ここじゃなくても続く
その日は、少しだけ風があった。
強く吹くわけでもなく、かといって完全に止まっているわけでもない。忘れた頃に思い出したみたいに、ふわっと空気が揺れて、ほんのわずかに体に触れてくる。
公園の木が、そのたびに小さく反応する。枝がかすかにしなり、葉と葉が触れ合って、さらさらとした音を立てる。その音は一瞬遅れて耳に届いて、静かな空間の中でやけにくっきりと残った。
昨日までの湿った空気は、もうほとんど消えている。足元の地面はしっかり乾いていて、あれだけあった水たまりも、跡形もなく消えていた。ほんの数日前までの景色が嘘だったみたいに、何もなかったかのように元に戻っている。
「……普通だな」
思わず、そんな言葉が口から漏れる。
言ってから、自分で少しだけ引っかかる。ここに来ること自体が、もう普通じゃない。それなのに、“普通”だと思ってしまうくらいには、この場所に来る流れが自然になってきている。
軽く息を吐く。意識していなかったはずなのに、ほんの少しだけ肩に力が入っていたらしい。
そのまま、公園の中に足を踏み入れる。
砂を踏む音が、小さく鳴る。
一歩。
また一歩。
同じはずの音なのに、今日は少しだけはっきり聞こえた。
視線は、自然とブランコの方へ向く。
探そうとしているわけじゃない。でも、もう分かっている。そこにいると、最初から知っているみたいに。
——いた。
ブランコに座っている。
ミア。
今日は、ほんの少しだけ揺れている。片足で地面を軽く蹴って、ゆっくりと前後に動いているだけの、小さな揺れ。
それでも、完全に止まっているよりはずっと分かりやすい。“そこにいる”という実感が、はっきりと目に入る。
「来ましたね」
ミアが言う。
こちらを見ないまま、前を向いたまま。それでも、ちゃんと気づいている声だった。
「そっちこそ」
短く返す。
そのまま歩いて距離を詰める。ブランコの隣まで来て、立ち止まる。
今日は座らない。
理由は特にない。ただ、なんとなく、立ったままの方が自然に感じた。
風が吹く。
ブランコが、きぃ、と小さく鳴る。その音に合わせて、ミアの体がわずかに揺れる。
その揺れが、妙にゆっくり見えた。
「今日は、ちゃんといるね」
ミアがぽつりと言う。
「どういう意味だよ」
少しだけ眉を寄せて聞き返す。
「なんとなく」
あっさりとした返事。
深い意味を説明する気も、補足する気もない。ただ、そのままの言葉だけが落ちる。
でも、それで十分だった。
それ以上聞く必要はないし、聞いても意味はない気がした。
少しだけ間が空く。
風がまた吹く。
葉が擦れる音が重なる。
その中に、ブランコのきしむ音が混ざる。
「更新は?」
いつもの言葉。
でも今日は、ほんの少しだけ軽い。
確認というより、ただの流れみたいな、そんな響きだった。
「あるにはあるけど」
正直に答える。
今日はちゃんと考えてきたわけじゃない。考えようとはした。でも途中でやめた。
理由を作ることより、ここに来ることの方が先に決まっていたから。
「じゃあ、それでいいよ」
ミアが言う。
あっさりと。
「今日は別に、どうでもいい日だから」
「なんだそれ」
思わず笑う。
「どうでもいい日って」
ミアは少しだけブランコを強く蹴る。揺れが一瞬だけ大きくなって、前に出て、すぐにまた戻ってくる。
その動きが、少しだけ子どもっぽく見えた。
「あるでしょ、そういうの」
「まあ……あるな」
頷きかけて、少しだけ考える。
何も起きない日。特別な意味もなく、ただ終わるだけの日。
振り返っても、何も残らないような日。
確かに、ある。
「でもそれ、ダメなんじゃなかったのか」
前に言われたことを思い出して言う。
ミアはすぐには答えない。
ブランコの揺れに合わせて、視線がわずかに動く。
ほんの数秒。
それから——
「……たまにならいいよ」
ぽつりと答える。
「ずっとはダメだけど」
その言い方が、やけに現実的だった。
極端じゃない。ちゃんと境界がある言い方。
「じゃあ今日は“たまに”の日か」
「そう」
短く返ってくる。
それで終わり。
少しだけ沈黙が落ちる。
でも、気まずくはない。
無理に話さなくても、そのままでいられる空気。
風が吹く。
葉が鳴る。
ブランコがきしむ。
その全部が、ちょうどいい間を作ってくれる。
「なあ」
なんとなく口を開く。
「ん」
ミアが小さく返す。
「そのブランコ、楽しいか?」
言ってから、自分でも少しだけ子どもっぽいと思う。
でも、引っ込める気はなかった。
ミアはすぐには答えない。
少しだけ考えてから、ゆっくりと口を開く。
「……よく分かんない」
「分かんないのかよ」
「でも、嫌いじゃない」
その言い方に、思わず小さく笑う。
「それ多いな」
「なにが」
「“嫌いじゃない”ってやつ」
ミアは少しだけ黙る。
足が地面につく。
ブランコが止まる。
揺れが消えて、完全に静止する。
「楽しいって、あんまり分かんないから」
静かな声だった。
「でも、ここにいるのは嫌じゃない」
その言葉は短いのに、ちゃんと残る。
軽くない。でも、重すぎるわけでもない。
ただ、そのままそこにある感じ。
「……そっか」
それしか言えなかった。
でも、それでよかった。
「変なの」
ミアがぽつりと呟く。
「何が」
「こういうの」
少しだけ周りを見る。
誰もいない公園。
風の音。
ブランコの音。
「普通っぽい」
「……まあな」
否定はしない。
できない。
「でもさ」
ミアが続ける。
「普通って、続かないよね」
「急だな」
「なんとなく」
視線は前のまま。
どこを見ているのか分からない。
「だから、まあいいかなって」
「今日くらい?」
聞き返す。
ミアは小さく頷く。
「うん」
また少しだけ間が空く。
同じ場所にいるだけの時間。
それで成立している感じ。
何もしていないのに、ちゃんと“続いている”。
「なあ」
もう一度口を開く。
「明日さ」
ミアが、わずかに視線を向ける。
「コンビニでも行くか」
自然に出た言葉だった。
ここじゃない場所。
でも、この流れの延長にある場所。
ミアは少しだけ考える。
ほんの数秒。
風が吹く。
葉が揺れる。
その音が、間を埋める。
「……いいよ」
あっさりと答える。
「どこでもいい」
その言い方が、少しだけ柔らかい。
前よりも、ほんの少しだけ。
「じゃあ決まりな」
「うん」
短いやり取り。
それだけ。
それだけなのに——
ちゃんと次に繋がっている感じがした。
ここじゃなくてもいい。
でも、終わるわけじゃない。
そのまま続いていく。
そんな感覚だけが、静かに残った。




