第8話 ここじゃなくても続く場所
その日は、風があった。強く吹くわけでもなく、公園の木が、そのたびに反応する。枝がかすかにしなり、葉と葉が触れ合って、さらさらとした音を立てる。
「……普通だな」
放課後に公園へ来ることが、いつから“普通”になったんだろう。
少し前なら考えもしなかったはずなのに、今は当たり前みたいにこの場所へ足が向いている。
意識していたつもりはなかったが、肩にはわずかに力が入っていたらしい。呼吸をひとつ落とすだけで、その緊張が少し緩む。
そのまま公園の中へ足を踏み入れる。
砂を踏む乾いた音が、静かな園内に小さく響いた。一歩、また一歩と進むたび、同じはずの足音が今日は妙にはっきり耳に残る。
視線は自然とブランコへ向いていた。
探そうとしているわけではない。ただ、そこにいると分かっている。最初から知っていたみたいに、迷わず目が向く。
――いた。
ブランコに座っているのは、ミアだった。
今日はほんの少しだけ揺れている。片足で地面を軽く蹴りながら、ゆっくり前後へ動いているだけの小さな揺れ。それでも、完全に止まっている時よりは、“そこにいる”という実感がずっと強かった。
「来ましたね」
ミアが言う。
こちらを見ないまま、前を向いたまま。それでも、ちゃんと湊に気づいていたことが分かる声だった。
「そっちこそ」
短く返しながら、湊はそのまま歩いて距離を詰める。ブランコの隣まで来たところで足を止めた。
隣に並んで座るより、少し離れた位置からミアを見ている方が、今の空気には合っている気がした。
風が吹く。
ブランコが、きぃ、と小さく軋む。
その音に合わせるみたいに、ミアの身体がわずかに揺れた。大きな動きではない。ただ、ゆっくりと前へ出て、また静かに戻ってくる。その繰り返しを見ていると、時間の流れまで少し遅くなったように感じる。
「今日はあの人たちいませんね」
ミアがぽつりと言った。
「だな。不安なら違う場所にいくか」
湊が少し眉を寄せる。ミアは前を向いたまま、小さくブランコを揺らしている。
「もう大丈夫です」
返事はあっさりしていた。
深い意味を説明する気も、言葉を足す気もない。ただ思ったことをそのまま口にした、そんな声だった。
湊もそれ以上は聞かなかった。
最近少し分かってきている。ミアは、話したくないことを隠しているというより、言葉にする前に飲み込んでしまうことが多い。
だから無理に聞いても、多分うまく届かない。
風がまた吹いた。
葉擦れの音が頭上で重なり、その中にブランコの軋む音が混ざる。静かな公園には、それだけで十分なくらい音があった。
その音を聞きながら、ミアがいつものように口を開く。
「今日の更新は?」
いつもの言葉だった。
けれど今日は、ほんの少しだけ響きが軽い。
更新を確認しているというより、会話の流れの中で自然に出てきたみたいな声だった。
「あるにはあるけど」
湊は正直に答える。
今日は、ちゃんと理由を考えてきたわけではなかった。考えようとはした。けれど途中でやめた。
更新を作ることより、ここへ来ることの方が先に決まっていたからだ。
ミアは小さく頷く。
「じゃあ、それでいいです」
返事はあっさりしていた。
ブランコがゆっくり揺れる。
きい、と鳴った鎖の音が、静かな公園に細く残った。
「今日は別に、どうでもいい日なので」
その言い方が妙に真面目で、湊は思わず笑う。
「なんだよ、それ。どうでもいい日って」
ミアは少しだけブランコを強く蹴った。
揺れが大きくなる。
前へ出て、戻ってきて、また少しだけ前へ揺れる。その動きが、年相応に見えた。
「あるじゃないですか」
ミアは前を向いたまま言う。
「あとから思い返しても、何もなかった日です」
湊は少し考える。
学校へ行って、授業を受けて、帰って、気づけば終わっている日。振り返っても、特に何も思い出せないまま過ぎていく日。
確かに、そういう日はある。
「でも、それダメなんじゃなかったのか」
以前ミアが言っていたことを思い出しながら、湊はそう聞いた。
ミアはすぐには答えない。
ブランコを小さく揺らしたまま、前を向いている。視線だけがわずかに動き、何かを考えるみたいに数秒の間が空いた。
やがて、ミアは小さく口を開く。
「……たまになら、いいです」
声は静かだった。
「ずっとは嫌ですけど」
湊は少しだけ目を細める。
その言い方は、以前よりずっと現実的だった。
白か黒かで切り分けるんじゃなく、ちゃんと曖昧な場所を残している。前みたいに、“全部ダメ”と決めつける響きがない。
「じゃあ今日は、“たまに”の日か」
「そういうことです」
短く返事が返ってくる。
それで会話は途切れた。
けれど、不思議と気まずさはなかった。
