第51話 呼べなかった名前
昼休みが終わり、午後の授業が始まっても、教室にはまだ話し声の名残が残っていた。
窓際の席へ春の光が斜めに入り、前の席の男子が眠気をこらえるたび、椅子の脚が床を擦る。先生の声、黒板を叩くチョークの音、ノートをめくる紙の音。
その全部が教室の中を流れているのに、ミアの視線は何度も窓の外へ向いていた。
校庭の端では、体育の授業をしているクラスが走っている。ホイッスルが鳴り、遅れて男子の笑い声が届く。
放課後になれば、駅へ向かう人もいる。
春休みが終わってから、ミアは夜の駅へ行っていなかった。二十時が近づく頃には家にいて、祖父の病院へ行った帰りも、そのまま帰る。
そんな日常になっていた。
教室の壁に掛かった針は十四時十七分を指している。あと何時間で、あの時間になるのか。針を見たあと、無意識に二十時までの時間を足している自分に気づき、ミアはノートの端を指で押さえた。
「はい、プリント」
顔を上げると、前の席の女子がプリントをこちらへ差し出していた。
受け取った紙を後ろへ渡す。たったそれだけで、授業の中へ戻された気がした。
問題を当てられた生徒が答え、先生が頷き、先生の話しに隣の子が小さく笑う。
チャイムが鳴ると、次は移動教室だった。
教科書とノートを胸の前で揃え、席を立つ。廊下にはすでに別のクラスの生徒が流れ込んでいて、足音と話し声が壁に跳ねている。ミアは人の波に合わせて階段を降り、渡り廊下へ出たところで、前が詰まった。
向こうから教師が来たらしく、生徒たちが自然に端へ寄っていく。ミアも壁際へ下がり、教科書を抱え直した。その横を、男子生徒が二人近づいてくる。片方は身振りを交えながら話していて、もう一人は鞄の肩紐を指で直しながら、相手の声を聞いていた。
「最近、おまえちょっと変わった気がするんだけどなんかあったん?」
「また今度話すよ」
廊下のざわめきの中でも、その声だけは耳に残った。
「なんだよ、気になるから今話してくれよ」
「春休みから色々あったんだよ。長くなるからまた今度ゆっくり聞いてくれ」
その言葉に、ミアの足が床へ縫い止められた。声そのものより、言い方の方が先に耳へ残った。
責めているのに突き放していない。呆れた声なのに、歩幅は離れない。春休みの夜、コンビニの前で聞いた声と重なり、呼吸が一度だけ止まる。
二人との距離が縮まる。人が多く、顔はまだ見えきらない。けれど、話していた男子が身体をよけた拍子に、隣の男子の横顔が朝の光へ出た。黒い髪。落ち着いた目元。隣が何か話すたび、半歩だけ速度を落とす歩き方。
湊。
呼ぼうとして、息だけが喉に残った。
すれ違う瞬間、制服の袖がミアの教科書の端をかすめそうになった。湊は前を向いたまま通り過ぎていく。隣の男子がまた何かを言い、湊が短く返す。その背中は人の流れにまぎれて、渡り廊下の角へ消えた。
ミアは振り返れなかった。手を伸ばせば届く距離だった。春休みの夜みたいに腕を掴むことだってできた。それでも指は教科書の角を掴んだまま動かず、喉まで上がった名前だけが、行き場を失ったまま残る。
「行かないの?」
後ろから声をかけられ、ミアは肩を揺らす。
「……行きます」
廊下を歩き出しても、足だけがさっきの場所へ残っているみたいだった。廊下の先ではクラスメイトたちが教室へ入っていく。ミアもその流れに戻りながら、角を曲がった先を一度だけ見た。もう湊の姿はない。
もう来なくていい。
そう言ったのは自分だ。
教室へ入ると、もう半分くらいの席が埋まっていた。前の方では誰かが次の授業の話をしていて、窓際では女子二人がスマホを覗き込んで笑っている。
ミアは席へ座り、教科書を机へ置いた。
開いたページを見ても、文字が頭へ入ってこない。
さっき聞こえた声が、まだ耳の奥に残っていた。
『 春休みから色々あったんだよ 』
あの言い方まで覚えていることに気づいて、ミアはシャーペンを握り直す。
授業が始まる少し前、何気なく時計を見る。
十四時四十一分。
まだ早い。
そう思ったあとで、何に対してなのか分からなくなった。
前までは、時計を見るたび二十時までを考えていた。祖父の面会。病院を出る時間。帰り道。ホームへ着く頃の空。
けれど今は、行かない。
もう来なくていいと言ったのは自分で、あの人も約束を破るタイプじゃない。
それなのに。
廊下を歩いていた背中が、目を閉じるとまた浮かぶ。
呼べばよかったのかもしれない。
名前だけでも。
先生が入ってきて、教室の空気が切り替わる。立っていた生徒たちが席へ戻り、椅子を引く音が重なった。
ミアはノートを開きながら、窓の外を見る。
春の風で、校庭の端の木が揺れていた。
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