第22話 どうして
「……す、すごいぴょん! あの王様を倒すなんて!」
白ウサギは扉を開く。
それは私が視線をそらした一瞬のうちに、壁の一角に卒然と現れたものだった。
でもその程度のことでは、もう驚かなくなっていた。
慣れってすごい。
「女王様はこの先にいるぴょん! さあ、ここからは一人で行くぴょん!」
「その隙に逃げるつもり?」
私は台詞を読み上げる。
「に、逃げる? 意味がわからないぴょん! 僕に逃げる理由なんてないぴょん!」
「さっき王様が言ってたじゃない、逃げろって」
「でもアリスが探してるのは女王様だぴょん?」
「うん。だからあなたは逃げようとしてるんでしょ?」
「い、意味がわからないぴょん!」
私もよくわからなかった。
アリスは何が言いたいのだろう?
ページをめくる。
「もうやめにしよう。ハートの女王」
「僕は白ウサギだぴょん!」
「それはあなたの仮の姿でしょ。もうとっくにバレてるの。そもそも、どうしてあなたは私の名前を知ってるのよ。あなたに名前を教えた覚えはないんだけど。私が名乗ったのは——ハートの女王にだけよ」
続きには、こうあった。
『白ウサギは正体を明かす。』
震える手で、白ウサギは被り物を外した。
はらりと、長い黒髪がこぼれ落ちる。
私は唖然とした。
「か、佳代……」
男物の服を着ているし、身長が高くすらりとした体型(特に胸が)だから、なんとなく男だと思い込んでいた。
「い、いつから気づいていたの?」
佳代は――ハートの女王は言った。
声は唯のものではなく、彼女自身のものだ。
私は我に返り、慌てて脚本の続きを読んだ。
「最初からよ」
「最初から?」
「私は白ウサギを追いかけてこの国にきた。それなのに、そこにいたのは白ウサギじゃなくて、あなただけだった」
「そ、それだけで、白ウサギが私の仮の姿だと?」
「確信したのは、白ウサギと再会した時だけどね。あの時あなたは、トランプ兵に遅れて私を追ってきた。そこで私がトランプ兵を蹴散らすのを目撃して、慌てて白ウサギに化けた。そんなところでしょ?」
「気づいていたなら、その場で私を……」
「それだと王様が逃げちゃうかもしれないじゃない。でもあなたの側にいれば、王様は必ず私の前に姿を現す。実際にそうなったみたいにね」
私はページをめくった。
「そもそも、あんなにトランプ兵と遭遇するなんて、おかしいじゃない。みんなあなたを助け出そうと、必死だったんでしょ」
震えるほどに怯えながら、それでも立ち向かってくるトランプ兵たちの姿を思い出す。
「あ、あなたの目的はなんなの?」
「別に、特にないわ」
「と、特にない?」
「しいて言うなら、私は退屈だったの。とってもとっても、退屈だったの。つまり、ただの暇つぶしよ」
「そ、そんな理由で……」
ハートの女王の口元がわななく。
私は脚本の指示に従い、聖剣を女王に向けた。
「無駄な抵抗はやめなさい。あなたはここでお終いなの」
ハートの女王はぺたんと床に座り、怯えた表情で私を見上げる。
不覚にも、意外な展開に少し興奮していた。
ただのくだらないコメディだと思っていたのに、ちょっと面白いと思ってしまっている自分がいる。
変だと思っていたのだ。
「大変だ、大変だ、遅れてしまいそうだ!」と白ウサギが慌てる、原作を読んだことがなかった私でも知っていた冒頭の象徴的なシーンで、なぜか白ウサギに台詞が用意されていなかった。
なるほど。
確かに白ウサギがハートの女王の仮の姿なら、急ぐ理由などどこにもないだろう。
相手が誰でどんな用事があろうと「何か文句でも?」と開き直ってしまえばいいのだから。
白ウサギは懐中時計を持ち歩く必要すらないのだ。
波戸が美穂にした衣装の要望も、そういうことだったのかと納得する。
中にインナーが着られること、脱ぎやすいこと。
それらはつまり、衣装の早着替えに必要な要素だったのだ。
「きゃあ、やめてっ!」
ハートの女王は腕で頭を庇いながら、悲痛な声で叫んだ。
もう物語は終盤だ。
この後一体どうなるのだろう。
私は急いでページをめくる。
次が最終ページだった。
そこにはただ、こう書かれていた。
『「さようなら」
アリスは冷淡に言い放ち、ハートの女王を斬り伏せる。
「きゃあああああ!」
悲鳴をあげて倒れ込むハートの女王。
そしてナレーション。
「ハートの女王を打ち取ったアリスは、
新たな女王として不思議の国に君臨するのでした。
めでたしめでたし」』
私は脚本を握りつぶした。
「ふざけんな!」
せっかく面白くなりそうだったのに……。
なんなんだ、このオチは。
(いやでも、夢オチに比べたら……)
そう考えるとパロディ劇の終わり方としては、そう悪くないのかもしれない。
そこまで考えて、ふと不安になる。
私はこれからどうすればいいのだろう?