無理に次の言葉を探さなくても、そのままで成立している感じがある。
風が吹く。
頭上で葉が擦れ合い、その音に混じってブランコが小さく軋んだ。
ミアは揺れを止めない。湊も何も言わない。
静かな時間だったが、沈黙に押し潰されるような重さはなかった。
「なあ」
なんとなく、湊は口を開いた。
ミアはブランコを小さく揺らしたまま、「なんですか」と短く返す。風が吹き、髪が少しだけ揺れた。湊はその動きを見ながら、前から少し気になっていたことをそのまま口にする。
「そのブランコ、楽しいか?」
聞いたあとで、自分でも少し子供っぽい質問だと思った。けれど、不思議と引っ込める気にはならない。
ミアはすぐには答えなかった。
揺れ続けるブランコに身を任せたまま、少しだけ考えるように視線を落とす。それから、前を向いたまま静かに口を開いた。
「……よく分かりません」
「分かんないのかよ」
湊が苦笑すると、ミアは小さく肩を揺らす。
「でも、嫌いじゃないです」
その返しに、湊は思わず笑った。
「それ、よく聞くな。“嫌いじゃない”ってやつ」
ミアは少しだけ黙る。
ブランコの揺れがゆっくり小さくなり、やがて足先が地面についた。きい、と最後に小さく軋んでから、ブランコは完全に止まる。
風だけが、公園の中を静かに抜けていった。
「楽しいって、あんまり分からないので」
ミアの声は静かだった。
無理に暗くしているわけではない。ただ、自分の中にあるものを、そのまま確かめるみたいな言い方だった。
「でも、ここにいるのは嫌じゃないです」
重いわけではない。だからといって、軽く流せる感じでもなかった。ただ飾らないまま置かれた本音みたいで、湊は少しだけ視線を落とす。
ブランコの下には、乾いた土が広がっていた。少し前まで残っていた雨の跡は、もうどこにもない。風が吹くたび、小さな砂が地面の上を転がっていく。
湊はそれを眺めながら、小さく息を吐いた。
「……そっか」
それだけ返す。“嫌じゃない”好きでもない。楽しいでもない。それなのに、なぜか返事を急ぎたくなかった。
しばらく風の音だけが続く。
ブランコはもう止まっているのに、鎖だけが時々小さく鳴った。頭上では葉が擦れ合い、乾いた音を細く流していく。その音を聞きながら、ミアがぽつりと呟く。
「変ですね」
「何が」
湊が聞き返すと、ミアは少しだけ周囲へ視線を向けた。誰もいない公園。夕方の薄い光。風の音と、止まりかけたブランコの軋み。
「こういうのです」
ミアはゆっくり言葉を探すように続ける。
「なんか、普通っぽいので」
湊は小さく苦笑した。
「……まあな」
否定はできなかった。
放課後に公園へ来て、他愛もない話をして、時間が過ぎるのを待つ。やっていることだけ見れば、どこにでもいる高校生みたいだった。
ミアは前を向いたまま、小さく息を吐く。
「でも、普通って続かないですよね」
「急だな」
「なんとなくです」
返事は相変わらず曖昧だった。けれど、適当に言っているわけじゃないことは分かる。
ミアは時々、何でもない顔で、急に困ることを言う。
湊は少しだけ考える。否定しようとして、やめた。
多分ミアは、“なくなる前提”で物事を見ている。先に期待しすぎないように。終わった時、自分が困らないように。
「だから、まあいいかなって」
ミアが静かに続ける。
「今日くらいは」
湊が聞き返すと、ミアは小さく頷いた。
「うん」
そこでまた会話が途切れる。
不思議と気まずさはなかった。風が吹くたび、頭上で葉が擦れ合い、乾いた音が細く流れる。止まりかけたブランコが時々きぃ、と小さく鳴って、その音だけが静かな公園へ残り続けていた。
ミアは何も言わない。湊も、無理に次の言葉を探そうとはしなかった。それなのに沈黙は重くならない。同じ場所にいて、同じ音を聞いている。それだけなのに、不思議と時間だけはちゃんと続いている気がした。
湊は少し迷ってから口を開いた。
「なあ」
「なんですか」
「明日さ」
ミアがわずかに視線を向ける。
湊は少しだけ頭を掻いてから言った。
「コンビニでも行くか」
言ってから、自分で少し驚いた。明日の話を、こんなふうに自然にしている。
ミアはすぐには答えず、少しだけ考えるみたいに黙り込む。風が吹き、葉が揺れ、その音が短い沈黙を埋めた。やがて、ミアが小さく頷く。
「……いいですよ」
返事はあっさりしていた。
「どこでもいいです」
その言い方が、以前より少し柔らかかった。
湊は小さく笑う。
「じゃあ決まりな」
「はい」
ここじゃなくてもいい。
公園じゃなくても、また会う。
少し前の自分なら、そんなこと考えもしなかった。
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