第59話 家族の話し
「何から話そうかな」
湊はホームの時計を見上げた。まだ急いで立ち上がる時間ではない。それでも、春休みが終わってから今日までを順に並べようとすると、どこを最初にすればいいのか決めきれず、膝の上で組んでいた指をほどいた。
「家のことからでいい?」
美愛が頷くと、湊は春休み最後の夜にこの駅を離れたあと、いつもの家へ帰ったところから話し始めた。
今は妹と二人で暮らしていること。父親たちは仕事で海外にいて、すぐには帰ってこないこと。その妹とは血が繋がっておらず、親同士の再婚で家族になってから、まだ一年ほどしか経っていないこと。
「妹さん、何年生?」
「二年生」
「同じ学校?」
「そうだよ。紬っていうんだけど、料理が得意でさ。俺より帰りが早い日は、夕飯を作ってくれてる」
美愛は膝の上へ置いた鞄から手を離し、湊の方へ顔を向けた。春休みの夜には、自分から質問を重ねることなどほとんどなかったのに、今日は答えを聞く前から次の言葉が待っている。
「どんな料理を作るの?」
「何でも。和食も作るし、ハンバーグとかも作る。俺が適当に済ませようとすると、冷蔵庫にあるもので増やされる」
「増やされる?」
「味噌汁とサラダ。あと、足りないと思われたら卵料理」
「湊、細いからじゃない?」
美愛の視線が制服の上から肩口へ下がり、そのまま膝の辺りまで確かめるように動いた。湊は思わず自分の腕を見下ろしたが、制服を着たままでは何も変わらない。
「引き締まってるんだよ」
「信じられない」
「これでも鍛えてるんだ」
「嘘だよ、湊のこと信じてる」
「……」
美愛が自分の腕と湊の腕を見比べる。袖越しでも勝負にならないと分かったらしく、鞄を抱き直した。
「湊の方が大きいね」
湊の肩幅をもう一度見てから前へ向き直った。
線路の向こうを電車が通り過ぎる。ホームへ入ってくる列車ではなかったが、車輪の音に合わせてベンチの足元へ細かな振動が伝わった。
湊はその音が遠ざかるのを待ち、紬とは最初から今のように話せたわけではないことも伝えた。
同じ家に暮らし始めた頃は、互いに遠慮していたこと。冷蔵庫のものを使うにも、風呂へ入る順番を決めるにも、いちいち相手へ確認していたこと。
家族になったはずなのに、家の中でまで他人の家へ泊まりに来たような距離が残っていたこと。
「今は違う?」
「前よりは。帰ったら声をかけるし、飯も一緒に食べる。言いたいことも、少しは言うようになった」
「少しなんだ」
「特に言うこともないしな。紬、頑張り屋なんだよ」
「よく見てるんだね」
「妹だからな」
話は、そのまま誕生日のことへ移った。
湊と紬の誕生日が一日違いであること。先に湊の誕生日が来て、その翌日が紬の誕生日だったことを話すと、美愛は二度瞬きをしてから、日付を確かめるように聞き返した。
「本当に一日違いなの?」
「四月十九日と二十日」
「すごいね。同じ日に祝うの?」
「今年は別だった。紬が俺の誕生日にイヤホンをくれて、俺は次の日にエプロンを渡した」
「エプロンを選んだの?」
「料理する時に使ってたのが古くなってたから。自分ではまだ使えるって言ってたけど、紐のところがもう駄目になりかけてた」
美愛は湊の話を聞きながら、鞄の持ち手を親指でゆっくりとなぞっていた。傷みに気づき、黙って代わりを探す湊の姿を思い浮かべているのか、質問を挟まず、その先を待っている。
「喜んでくれた?」
「たぶん」
「たぶん?」
「受け取った時は喜んでた。次の日には、もう使ってくれたし」
「じゃあ喜んでるよ」
「そうだといいけどな」
湊が前を向いたまま答えると、美愛は何も言わずにこちらを見た。返事を待っても視線が外れないため、湊は根負けして横を向く。
「何」
「自分の話になると、急に分からなくなるんだね」
「何が」
「妹さんが喜んでたこと」
「本人に聞いたわけじゃないからな」
「次の日に使ってくれたんでしょ」
「それはそうだけど」
「それなら分かるよ」
美愛は言い切ったあと、膝の上で両手を重ねた。湊がなおも何か言い返すと思っていたのか、口元には先回りするような笑みが残っている。
湊は反論するのをやめ、誕生日の夜のことを続けた。
日付が変わるまで同じリビングにいたこと。時計が零時を回った時に祝いの言葉を伝えると、紬が目を丸くしたこと。そこまで話したところで、美愛の笑みが深くなった。
「待ってたんだ」
「待ってない。たまたま起きてただけだ」
「零時まで?」
「そう」
「妹さんの誕生日に?」
「だから、たまたまだって」
美愛は声を立てず、肩だけを揺らした。春休みのホームで見た笑い方よりも長く、隠そうともしない。湊は正面へ戻り、通過表示の消えた電光掲示板を見上げた。
「信じてないだろ」
「信じてるよ」
「今笑ったよな」
「湊が、待ってないって何回も言うから」
「事実を説明しただけだ」
「うん。そういうことにしておく」
さっきまで美愛が言うはずだった言葉を先に取られたような気がして、湊は眉を寄せた。隣では、美愛が鞄を抱えたまま、まだ口元を隠しきれていない。
家族の話を始める前より、二人の間へ残っていた距離が徐々に近ずいてきた気がした。
美愛はそれ以上からかわなかった。前へ向き直った横顔には、まだ笑ったあとの名残がある。湊も話を止めず、学校がある日は駅の近くにあるカフェで働いていることを話し始めた。
「湊が接客してるところ、想像できないかも」
「なんで」
「今みたいに話すの?」
「今みたいって、どういう意味だよ」
美愛はすぐには答えず、ホームの先へ視線を向けた。線路沿いに並んだ灯りを追ったあと、確かめるように湊へ戻す。
「相手が話すまで待つところ」
湊は口を閉じた。
美愛は春休みの夜のことを言っている。今日、渡り廊下で再会した時のことも含まれているのだろう。泣いていた理由を問い詰めず、話せるまで隣にいたことを、本人は思っていた以上に覚えていた。
「仕事中は、もう少し愛想よくしてるつもりだけど」
「今は愛想よくしてないの?」
「ミアにまで作る必要はないだろ」
こちらへ向いていた顔がゆっくりと前へ戻る。何かを言いかけた唇も閉じたまま、線路の向こうへ視線を預けてしまう。
「どうした?」
「何でもない」
「何でもない顔じゃないけど」
「湊が変なこと言うから」
「変なこと?」
美愛は答えなかった。代わりに、肩へ掛かった髪を指先で後ろへ払い、見えなくなった頬を湊から遠い側へ向けた。
その仕草を見ても、湊には自分の何が変だったのか分からない。ただ、問い返せばさらに顔を背けられそうで、追いかけるのはやめた。
ホームへ列車の到着を知らせる放送が流れ、話し始めた時には空いていた向かいのベンチにも人が座り、時計の長い針は、気づかないうちにいくつも目盛りを越えていた。
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