第55話 「今日の更新は?」
昼休みの廊下は、教室から出てきた生徒たちで混み合っていた。購買へ向かう男子が財布を手に走り、階段の方では弁当の包みを抱えた女子たちが笑いながら足を止めている。
湊は教室の入口で郁人に呼び止められ、配られた進路説明会のプリントを鞄へしまった。
「購買行くけど、湊は?」
郁人が財布を振りながら聞いてくる。湊は教室の時計を見てから、廊下の人の流れへ視線を戻した。
「今日はいい。弁当あるし」
「弁当持ってくるやつ、昼休みの勝者だよな。俺なんか今からパン争奪戦だぞ」
「郁人、走るなよ。先生いるから」
「忠告が遅い。もう気持ちは走ってる」
郁人は言い終える前に廊下の流れへ入っていった。湊はその背中を見送り、教室へ戻ろうとして足を止めた。人の肩と肩の間を、女子生徒の後ろ姿が横切っていく。
抱えるように持った小さめの鞄。肩の辺りで揺れる髪。購買へ向かう列にも、階段を下りる生徒たちにも混ざらず、その女子生徒は旧校舎へ続く渡り廊下の方へ歩いていた。
湊は廊下の端へ寄った。
昨日の夜、駅のホームで見た制服姿が頭に浮かぶ。反対ホームの明かりの中に立っていた女子生徒。
顔は見えなかった。けれど鞄を抱える仕草だけが、春休みの夜に何度も見た姿と重なった。
今の後ろ姿も、同じだった。
「白石?」
教室の中から別の男子が呼ぶ。湊は振り返り、机の上に置いた弁当箱へ視線を落とした。昼休みは始まったばかりで、今から昼食の時間だ。戻って座れば、いつも通りの昼休みになる。
けれど女子生徒は、もう渡り廊下の角を曲がりかけていた。
湊は弁当箱を鞄に戻して廊下へ出た。追いかけるというほどの速さではないが、人の流れに逆らわない歩幅で、旧校舎へ向かう。
旧校舎側へ近づくほど、人の数は減っていく。掲示板には去年の文化祭ポスターが端を丸めて残り、窓際には使われていない机が重ねられていた。湊は角を曲がる前に一度足を止め、開いた窓の向こうへ視線を向けた。
校庭では男子がボールを蹴っていた。ホイッスルの音が響き、遅れて笑い声が届く。ここだけ昼休みの中心から外れていて、廊下を歩く生徒の声も遠くなる。
女子生徒の姿は、渡り廊下の先にあった。
細いベンチに腰を下ろし、小さめの鞄を膝に抱えている。顔は伏せられていて、髪が頬の横へ落ちていた。
湊は足を止めた。
春休みの夜、駅のホームにいた少女は、いつも白線のすぐ内側で立っていた。
隣に立つとこちらを見ずに話し始める日もあった。ホームのベンチ、公園のブランコ、コンビニでの会話。『更新は?』と言った声を思い出す。
制服姿の背中は、あの時より小さく見えた。
湊はベンチへ向かって歩いていくと、涙声で「一人にしないで」と聞こえてきた。
床を踏む音が近づくと、女子生徒の肩が動く。泣いているのは見て分かった。顔は下げられたまま、鞄の持ち手を握っている。
湊はベンチの前で足を止めた。距離を詰めすぎない位置で、見下ろす形にならないように。
ここに来るまで半信半疑だった。こんなところにいる訳がないと、ただの空似だろうと。
春休みに出会い、終わる頃に『もう来なくていい』と言われ、もう会うことはないと思っていた。
気がついたら向かっていたあの場所で、会いたくても会えなかった人。
言葉は自然と口から出ていた。
「こんなところにいたんだ」
聞き慣れた声に、彼女の肩が止まった。
顔を上げなくても、分かったのだと思う。
春休みの夜、不思議な関係になった相手だと。
湊はそれ以上近づかなかった。少し距離を置いた位置から、掲示板の端で揺れる紙へ視線を逃がす。
泣いていることには触れない。
見えていないふりもしない。
ただ、言葉を急がずに待った。
美愛は鞄を抱えたまま、袖で頬を拭おうとした。けれど次の涙が落ちて、隠す方が追いつかない。肩に入っていた力だけが、湊の声でほどけていく。
「……なんで」
ようやく出た声は、春休みの夜に聞いたものより細かった。湊は廊下の向こうから来る足音を確認し、誰もこちらへ曲がってこないことを見てから答えた。
「廊下で見かけたんだ」
「私だって、わかってたの?」
相変わらずの涙声だ。
「半信半疑だった」
「……」
「どうしても確かめたかったんだ」
返すと、美愛は顔を伏せたまま息をこぼした。笑ったのか、泣いたまま声が漏れたのか、湊にはどちらにも聞こえた。
春休みの駅では、彼女は凛とした姿勢で夜のホームに立っていた。
今日は昼休みの学校で、制服を着て、誰にも見つからない場所で泣いている。場所も時間も違うのに、湊の前にいるのは同じ人だった。
「雨宮さん」
その呼び方に、美愛の指が止まった。
この前近くをすれ違ったとき、隣に居た女子がそう呼んでいた。
湊は一度口を閉じた。呼ばれていた名前。廊下で聞こえた名前。けれど春休みの夜、自分が知っていたのはその名前ではなかった。
「……ミア」
呼び直すと、美愛は鞄に額をつけたまま、肩を震わせた。
これ以上何も言わなかった。
慰める言葉を探しても、今の彼女に届く形にはならない。だからベンチの隣ではなく、前に立ったまま、昼休みの終わりを知らせる放送準備音を聞いていた。
やがてミアが顔を上げる。
目元は赤くなっていた。隠せていない。けれど湊を見る目は、春休みの夜と同じで、何かをこらえたままこちらへ向いていた。
「……来なくていいって、言ったのに」
何度も頭に浮かんだ言葉。
あの時ちゃんと言い返すことができなかった言葉。
何度も答えを探したけれど、見つけられなかった。
今回は不思議と口から零れ落ちていた。
「学校では言われてない」
湊がそう返すと、美愛は泣いた顔のまま、困ったように眉を寄せた。言葉を発しようと口元が小さく動くが、先に涙が落ちる。湊はポケットからハンカチを取り出し、差し出した。
「使う?」
美愛はすぐには受け取らなかった。けれど湊が手を引っ込めずにいると、指先で摘まむ。
「……ありがとう」
「うん」
チャイムが鳴るまで、あと何分あるのか。
湊は時計を見なかった。今ここで急いで教室へ戻ることより、目の前の彼女が息を整える方が大事だと思う。
渡り廊下の向こうで、生徒たちの声がまた大きくなる。
美愛はハンカチを握りしめたまま、ぽつりと言った。
「今日の更新は?」
風が二人の間を通り過ぎる。
「あの日の続きからでいい?」
美愛が顔を上げる。
「……うん」
「じゃあ長いよ」
その瞬間、春休みの夜が戻ってきた。




