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8/17

ここじゃなくても続く

その日は、少しだけ風があった。


強く吹くわけでもなく、かといって完全に止まっているわけでもない。忘れた頃に思い出したみたいに、ふわっと空気が揺れて、ほんのわずかに体に触れてくる。


公園の木が、そのたびに小さく反応する。枝がかすかにしなり、葉と葉が触れ合って、さらさらとした音を立てる。その音は一瞬遅れて耳に届いて、静かな空間の中でやけにくっきりと残った。


昨日までの湿った空気は、もうほとんど消えている。足元の地面はしっかり乾いていて、あれだけあった水たまりも、跡形もなく消えていた。ほんの数日前までの景色が嘘だったみたいに、何もなかったかのように元に戻っている。


「……普通だな」


思わず、そんな言葉が口から漏れる。


言ってから、自分で少しだけ引っかかる。ここに来ること自体が、もう普通じゃない。それなのに、“普通”だと思ってしまうくらいには、この場所に来る流れが自然になってきている。


軽く息を吐く。意識していなかったはずなのに、ほんの少しだけ肩に力が入っていたらしい。


そのまま、公園の中に足を踏み入れる。


砂を踏む音が、小さく鳴る。


一歩。


また一歩。


同じはずの音なのに、今日は少しだけはっきり聞こえた。


視線は、自然とブランコの方へ向く。


探そうとしているわけじゃない。でも、もう分かっている。そこにいると、最初から知っているみたいに。


——いた。


ブランコに座っている。


ミア。


今日は、ほんの少しだけ揺れている。片足で地面を軽く蹴って、ゆっくりと前後に動いているだけの、小さな揺れ。


それでも、完全に止まっているよりはずっと分かりやすい。“そこにいる”という実感が、はっきりと目に入る。


「来ましたね」


ミアが言う。


こちらを見ないまま、前を向いたまま。それでも、ちゃんと気づいている声だった。


「そっちこそ」


短く返す。


そのまま歩いて距離を詰める。ブランコの隣まで来て、立ち止まる。


今日は座らない。


理由は特にない。ただ、なんとなく、立ったままの方が自然に感じた。


風が吹く。


ブランコが、きぃ、と小さく鳴る。その音に合わせて、ミアの体がわずかに揺れる。


その揺れが、妙にゆっくり見えた。


「今日は、ちゃんといるね」


ミアがぽつりと言う。


「どういう意味だよ」


少しだけ眉を寄せて聞き返す。


「なんとなく」


あっさりとした返事。


深い意味を説明する気も、補足する気もない。ただ、そのままの言葉だけが落ちる。


でも、それで十分だった。


それ以上聞く必要はないし、聞いても意味はない気がした。


少しだけ間が空く。


風がまた吹く。


葉が擦れる音が重なる。


その中に、ブランコのきしむ音が混ざる。


「更新は?」


いつもの言葉。


でも今日は、ほんの少しだけ軽い。


確認というより、ただの流れみたいな、そんな響きだった。


「あるにはあるけど」


正直に答える。


今日はちゃんと考えてきたわけじゃない。考えようとはした。でも途中でやめた。


理由を作ることより、ここに来ることの方が先に決まっていたから。


「じゃあ、それでいいよ」


ミアが言う。


あっさりと。


「今日は別に、どうでもいい日だから」


「なんだそれ」


思わず笑う。


「どうでもいい日って」


ミアは少しだけブランコを強く蹴る。揺れが一瞬だけ大きくなって、前に出て、すぐにまた戻ってくる。


その動きが、少しだけ子どもっぽく見えた。


「あるでしょ、そういうの」


「まあ……あるな」


頷きかけて、少しだけ考える。


何も起きない日。特別な意味もなく、ただ終わるだけの日。


振り返っても、何も残らないような日。


確かに、ある。


「でもそれ、ダメなんじゃなかったのか」


前に言われたことを思い出して言う。


ミアはすぐには答えない。


ブランコの揺れに合わせて、視線がわずかに動く。


ほんの数秒。


それから——


「……たまにならいいよ」


ぽつりと答える。


「ずっとはダメだけど」


その言い方が、やけに現実的だった。


極端じゃない。ちゃんと境界がある言い方。


「じゃあ今日は“たまに”の日か」


「そう」


短く返ってくる。


それで終わり。


少しだけ沈黙が落ちる。


でも、気まずくはない。


無理に話さなくても、そのままでいられる空気。


風が吹く。


葉が鳴る。


ブランコがきしむ。


その全部が、ちょうどいい間を作ってくれる。


「なあ」


なんとなく口を開く。


「ん」


ミアが小さく返す。


「そのブランコ、楽しいか?」


言ってから、自分でも少しだけ子どもっぽいと思う。


でも、引っ込める気はなかった。


ミアはすぐには答えない。


少しだけ考えてから、ゆっくりと口を開く。


「……よく分かんない」


「分かんないのかよ」


「でも、嫌いじゃない」


その言い方に、思わず小さく笑う。


「それ多いな」


「なにが」


「“嫌いじゃない”ってやつ」


ミアは少しだけ黙る。


足が地面につく。


ブランコが止まる。


揺れが消えて、完全に静止する。


「楽しいって、あんまり分かんないから」


静かな声だった。


「でも、ここにいるのは嫌じゃない」


その言葉は短いのに、ちゃんと残る。


軽くない。でも、重すぎるわけでもない。


ただ、そのままそこにある感じ。


「……そっか」


それしか言えなかった。


でも、それでよかった。


「変なの」


ミアがぽつりと呟く。


「何が」


「こういうの」


少しだけ周りを見る。


誰もいない公園。


風の音。


ブランコの音。


「普通っぽい」


「……まあな」


否定はしない。


できない。


「でもさ」


ミアが続ける。


「普通って、続かないよね」


「急だな」


「なんとなく」


視線は前のまま。


どこを見ているのか分からない。


「だから、まあいいかなって」


「今日くらい?」


聞き返す。


ミアは小さく頷く。


「うん」


また少しだけ間が空く。


同じ場所にいるだけの時間。


それで成立している感じ。


何もしていないのに、ちゃんと“続いている”。


「なあ」


もう一度口を開く。


「明日さ」


ミアが、わずかに視線を向ける。


「コンビニでも行くか」


自然に出た言葉だった。


ここじゃない場所。


でも、この流れの延長にある場所。


ミアは少しだけ考える。


ほんの数秒。


風が吹く。


葉が揺れる。


その音が、間を埋める。


「……いいよ」


あっさりと答える。


「どこでもいい」


その言い方が、少しだけ柔らかい。


前よりも、ほんの少しだけ。


「じゃあ決まりな」


「うん」


短いやり取り。


それだけ。


それだけなのに——


ちゃんと次に繋がっている感じがした。


ここじゃなくてもいい。


でも、終わるわけじゃない。


そのまま続いていく。


そんな感覚だけが、静かに残った。

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