脚本の通りに進めていれば、全てが丸く収まると思っていた。
きっと元の世界に戻れるはずだと、根拠もなく信じていた。
けれど違った。
そこに救いなんてなかった。
ハートの女王は腕の隙間から辺りを窺い、不思議そうに首をかしげた。
「きゃあ、やめてっ!」
そして同じ台詞を繰り返す。
「だ、大丈夫だよ。何もしないから」
不思議の国の新たな女王になる気なんてなかった。
そもそも、本当になれるかどうかもわからない。
物語はそこで終わるのだ。
完結と同時に、この世界が足元から崩れ落ちたとしてもおかしくはない。
ふと、神隠しや天狗の怪談を思い出す。
山に足を踏み入れ、そして行方知らずになった人たち。
彼らは今、どこで何をしているのだろう?
「私は、元の世界に戻りたいだけだから」
彼女は虚ろな目で、じっと私を見ていた。
そしてまた同じ言葉を繰り返す。
「きゃあ、やめてっ!」
恐怖心を煽るように、心臓が高鳴り始める。
なぜこんなにも怖いのだろう。
私は一体何に怯えているのだろう。
理由はわからなかった。
それは大きな音や激しい光に対して感じる生得的な恐怖心によく似ていた。
「きゃあ、やめてっ!」
四度目だ。
瓦礫が崩れ、暗示的な音を立てた。
もうこれで最後だと、誰かが私に告げたような気がした。
彼女は私を見つめる。
何かを訴えかけるように、あるいは断罪するように——虚ろな目で見つめてくる。
やがて、彼女は言った。
「どうして?」
それが何に対する問なのか、私にはわからなかった。
でも確かなことが一つだけあった。
それは脚本にはない台詞だ。
取り返しのつかない句点が打たれたことを、私は悟った。
「わ、私は、あなたに危害を加える気はないの」
無駄だと知りながら必死に訴える。
ハートの女王は私を指差し、淡々とした声音で言った。
「この者の首を刎ねよ」
背後で瓦礫の崩れる音。
振り返ると、王様が何事もなかったように立ち上がっていた。
彼は虚ろな目を湛えながら近づいてくる。
「こ、こないでっ」
後退ろうとして、窪みに足を取られて転んでしまった。
その際に、聖剣を取り落としてしまう。
ふくらはぎに鋭い痛み。
瓦礫の破片で切ってしまったようで、一筋の血が垂れた。
慌てて立ちあがろうとしたけれど、その時にはすでに王様がすぐ近くにまで迫っていた。
伸ばされた手は、本来のものよりもずっと大きなもののように思えた。
握り潰されてしまう。
本気でそう感じるほどに。
這うように後退った私の手に、何かが触れる。
それは棒状をしていた。
「やめて!」
すがるように掴んで、目を瞑りながら王様に向けて突きつけた。
ずぐ——と手に持った何かから伝わる柔らかい感触。
生々しいそれは、温もりのようなものを内包して私の腕に伝わった。
私は目を開いた。
手に握られていたのは、王様の煌びやかな槍だった。
粘着質な赤黒い液体が槍を伝ってくる。
反射的に手を離し、垂れてくる液体から逃れるように身を捻った。
王様はたたらを踏み、咳き込んだ。
口から血しぶきが飛ぶ。
そして詰まりでも取れたかのように、ごぼっと吐血した。
王様は怪訝そうに、己の胸を貫く槍を見下ろしていた。
彼は槍を両手で掴む。
けれど力が入らないのか、うまく引き抜くことが出来ないでいた。
やっとのことで槍が抜ける。
一瞬の間の後、傷口から勢いよく血が噴き出した。
がらんがらんと槍が床を跳ねる。
王様はその場に崩れ落ち、しばらく痙攣した後に、ピクリとも動かなくなった。
血が犯すように広がり床の窪みを満たしていく。
その悲鳴が女王のものだったのか、あるいは自分自身のものだったのか、判然としない。
私は礼拝堂から逃げ出した。
扉から転がり出た先は目地の廊下だった。
きっと出口なんてどこにもないのだろう。
それでも私はでたらめに突き当りを曲がり続けた。
背後から複数の、おそらく十を越える足音が追いかけてくる。
役者の数よりも多い。
この世界に存在しないはずの何かが私を追いかけてくる。
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