第53話 すれ違う夜
病室の時計は、面会終了の時間へ近づいていた。白いカーテンの隙間から夕方の光が入り、ベッド脇の棚に置いた花瓶の水だけが淡く光っている。
ミアは椅子に座ったまま、祖父の手元に目を落としていた。
祖父は今日も目を覚まさない。眠っている顔は昨日と同じで、胸元の布団だけがゆっくり上下している。
ミアは膝の上で制服のスカートを整え、学校帰りの鞄を足元へ寄せた。
「面会のお時間、そろそろ終わりになります」
看護師が扉の外から声をかけ、ミアは椅子から立ち上がった。
「はい。ありがとうございました」
ミアは小さく頭を下げ、祖父の手へもう一度だけ目を向けた。何か言ってから出ようとして、結局言葉は喉の奥で止まる。起きていない人に話す声は、まだ上手く出せなかった。
病室を出ると、廊下には消毒液の匂いが広がっており、ナースステーションの明かり、点滴スタンドを押す音、エレベーター前で待つ親子の背中。ミアは鞄の持ち手を肩へ掛け直し、下りのボタンを押した。
病院の外へ出る頃には、空の色が夕方から夜へ変わりかけていた。駅へ向かう道には会社帰りの人が増え、制服姿の自分だけが病院から出てきたことを、ガラスに映った姿で知る。
電車へ乗り、窓際の扉に近い場所へ立つ。学校の最寄りを過ぎ、祖父母の家へ向かう人たちが乗り降りする。ミアは吊り革を見上げながら、昼間の廊下で見た男子生徒の背中を思い出していた。
背丈。歩き方。声までは聞こえなかった。教室へ戻る生徒の流れの中で、ほんの一瞬だけ横顔が見えそうになり、人の肩に隠れた。
春休みの夜に何度も隣へ座った男の子とは、服も場所も違っていた。
電車が次の駅へ滑り込む。扉が開き、ホームの明かりが車内へ流れ込んだ。ミアは降りる駅ではないと分かっていたのに、前の人が動いた流れに足を合わせ、そのままホームへ出ていた。
降りたあとで、ミアは駅名標を見上げた。白い看板に書かれた文字も、柱の位置も、ホームの端へ続く黄色い線も知っている。
春休みの間、夜になると何度も来ていた駅だった。
制服のまま来る場所ではなかった。学校帰りの鞄は肩に重く、ミアはホームの奥へ歩き、白線から距離を取った場所で立ち止まった。
電車が来るたび人が降り、人が乗り、ホームは何度も空いていく。
(来るわけがない)
そう言葉にしなくても、自分がもう来なくていいと言った日から、このホームで会う約束も、待つ理由もなくなっていた。
それでも、学校で見た背中が頭から離れなかった。廊下の向こう、教科書を持って歩いていた男子生徒。
春休みの夜に隣にきて声をかけてくれた人と同じ制服を着ているかもしれないと、思ってしまった。
ホームの時計が十九時五十七分を示していた。ミアは鞄を抱え直し、次に来る電車へ乗るつもりで足元の線を見る。夜の風が制服の裾を揺らし、反対ホームへ入ってきた電車の明かりが、線路の向こうを白く照らした。
その光の中に、制服姿の男子生徒が立っていた。
距離があった。人も多かった。顔ははっきり見えない。けれど、ホームの中ほどに立つ背丈と、鞄を肩へ掛ける仕草が目に入り、ミアの指が鞄の持ち手に沈んだ。
電車が来た。
目の前で扉が開き、降りる人が流れてくる。ミアはその流れに半歩下がり、もう一度だけ反対ホームを見ようとした。けれど車両の窓と人の肩が重なり、男子生徒の姿は線路の向こうで隠れてしまった。
「ご乗車のお客様はお早めにお乗りください」
アナウンスが流れ、ミアは電車へ乗った。扉のそばに立つと、窓に自分の制服姿が映る。春休みの夜とは違う格好で、同じホームを見ている自分がいた。
扉が閉まる。
電車が動き出す直前、ミアは窓の外へ目を向けた。反対ホームの明かりは流れ、人の影も柱も線になって後ろへ消えていく。
あの男子生徒の顔は、最後まで見えなかった。
♢
バイトが終わった頃、湊はロッカー室でエプロンを外していた。スマホを確認してから鞄を肩へ掛け、店の裏口を出る。駅前の歩道には仕事帰りの人が増え、二十時を過ぎた街の明かりが道路へ落ちていた。
改札を抜け、階段を上がる。ホームには昼間とは違う人の流れがあり、会社員の黒い鞄と学生のスクールバッグが並んでいた。湊はいつもなら見ないホームの奥へ、ふと目を向けた。
制服姿の女子が立っていた。
白線から離れた場所で、鞄を抱えるように持っている。こちらを見ているわけではない。反対ホームへ入ってきた電車の明かりが横顔を照らし、湊の足が一歩分だけ遅れた。
春休みの夜、同じ場所にいた少女のことを思い出した。白線の内側で、明日のことを決めるみたいに「今日のぶん」と言っていた。制服姿なんて一度も見ていないのに、ホームの奥に立つ人影だけが、あの夜と重なった。
空似だろう。
湊は電車へ乗った。ドアの近くに立ち、吊り革を握る。向こうのホームでは別の電車が扉を閉めていて、制服姿の女子は車両の中へ消えていた。
発車ベルが鳴る。
湊の乗った電車も、ゆっくり動き出した。窓の外でホームの明かりが流れ、さっきまで女子生徒が立っていた場所は柱の陰へ隠れる。見えなくなる直前、湊は一度だけ視線を戻した。
そこには、もう誰もいなかった。
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