第24話 ジブリ
どれくらい、そこで丸くなっていただろう。
時間の感覚がうまくつかめなかった。
この世界は現実の世界と時の流れ方が違うのかもしれない。
そんな気がした。
気づけば足音も怒声も聞こえなくなっていた。
音も光りもない空間でじっとしていると、がらくたの一部として不思議の国に取り込まれてしまいそうな気がして、たまに手足を動かした。
両手の指を絡め、その輪郭を互いに確かめ合う。
すると暗闇の中に、ぼうっとその形が浮かんでくるような気がした。
それは私の手とは少しだけ形が違う。
けれど見覚えがあるような気がした。
それが誰の手なのか見定めようと目を凝らしたけれど、わからなかった。
身じろぎした際に、手が何かに触れてかさりと音を立てる。
なんだろうと拾い上げて、すぐに思い当たった。
脚本だ。
ここに逃げ込むまでずっと、縋るように握りしめていたのだ。
私は小さく笑う。
溺れるものは藁をも掴む、なんて言うけれど、私の場合は脚本だったようだ。
絶対の法則だったはずのそれは、もうなんの役にも立たない。
扉が開かれる音に、私は顔をあげる。
光りに目がくらんだ。
扉はすぐに閉じられ、また辺りは暗闇に包まれる。
部屋の中に、私とは別の息遣いが一つ増えていた。
しばらくして、温かみを帯びた明かりが部屋を照らす。
気配が近づいてきて、幼馴染を模したトランプ兵が姿を見せた。
彼は手にはランプが握られていた。
よく磨かれたガラスの中で、火が踊るように浮かんでいる。
もう片方の手には小さな手提げ鞄を持っていた。
「逃げなかったんだな」
「戻ってくると思ったから」
「アリスで、間違いないな」
「うん」
「トランプ兵を壊滅させて、王様を殺害したっていう」
「……うん」
彼は拳をきつく握る。
その顔には明らかに怒りの色が滲んでいる。
沈黙に耐えられなくて、私は彼に尋ねた。
「なんで、私を見逃したの」
「見逃したわけじゃない」
吐き捨てるように言い、彼はがらくたの山に視線を移した。
大きさの不揃いな木箱が乱雑に積まれ、隙間を埋めるように雑多なものが散乱していた。
どれも不思議な形状をしていて、何ひとつ用途がわからなかった。
まるで機械仕掛けの何かを一度ばらして組み立て直した際に、なぜか余ってしまった部品みたいだと私は思った。
「訊きたいことが、あったから」
それは言い訳のようにも聞こえた。
「訊きたいこと?」
「なんで俺の名前を知ってる」
「ハートのエースが名前じゃないの?」
「それは役の名だ。質問に答えろ」
彼の物言いは厳しいものだった。
私を警戒しているのだろう。
彼の口から「役」という言葉が出てきて驚いたけれど、口ぶりからして私の知る意味とは少し違う気がした。
しばらく悩んでから、私は正直に答えることにした。
「幼馴染だからだよ」
「幼馴染?」
「うん。私と君は、こことは別の世界で幼馴染なんだ」
私は全て本当のことを話した。
文化祭で演劇をやることになったこと。
名前のせいで主役に選ばれたこと。
白ウサギを追いかけて不思議の国に迷い込んでしまったこと。
この世界が瀬川の——別の世界の王様が作った脚本通りに進んでいたこと。
そして、その筋書に背き全てが変わってしまったこと。
彼は口を挟むことなく私の言葉にじっと耳を傾けていた。
長い沈黙。
やがて彼は、重々しく首を振った。
「よく、わからない。君の言うことが本当なら、この世界ははりぼての作り物だってことになる。さすがに、受け入れられない」
彼の言葉から刺々しさがなくなっていた。
混乱して、私に敵意を向けることを忘れているのだろう。
「脚本の通りに進んでいた? 王様がそれを作った? 君と俺が幼馴染だった?」
「あ、脚本ならあるよ」
適当なページを開き、彼に差し出す。
彼は訝しそうな顔で受け取ると、その場に腰を下ろし、ランプの光を脚本にかざした。
そして目を見張り、
「これ、俺の字」
とつぶやいた。
慌ただしくページをめくっていく。
「これっ」
大きな声を出してから、見つかってはいけないことを思い出したようで、はっと口をつぐんだ。
「……王様の字」
一瞬、何を言っているのかわからなかった。
けれどすぐに思い当たる。
『トランプ兵はアリスに一方的に派手にやられる。』
それは瀬川によって書き足された文章だ。
