第56話 二人っきりのときは
「じゃあ長いよ」
そう言った湊の顔を、美愛は涙で滲む視界の向こうで見つめていた。
手渡されたハンカチの感触が、指先を通じて現実のものとして伝わってくる。夜のホームの無機質な鉄の匂いでもない。お日様の匂いがかすかにする、ごく普通の、男の子のハンカチだった。
「……長いって、どれくらい」
美愛はハンカチで目元をそっと押さえながら、鼻声を隠さずに聞いた。
「昼休みが終わるまでには、絶対に収まらないくらい」
湊はそう言って、少しだけ困ったように視線を掲示板のプリントへと戻した。相変わらず、泣いている美愛を気まずくさせないための、彼なりの距離の取り方だった。
遠くの校舎から、予鈴のチャイムが鳴り響いた。
現実の時間が、容赦なく二人の間に割り込んでくる。あと数分もすれば、次の教室へ移動する生徒たちの足音が流れ込んでくるはずだ。
「……教室、戻らなきゃ」
美愛が小さく呟くと、湊は「そうだな」と頷いた。
「白石くん、だよね」
美愛の口から出たその名前に、湊は意外そうに眉を動かした。
「廊下で、友達が呼んでるのを聞いたから」
「そっか。……俺は、『雨宮さん』って呼んだ方がいいか?」
学校という枠組みの中に引き戻された瞬間、お互いの呼び方に迷いが生じる。
家での『美愛』学校での『雨宮さん』
どれも今の自分を縛る名前のようで、美愛はほんの少しだけ俯いた。
「……ここでは、誰も私のことミアって呼ばないから」
だから、と美愛はハンカチを握りしめる。
「白石くんも、雨宮さんって呼んで。……でも」
「でも?」
「二人だけの時は、ミアでいい」
その言葉に、湊は一瞬だけ目を見開いたが、すぐにいつもの落ち着いた目元に戻って口元を緩めた。
「了解、雨宮さん」
「……からかわないで」
美愛が唇を尖らせると、湊は制服のポケットからスマートフォンを取り出した。
「長い話の続きをするために、これ、交換しとくか。駅のホームじゃ、いつ会えるか分からなくなったし」
差し出された画面を見て、美愛の胸の奥がトクンと跳ねた。
春休みの夜、連絡先なんて互いに聞こうともしなかった。朝が来れば消えてしまうような、夜のホームだけの関係だったから。けれど今は、同じ制服を着て、同じ太陽の下にいる。
お互いの端末を近づけ、連絡先が画面の中で繋がる。
『白石 湊』という文字が美愛の画面に表示されたとき、ようやく、彼が本当に実在する同じ高校の生徒なのだという実感が、静かに胸の中に落ちていった。
「放課後、俺はすぐバイトだけど」
湊はスマホをポケットにしまいながら、美愛の目元が少し落ち着いたのを確認して歩き出した。
「終わったら、送るよ。今日の更新のぶん」
「待ってる」
美愛は、今度ははっきりとそう答えた。
渡り廊下の向こうから、生徒たちの騒がしい声が近づいてくる。
湊は「じゃあな」と手を軽く挙げて、先に人混みの中へと消えていった。
美愛は残されたベンチで、預かったハンカチを丁寧に畳んで鞄にしまった。
教室へ戻る足取りは、さっきここへ来る時とは全く違っていた。
胸の奥の詰まりは、まだ完全には消えていない。おじいちゃんのことも、進路のことも、不安はそこにある。
けれど、スマートフォンの中で静かに光る『白石 湊』の名前が、美愛の足元を確かに支えていた。
教室のドアを開けると、友達が「あ、雨宮さん、遅かったね!」と手を振る。
「ごめん、ちょっと自販機が混んでて」
美愛はそう言って、いつものように笑顔を作った。
けれど、机の下で触れた鞄の底には、彼のハンカチがある。
今日の夜、何かが新しく始まる予感に、美愛の心は微かに震えていた。
ゆっくりですが、読んでくれる人がいるから、また書こうと思います。待っててくれてありがとうございます。




