一ノ瀬彩音 誕生日
〜学校でミアと再開する少し前の日〜
朝の空気は冷たかった。
吸い込むたびに頭の奥が澄んでいくようで、眠気の名残まで薄れていく。駅前にはまだ人も少なく、シャッターの閉まった店が静かに並んでいた。通り過ぎる足音もまばらで、街全体がこれからゆっくり目を覚ます途中にあるみたい。
待ち合わせ時間より早く着いた場所で、湊は足を止める。
スマホを開いて時間を確認する。まだ余裕はある。
視線を上げて改札の方を見る。人の流れが、朝らしいゆるさで動いている。
その中に、ふと声が落ちた。
「湊くん」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
彩音がいた。
少しだけ息が弾んでいるのに、表情は妙に落ち着いていた。急いできたことを隠しているみたいな、そんな顔だった。
「……早くない?」
「湊くんもね」
そう言って、そのまま隣に並ぶ。
近い、と思う。 けれど、不思議と嫌じゃない。
朝の光のせいか、いつもより少しだけ無防備に見えた。髪の柔らかさも、頬に落ちる影も、普段より近く感じる。
「今日なんだけどさ」
彩音が言う。
「一日、全部使っていい?」
「全部?」
「うん」
迷いのない声だった。
冗談っぽく聞こえないくらい、自然に。
「ダメって言ったら?」
「理由を聞いてもらう」
「じゃあ、その理由を聞かせてもらってもいい?」
「今日、私の誕生日」
まったく悪びれずに言って、彩音は小さく笑う。
その笑い方につられるみたいに、湊も息を漏らした。
「……じゃあ、いいよ」
「よし」
小さくガッツポーズをする。
その仕草を思わず目で追ってしまう。
「じゃあ行こ」
「どこに?」
「決めてない」
言うだけ言って、彩音は先に歩き出した。
完全に引っ張られる形になり朝の街を並んで歩く。
まだ人は少なくて、周りの音も軽い。店のシャッターが上がる音や、遠くを走る車の気配が、少しずつ街に日常を戻していく。
「ねえ」
彩音が不意に言った。
「今。湊くんの手冷たくない?」
「普通かな」
「ふーん」
その返事の直後、自然な動きで手を取られる。
指先が触れた瞬間、ほんの少しだけ体が止まりそうになる。 けれど、彩音は気にした様子もなく、そのまま軽く握った。
「……彩音」
「確認中」
さらっと言う。
「冷たいね」
「……もういいだろ、離してくれ」
「でもさ」
少しだけ、握る力が強くなる。
指を絡めるほどじゃない。ただ、簡単には離れない程度の強さだった。
「こうしてた方が、あったかいでしょ」
離す気はないらしい。
「……そうかもな」
否定できなかった。
「でも、一旦離してくれ」
朝からこれは強いな、と頭のどこかで思う。不思議とそのまま受け入れてしまいそうになったが、やっぱり恥ずかしさが勝つ。
「ねえ」
彩音が口を開く。
「こういうの、慣れてる?」
「なにが?」
「手つなぐの」
ごまかす理由はなかった。
「慣れてないから…」
正直に答える。彩音は一瞬だけこちらを見て、それから少しだけ目を細めた。
「よかった」
安心した顔に見えた。
「慣れてる人より、そっちの方がいい」
「なんで?」
「私、家族以外で男の子と手なんか繋いだことないし」
すぐに返ってきた言葉は軽かった。
でも、そのあとに少しだけ間を置いて
「湊くんが慣れてなくて、ほんとよかった」
と、彩音は付け足した。
その言い方だけは、冗談には聞こえなかった。
♢
午前中は、あてもなく歩いた。
店に入って、少し見て、また出る。気になるものを見つけて立ち止まって、何となく話して、また歩く。
やっていることだけ見れば、たいしたことはない。
それなのに、不思議と時間は薄くならなかった。
ただ流れていくんじゃなく、一つ一つがちゃんと残っていく。そんな感覚があった。
「ねえ」
不意に彩音が立ち止まる。
ショーウィンドウの前だった。
「これ、どう思う?」
指さしたのは、マネキンが着ているワンピースだった。
淡い色合いで、軽く揺れる素材。たしかに彩音が好きそうな雰囲気だった。