「わかるんだね、そういうの」
「王様の字は、癖が強いから」
「表紙にもあるよ」
彼は脚本を閉じ、そこに書かれた二人分の署名を目にした。
彼の手が凍えるように震え出す。
黒目がせわしなく動き、徐々に呼吸が浅く早くなっていく。
私はふと思い出して、ポケットからスマホを取り出した。
相変わらず時刻表示が文字化けしたままだ。
データが壊れていないか心配しながらギャラリーを開き、そして動画を再生した。
『有子、なにしてるの。やるわよ』
『ああ、うん。いまいく』
「女王様……」
彼は喉の奥で小さくつぶやいた。
『ぼ、僕はっ、ただの通りすがりだぴょん! そこのトランプ兵たちとは、なんの関係もないぴょん。だから斬らないでほしいぴょん!』
「これは、君だ。トランプ兵たちも、いる」
『わ、笑わないでよ』
『笑ってないって』
『肩、震えてるわよ』
「お、俺もいるっ。王様も!」
横から覗き込む。
彼の言う通りだった。
窓際の席で向き合って、何事かを話し合っている波戸と瀬川が見切れていた。
映像はまだ続いていたけれど、彼は画面から視線を外し、俯いてしまった。
しばらく画面を彼に向け続けていたけれど、なんだか酷いことをしているような気がして、私は再生を止めた。
「……これ」
彼が手提げ鞄を差し出してきた。
「え?」
「お腹、空いてるかなと思って」
受け取って覗き込むと、おにぎりが三つと水筒が入っていた。
「もらっていいの?」
彼は顔を上げないまま頷いた。
特にお腹は減っていなかったけど、親切を無碍にするわけにもいかない。
とりあえず水筒を取り出して、中身を蓋に注いだ。
湯気とともに、麦茶のほっとする匂いが立ち込める。
なんだか懐かしい。
蓋がコップになっているタイプの水筒を使うのは小学校の低学年以来だ。
高学年にもなってコップ付きの水筒はダサい、なんて謎の風潮が、通っていた小学校にはあったのだ。
(そういえば波戸は、ずっとこのタイプの水筒を使ってたな……)
周りから揶揄われても特に気にせず、「蓋があった方が便利だし」なんてあっけらかんと言っていた。
真っ先に親に、おしゃれなタンブラーをねだった私とは大違いだ。
波戸は昔から、他人の価値観に左右されない人だった。
麦茶を一口飲んで、小さく息を吐き出す。
それと同時に、痛いほどの空腹感に苛まれた。
お腹が空いていなかったわけじゃなくて、自覚もできないほどにずっと気を張っていただけらしい。
おにぎりを一つ取り出す。
ノリは巻かれていなくて、粒だったお米が密集している。
まだほんのりと温かった。
私のために、わざわざ新しく炊いてくれたのかもしれない。
「……これって、中身は何?」
「昆布だよ」
「全部?」
「うん。もっと種類があった方がよかったんだろうけど」
「ううん、私梅干し食べれないから、昆布でよかった」
すると彼が驚いたように顔をあげる。
見開かれた目でまじまじと見つめられ、私はドギマギとした。
「な、なに?」
「……いや、なんでもない」
彼はまた俯いてしまった。
私はおにぎりをかじる。
一口では昆布にまで届かなかった。
それでもお米の甘さが口腔内に広がって、私はなんだか泣きそうになる。
(……なんか、映画にこういうシーンあったな)
しばらく考えて、千と千尋だと思い当たる。
子供の頃に、波戸の家で彼と一緒に観たことがあった。
波戸の両親がジブリのファンで、DVDボックスが置いてあったのだ。
千と千尋だけでなく、ほとんどのジブリ映画の思い出を、私は波戸と共有していた。
中学生の時に公開された最新作も、波戸と一緒に映画館まで観に行った。
同級生と鉢合わせしないように、わざわざ地元から遠く離れた映画館まで足を運んで。
帰りの電車を乗り間違えて、門限を超えて両親にはひどく怒られた。
どこで何をしていたのかと聞かれたけれど、正直に答えるのがなんとなく恥ずかしくて、友達の家でお喋りに夢中になっていたと、私は嘘をついた。
示し合わせたわけでもないのに、波戸もほぼ同じ嘘をついたそうだ。
「友達の家でゲームに夢中になっていた」と。
後日そのことを知った私たちは、「嘘をつくにしてもベタすぎるでしょ」とお互いを馬鹿にし合った。
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