えたけれど、全然違った。
水没したコンサートホールを手漕ぎボートで渡り、足元に夜空が広がるとんでもなく広い空間を横切り、洋室に作られた日本庭園のような不思議な部屋(そこを通るときだけ私も彼も靴を脱いだ)を通った——その先の廊下の突き当たり。
そこにある扉を指差して、
「あそこ」
と彼は言った。
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