第54話 その声は……
昼休みの教室は、弁当箱を開ける音と椅子を寄せる音で満ちていた。窓際の席には春の光が斜めに入り、机の上に広げたノートの罫線まで白く見える。
ミアは筆記用具を筆箱へ戻し、昼食の包みを机の端へ置いた。
「雨宮さん、今日の数学どうだった?」
向かいの席の子が、購買の袋を机に置きながら聞いてくる。ミアは弁当箱の蓋を開け、卵焼きの端を箸で押さえた。
「最後の証明、時間がギリギリでした」
「雨宮さんで足りないなら、うちら全滅なわけだよ」
笑い声が重なる。ミアも口元を緩めた。友達の表情も見えている。誰がどこで笑うかも、どの話題なら長く続くかも、教室で過ごすうちに覚えてしまった。
「美愛って、進路どうするの? やっぱりお姉さんと同じ大学?」
その名前を呼ばれた瞬間、箸の先が弁当箱の中で止まった。美愛と書いて、みゆ。出席番号を呼ばれる時も、テストの答案を返される時も、教室では雨宮さんか美愛の名前で呼ばれる。
「まだ決めてないよ」
「え、意外。雨宮家ってみんな頭いいイメージある」
悪意のない声だった。だから美愛は笑った。笑えば、相手も安心する。
角が立たない返し方を選べる自分が、たまに嫌になる。
姉は何を選んでも結果を出す人で、兄も同じだった。家の中では二人の名前がよく出る。責められているわけではないのに、比べるための線が目の前に引かれるたび、美愛はそこへ足を乗せるしかなかった。
スマホが鞄の中で震えた。見ると母からの通知だった。
『今日も病院に行くの? 模試の申込みも今週までだから、帰ったら確認しましょう。遅くなるなら連絡してね』
ミアは画面を伏せた。母の文面には遅くなることを心配する言葉も、受験を心配する言葉も並んでいる。
大切にされていることは分かる。分かるからこそ、期待に届かない顔を見せるのが怖かった。
成績だけなら何も問題ない。周りからすれば、勉強ができる子に見えている。
けれど卵焼きを口へ運んでも、味が舌の上に残らなかった。
「雨宮さん?」
呼ばれて顔を上げると、友達が首を傾けていた。美愛は弁当箱の蓋を閉じ、鞄へ手を伸ばす前に、教室の時計を見た。
「ごめん。飲み物買ってくる」
教室を出る時、後ろから楽しそうに笑う声が聞こえた。あの輪の中に戻れないわけではない。名前を呼んでくれる人もいる。
それでも背筋を伸ばして席にいるだけで、胸の奥が詰まっていく。
廊下は生徒で混んでいた。購買へ向かう男子の声、階段を下りる靴音、職員室前で先生を待つ生徒の列。美愛はその流れから外れ、旧校舎へ続く渡り廊下の方へ歩いた。
渡り廊下の先には、使われていない掲示板と細いベンチがある。昼休みにここまで来る生徒は多くない。校庭の声が遠くから届き、遅れて男子の笑い声が風に混じった。
美愛はベンチに腰を下ろし、小さな鞄を膝に抱えた。教室で伏せたスマホを取り出し、『今日も病院に行きます』と返信する。
送信したあとも、親指は画面の上から動かなかった。
いつも病室を出る前に祖父の手へ触れる。昔から変わらない大きな手だった。小さい頃は、その手に引かれて歩いていた。
夏祭りの帰りも、祖母の買い物について行った日も、人が多い場所では祖父が前を歩いていた。
昨日はベッドの横へ立ち、自分からその手を握った。手の温度は残っているのに、「また来るね」と言った声だけが白い部屋に落ちていった。
扉を閉める時、指を離すのに時間がかかった。
祖母が亡くなった去年から、祖父の家へ行く回数は増えた。玄関を開けると、奥の部屋からテレビの音がして、祖父が新聞から顔を上げる。
「ミアか」
それだけの日もあった。
「おかえり」
と言ってくれる日もあった。
どちらでもよかった。家に入った瞬間、そこにいることを当たり前みたいに受け入れてくれる声が嬉しかった。
夕方になると、祖父と一緒にご飯を作る。
祖母がいた頃より食卓の皿は減ったけれど、食卓の柔らかい空気は変わらない。向かいの席には祖父が座ってくれる。
テレビでは野球中継が流れ、祖父は箸を持ったまま画面を見ている。
「おじいちゃん、ご飯冷めちゃうよ」
「いま、いいところなんだ」
そう言いながらも、二人で手を合わせる。
「「いただきます」」
毎回同じやり取りだった。ミアの茶碗が空く頃になると、台所から麦茶のボトルを持ってきては
「今日はどうだった」
いつもその言葉を投げかけてきてくれる。
小さい頃、九十八点のテストを持って行ったことがある。家では「あと二点だったね」と笑われた。責められたわけではない。けれど赤い丸が並ぶ答案の端に、足りなかった二点だけが残った。
祖父の家でその答案を見せると、祖母は手を叩いて褒めてくれた。祖父は答案を覗き込み、点数より先に、ミアの頭へ手を置いた。
「九十八点も取ったのか」
「百点じゃないよ」
「二点くらい、先生に預けとけ」
祖母が笑い、祖父も笑った。ミアもつられて笑った。あの時、答案の端に残っていた二点が、初めて軽くなった。
祖父も祖母も、昔からミアと呼んだ。美愛の字を見て、祖父が勝手にそう呼び始めて、祖母が真似をした。
気づいた頃には、その家では誰も美愛と呼ばなくなっていた。
学校では雨宮さん。
家では美愛
けれど祖父の家では、ミアだった。
成績だけは優秀な雨宮さんじゃない。
何でもできる優秀な姉の妹でも、結果を出す兄の妹でもない。
模試の申込みを忘れてはいけない受験生でも、一歩足りない不出来な娘でもない。
玄関を開ければ、「ミア」と呼ばれる。
その声があるだけで、何かになろうとしなくてよかった。
もし、このまま祖父が目を覚まさなかったら。
玄関を開けても、テレビの音はしない。食卓の向こうで新聞を畳む手もない。味噌汁の湯気も、麦茶のボトルを置く音も、答案を見ずに頭へ乗せてくれた手も、あの家から消えてしまう。
スマホの画面が暗くなる。映り込んだ自分の顔は、教室で笑っていた時の顔と違っていた。美愛は鞄を抱える腕に力を入れ、膝の上へ額を近づけた。
「……一人にしないで」
声にした途端、胸の奥に押し込めていたものが崩れた。祖父へ向けた言葉だった。祖母へ向けた言葉でもあった。あの家でミアと呼んでくれた人たちへ、ずっと言えなかった言葉。
涙が鞄へ落ちる。拭おうとしても、次が落ちた。美愛は顔を上げられないまま、鞄の持ち手を握りしめた。
風が掲示物を揺らした。遠くでチャイム前の予鈴を知らせる放送の準備音が鳴り、渡り廊下の床を踏む足音が近づいてくる。
その足音が、ベンチの前で止まった。
「こんなところにいたんだ」




