第52話 後ろ姿
五時間目が終わったあとの渡り廊下は、昼休みとは違う騒がしさを残していた。授業の緊張が一度切れたせいか、教室へ戻る生徒たちの声はどこか軽い。
開いた窓から入る春の風が、壁際に貼られた進路説明会のプリントを揺らしている。
湊は教科書を片手に持ち替えながら、人の流れに合わせて歩いていた。隣では郁人が、肩にかけた鞄の紐を直しながら、さっきの授業で配られた小テスト範囲の紙を睨んでいる。
「湊、これ見た? 英単語の範囲、先生ちょっと本気出しすぎじゃない?」
郁人が紙をこちらへ寄せてくる。湊は一度目を落とし、「前から言われてただろ」と返した。
「言われてた記憶はある。でも覚えるための勉強してなかったんだ」
「それは俺に言われても困る」
「そこをなんとかするのが友達だろ」
「友達を便利な単語にするな」
言い返すと、郁人が大げさに肩を落とした。
前を歩いていた女子たちはすぐ別の話題へ移り、笑い声も次の人の足音に混ざって消えていく。
教師が向こうから歩いてきて、生徒たちが自然に壁際へ寄った。湊も半歩横へ避ける。その拍子に、廊下の端で教科書を抱えた女子生徒が視界の隅に入った。
顔は見えなかった。
人が間に入ったからでもあるし、湊自身が確かめようとしたわけでもない。ただ、肩に落ちた髪と、教科書の端を指で押さえる仕草が、なぜか目に残った。
「ん? どうした?」郁人に横から覗き込まれ、湊は視線を前へ戻した。「いや、なんでもない」と答えると、郁人は深く気にした様子もなく、小テスト範囲の紙を鞄へ押し込んだ。
教室へ戻ると、六時間目までの休み時間はまだ残っていた。窓際の席では誰かが眠そうに机へ伏せ、教卓の前では女子が数人、移動教室で聞いた話を続けている。黒板には前の授業の名残で、消し残された白い線が薄く伸びていた。
湊が席へ戻ると、前の席の郁人が椅子を後ろへ傾けたまま振り返った。「湊、今日バイト?」と聞かれ、湊は教科書を机へ置きながら頷いた。
「ある。放課後すぐ行く」
「大変だな。俺なら帰って寝る」
湊は返事をせず、机の端に寄っていたプリントをまとめた。話が広がる前にチャイムが鳴り、教室の空気が授業の形へ戻っていく。
春の光が窓際の机を白くしていて、先生の声が、いつもより頭に入ってこなかった。教室のどこかでシャーペンを落とす音がしたり、隣の列で椅子が軋んだりするたび、意識がそちらへ引かれる。
湊はノートへ板書を書き写しながら、ふと廊下側の窓へ目を向けた。磨りガラス越しに、誰かが通った影が流れる。廊下を歩く生徒なんて珍しくもない。なのに、気づけばシャーペンの先が止まっていた。
「白石、ここ読んで」
先生に呼ばれて顔を上げる。教科書の該当箇所を探し、指定された段落を読むと、教室の何人かがこちらを見た。読み終える頃には、さっきの影のことはもう曖昧になっていた。
放課後になると、教室は一気に落ち着きを失った。部活へ向かう生徒が鞄を掴み、委員会のある生徒が前の黒板へ集まり、帰宅する生徒たちは廊下の流れに紛れていく。湊は机の中を確認し、必要な教科書だけ鞄へ入れた。
「湊、ノート借りていい? 小テストのとこだけ写したい」郁人が横から手を伸ばしてくる。湊は鞄へ入れかけたノートを抜き、「明日返せよ」と渡した。
「助かる。今日の湊はいつもより優しいな」
「いつも貸してるだろ」
「それもそうだ」
郁人が笑いながらノートを鞄へしまう。その向こうで、廊下を歩く生徒の列が途切れた。湊は何気なく顔を上げる。開いた教室の扉の外を、女子が一人、こちらに背を向けて通り過ぎた。
一瞬だった。
同じ制服だった。背丈も歩き方も、特に目を引くわけでもない。それでも、湊の指は鞄のファスナーにかかったまま止まった。廊下の角へ消える直前、横顔が見えそうになって、人の肩に隠れた。
「どうした?」郁人の声で、湊は手元へ視線を戻した。「悪い。行くか」と鞄を持ち上げると、郁人は不思議そうに首を傾けながらも、先に教室を出た。
昇降口へ向かう廊下は、放課後特有のざわめきで満ちていた。下駄箱の前では部活着に着替えた生徒が靴を履き替え、外からはグラウンドの掛け声が届く。湊は靴紐を結び直し、校門へ向かう生徒たちの流れに入った。
校門を出る直前、前方の人混みの中に、さっきと似た後ろ姿が見えた。教科書を抱えたまま歩く姿。人の流れに押されても、歩く速さだけは変わらなかった。
どこかで見た気がした。
そう思った次の瞬間、バス停へ向かう生徒たちが間に入り、その背中は見えなくなった。湊は立ち止まらなかった。そのまま人の流れに合わせて歩き出した。気づけば、もう姿は見えなくなっていた。ただ、校門の外へ出ても、胸の奥に引っかかったものだけが残っていた。
「今日バイトだろ。急がなくていいのか?」郁人が横から言う。湊は前を向いたまま、「まだ時間はあるから」と返した。
春の夕方の風が、制服の袖を揺らして通り過ぎる。夕方の光の中、同じ制服の背中が駅の方へ流れていく。さっき見た後ろ姿も、もうその流れの中へ消えたのかもしれなかった。




