第57話 いつものホーム
六時間目のチャイムが鳴ると同時に、教室は一気に放課後の騒がしさに包まれた。
「雨宮さん、これから図書室寄ってかない? 今日の数学のノート写させてほしいんだけど」
前の席の子が振り返る。美愛はいつも通り、口元にいつもの笑みを浮かべて教科書を鞄にしまった。
「ごめんね、今日はちょっと……用事があって」
「あ、そっか。おじいさんの病院だっけ。大変だね、毎日。じゃあまた明日ね」
悪気のない同情に、美愛は「うん、ありがとう」とだけ返した。
教室を出て、いつも通りの笑顔を消す。
昼休みにあの渡り廊下で、湊に泣き顔を見られてしまった。その動揺が、放課後になってもまだ胸の奥で小さく波立っていた。
病院へ行き、眠る祖父の手へ触れる。いつもならその静けさに心が沈んでいくのに、今日はどうしても、ポケットの中のスマートフォンの存在を意識してしまう。
「私、今日ね……学校で、友達に会ったよ」
いつもなら喉の奥で消えてしまう声が、今日は不思議と、小さな音になって鼓膜に届いた。
「私のこと、ミアって呼んでくれる人。おじいちゃんたちが呼んでくれたみたいに、ちゃんと、私を見てくれる人」
眠る祖父からの返事はない。けれど、握った手のひらに、ほんの少しだけ温かさが戻ったような気がした。
面会終了の放送が流れ、病院を出た。外の空気はすっかり冷え込んでいる。
十九時四十五分。
短い振動と共に通知が届く。
美愛は画面を見つめた。
【白石 湊:今バイト終わって駅に向かう。二十時過ぎには着くんだけど、今日は居る?】
どこか気遣いを感じる文面だった。
美愛は冷たい指先で画面を叩く。
【ミア:私も今、電車に乗りました。次の次で降ります】
電車が目的の駅へ滑り込んでいく。
扉が開いてホームへ降り立つと、春休みの夜、死ぬ理由を探すために立っていたあの景色が広がっていた。
5分後、紺色のブレザーを着た湊が現れた。
美愛の姿を見つけると、ふっといつものように目元を和らげて歩いてきた。
昼間の学校での「白石くん」と、あの春休みの夜の彼が、今ここで綺麗に重なる。
「ミア……ちゃんと待っててくれたんだな」
湊は美愛の少し強張った表情を察して、それ以上は踏み込まず、少しだけ距離を置いた位置で立ち止まった。
「これ、ありがとうね」
美愛は鞄の中から、きれいに畳んでハンカチを差し出した。
昼休みに本心を見せすぎてしまった恥ずかしさがあり、どうしても少し態度が硬くなってしまう。
湊は「気にしないで」とそれを受け取り、ポケットにしまうと、ホームの端にあるあのベンチを見て
「立ち話もなんだし、座るか」
「うん」
隣に座ると、湊はスクールバッグを膝の上に置き、背もたれに体を預けた。二人の制服の影が、夜のホームの灯りに照らされて、足元に静かに並んで落ちる。
昼休みの涙の理由を、湊は何も聞いてこない。ただ、こうして隣にいてくれる。その「放っておけない」という静かな優しさが、美愛の強張った心を少しずつほぐしていく。
「湊、今日の理由、ある?」
美愛が膝の上で鞄を抱え直しながら、横顔を盗み見るようにして聞いた。
湊は前を向いたまま、少しだけ困ったように笑う。
「ミアが『もう来なくていい』って言った後の話を聞いてほしいかな」
冗談めかして言う湊の声は、どこまでも優しかった。
美愛は小さく息をこぼした。まだ、自分の抱える重いものを全部話せるわけじゃない。けれど、この人の前でなら、「ミア」に戻れるような気がした。
「……じゃあ、ちゃんと聞く」
「うん。長いから、覚悟しろよ」
電車の発車ベルが遠くで鳴り響く。
夜のホームで、二人の新しい「更新」が、静かに始まろうとしていた。




