第58話 あの日から
発車ベルが鳴り終わると、ホームへ入ってきた普通列車が二人の前を通り過ぎていった。明るい車内が何度も横顔を照らし、最後尾の赤い灯りが線路の先へ消えると、湊は膝の上に置いたスクールバッグへ両手を重ねた。
「春休みの最後に、ミアが『もう来なくていい』って言っただろ」
「……うん」
美愛は鞄を抱いたまま、隣に座る湊の横顔を見る。湊はすぐにはこちらを向かず、二人の前を真っ直ぐ延びている白線へ視線を落としていた。
「学校が始まってから、俺は毎日この駅を使ってた」
「それは……そうだよね」
同じ学校へ通っているのだから、帰る時に使う駅も変わらない。美愛も毎日のようにこのホームへ降りていたが、下校時間が違っていたのか、これまで湊の姿を見かけたことはなかった。
「始めは探さなかったんだけど、気がついた時には」
湊が顎をわずかに動かし、線路沿いの白線を示した。
「あの辺に、ミアが立ってないかって探してた」
美愛の指が鞄の持ち手を強く握る。春休みの夜、電車へ乗るためではなく、死ぬ理由を探しながら立っていた場所だった。
湊が見ていたのはベンチではない。毎晩、自分が白線の内側で電車を眺めていた姿だった。
「……探したら、来なくていいって言った意味がないでしょ」
「分かってる。だから、近づかなかった」
湊は困ったように口元を緩めた。
「遠くから見て、いなかったらそのまま帰ってた。いたとしても、たぶん声はかけなかったと思う」
「たぶんなんだ」
「実際に見つけてたら、自信ないからな」
美愛の口元から息が漏れる。笑うつもりはなかったのに、湊の言い方を聞いていると、張りつめていた頬が勝手に緩んだ。
「約束を守るって言ったのに?」
「ミアが白線の内側に立ってるのを見つけたら、素通りできるほど器用じゃない」
湊はそう言ってから、照れを隠すように前を向いた。その言葉が胸へ入ってくるまでに時間がかかり、美愛は何も返せないまま膝の上へ視線を落とす。
自分が来なくていいと言ったから、湊は来なかった。
それでも、この駅で探していた。
会わないことを選びながら、忘れてはいなかった。
「私も、この駅は使ってたよ」
「うん」
「でも、春休みみたいに遅い時間には来てなかった。病院へ行く日も、帰る時間はばらばらだったから」
「だから会わなかったのか」
「学校でも、なるべく人がいないところを歩いてたし」
美愛は俯いたまま、制服のスカートへ落ちた髪を指で払った。
「昼休みも、教室にいたくなくて。渡り廊下なら誰も来ないと思ってた」
「俺も購買へ行く途中じゃなかったら、たぶん見つけられなかった」
「……見つかっちゃったって思った」
「嫌だった?」
湊の問いに、美愛はすぐには答えなかった。
泣いているところを見られたのは恥ずかしかった。春休みに何度も話した相手なのに、制服姿で向き合った瞬間、隠していたものを全部見透かされた気がした。
それでも、湊が来なければ、あの場所で一人のまま授業が始まるまで座っていた。
「最初は、逃げたかった」
美愛は鞄を抱える腕を緩め、隣にいる湊へ顔を向けた。
「でも、湊が来てくれてよかった」
ホームの照明の下で、湊が目を見開く。何かを言いかけた唇が止まり、やがて視線だけが線路の方へ逃げていった。
「それ、今言うの反則だろ」
「どうして?」
「言われた方が困るから」
「湊でも困るんだ」
「俺を何だと思ってるんだよ」
美愛が笑うと、湊も観念したように肩を落とした。春休みにここで向き合っていた時よりも、話していない時間の方が長かったはずなのに、隣に座ってしまえば、あの頃の続きを話しているように言葉が出てくる。
「今日ね、おじいちゃんに話したの」
湊の表情から笑みが引き、続きを待つように美愛へ体を向ける。
「学校で、友達に会ったって」
「友達?」
「……違った?」
美愛が横目で確かめると、湊は首を横へ振った。
「違わない。俺も、そう思ってる」
その返事を聞いてから、美愛は膝の上に置いた手を重ねた。
「私のことをミアって呼んでくれる人がいたって話した。おじいちゃんと、おばあちゃんが呼んでくれてた時みたいに、私を見てくれる人だって」
湊は何も言わなかった。
ただ、美愛から視線を逸らさずに聞いている。その姿を見ていると、病室では途切れてしまった言葉の続きを、ここなら話せる気がした。
「返事はなかったけど、話してよかったと思った」
「……きっと聞こえてるよ」
「そうかな」
「聞こえてる。ミアが学校で一人じゃないって知ったら、安心してるはずだよ」
美愛は俯き、唇を結んだ。泣きそうになったわけではない。ただ、胸の奥へ押し込めていたものが動き、うまく言葉へ変えられなかった。
湊はそんな美愛を急かさず、ホームの向こうへ視線を戻す。昼休みの涙の理由も、祖父が眠り続けている理由も、それ以上は聞いてこなかった。
「それで、湊の話は終わり?」
美愛が尋ねると、湊は不満そうに眉を寄せた。
「まだ最初の方なんだけど」
「長いって言ってたもんね」
「学校が始まってから、妹の誕生日があって、イヤホンを買いに行って、俺の誕生日もあった」
「待って。誕生日、もう過ぎたの?」
美愛が身を乗り出すと、湊は驚いて肩を引いた。
「あぁ」
「聞いてない」
「話す機会がなかっただろ」
「それでも聞いてない」
同じ言葉を重ねると、湊は何がおかしいのか、口元を押さえて笑い始めた。
「なんでミアが怒るんだよ」
「怒ってない」
「怒ってるだろ」
「……来年は言って」
美愛は視線を膝へ落とし、鞄の持ち手を指先でなぞった。
隣から声が返ってこない。不思議に思って顔を上げると、湊がこちらを見たまま固まっていた。
「来年も会うつもりでいてくれるんだな」
言われてから、自分が口にした意味へ気づく。
美愛は慌てて前を向いたが、すでに遅かった。頬へ集まる熱を夜風では誤魔化せず、隣から伝わってくる湊の視線にも耐えられない。
「今のは、そういう意味じゃなくて」
「俺は嬉しかったけど」
「……そういうことを、言わないで」
「ミアが先に言ったんだろ」
美愛は返す言葉を失い、鞄を抱いたまま肩を縮めた。湊はそれ以上からかわず、再びスクールバッグを膝へ置き直す。
「じゃあ、誕生日の話から聞く?」
「最初から。省略しないで」
「本当に長くなるぞ」
「今日は聞くって決めたから」
美愛がそう答えると、湊は頷いた。
次の電車を知らせる案内放送が、向かいのホームから聞こえてくる。白線の内側には、もう一人で立つ美愛の姿はない。
夜のホームのベンチで肩を並べながら、二人は会えなかった時間を、少しずつ埋め始めた。
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