「彩音に似合いそうだ」
そう答えると、彩音はすぐに振り返る。
「“そう”じゃなくて」
視線が合う。
「ちゃんと見てみて」
そのまま店の中へ入っていく。
引っ張られるようにして後を追う。
店内は外より少し暖かく、照明も音楽も柔らかかった。
「これ着てくる」
さっきのワンピースを手に取って、彩音は試着室の前で振り返る。
「逃げないでよ」
「逃げないよ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
それで満足したのか、彩音はカーテンの向こうに消えた。
少しして、試着室のカーテンが開く。
「……どう?」
出てきた彩音は、さっきのワンピースを着ていた。
肩が少しだけ出ていて、全体の印象は軽い。いつもより、ほんの少し大人びて見える。けれど、それ以上に目を引いたのは、彩音本人の空気が服にちゃんと似合っていることだった。
「……似合ってる」
素直にそう言う。
彩音が一瞬だけ止まる。
「それだけ?」
「それ以上いる?」
「いる」
即答だった。
そのまま少し近づいてくる。
「どこがいいか言って」
逃げ道がなかった。
視線を逸らさずに、ちゃんと見る。
「色かな」
まず一つ、口にする。
「明るすぎないから、落ち着いて見える」
彩音は何も言わない。
ただ、じっとこちらを見ている。
「あと…肩のとこ」
ほんの少しだけ指で示す。
「そのくらいの見え方が、ちょうどいいと思う」
言い終わる。
彩音はしばらく黙っていた。
からかうでもなく、茶化すでもなく、ただ静かにこちらを見ている。その沈黙のせいで、言ったこっちの方が少し落ち着かなくなる。
「……なに」
「いや」
彩音が少しだけ笑う。
でも、その笑い方はさっきまでと少し違っていた。
「ちゃんと見てるんだなって思って」
そのまま視線が、ほんの少しだけ落ちる。
「……ほんとに思ってる?」
小さな声だった。
聞き返すみたいでいて、確認するような響きのある声だった。強さはないのに、その一言だけが妙に残る。
「ほんとだよ」
それで十分だと思った。
彩音は一度だけ小さく頷いて、
「そっか」
と呟く。
そして、すぐに顔を上げた。
「じゃあ、買う!」
「早くない?」
「湊くんがそう言うなら」
軽い言い方だった。
でも、その言葉の重さだけは軽くなかった。
レジに向かい、袋を受け取って店を出る。
外の空気は、朝より少しだけ暖かくなっていた。
「ねえ」
歩きながら、彩音が言う。
「さっきの、もう一回言って」
「どれ?」
「似合ってるやつ」
「……似合ってたよ」
ため息混じりに言う。
彩音が少しだけ笑った。
「満足」
そう言って前を向く横顔が、少しだけ嬉しそうに見えた。
そのまましばらく歩く。
人の数は、朝よりずっと増えていた。昼に近づいて、街全体の温度が上がっていく。
その中で、不意に小さなトラブルが起きる。
横から急に人が出てきた。
彩音の足が、ほんの少しだけもつれる。
「っ」
体が傾く。
考えるより先に手を引いていた。
そのまま引き寄せる形になって、距離が一気に縮まる。
「……危ないって」
少し低い声が出た。
彩音は一瞬だけ固まって、すぐに小さく息を吐く。
「……ごめん」
「怪我してない?」
「してない」
答えはすぐ返ってきた。
握っていた手に少しだけ力が入る。
「……離さなくていいの?」
聞くと、彩音は視線を上げた。
近い。
逃げ場がないくらい近い距離で、少しだけ首を傾ける。
「ダメ?」
「……いや」
結局、それ以上は言えなかった。
そのまま歩き出す。
さっきより、少しだけ距離が近い。
彩音はしばらく黙っていた。
でも、やがて小さく呟く。
「今の、ちょっとかっこよかった」
聞こえるかどうかの声だった。
けれど、ちゃんと届く。
「………」
彩音は小さく笑う。
その笑顔は、さっきまでより柔らかかった。
そして――どこか、安心したみたいにも見えた。
ずっと前に書いたものなのですが、せっかくなので投稿しました。




