第6話 水面に触れる
翌日、雨は止んでいた。
昨日の夜まで街を覆っていた雨雲は薄く崩れ、空には頼りない青が広がっている。晴れていると言うには弱く、曇りと言うには明るい。そんな中途半端な色だった。ただ、空気の奥にはまだ雨の名残が残っている。
道路の端には水たまりが点々と残っていた。
また少しずつ元の形へ戻っていく。その様子をなんとなく目で追いながら、白石湊は歩いていた。
靴先が水に入りそうになり、反射的に足を止める。
避ける必要なんてないくらい小さな水たまりだった。それなのに無意識に遠回りしている自分に気づいて、湊は小さく息を漏らす。
「……何やってんだ、俺」
誰に聞かせるでもなく呟く。
声は湿った空気に吸われ、すぐ消えた。
昨日と同じ時間だった。
学校帰りの人影。駅前のコンビニ。赤になりかけた信号。歩く流れは昨日と何も変わっていない。なのに、今日は最初から向かう場所が決まっていた。
公園。
昨日までなら、わざわざ立ち寄る理由なんてなかった場所だ。遊具があって、ベンチがあって、子供が騒いでいるだけの、どこにでもある小さな公園。それなのに今は、そこに誰かがいるかもしれないと思っている。
いや、違う。
“いる前提で向かっている”。
そこに気づいてしまい、なんとなく落ち着かなくなる。
公園の入口を抜ける。
濡れた土の匂いがふわりと鼻を掠めた。雨を吸った草の青臭さと混ざり、少し冷たい空気が肺の奥へ入ってくる。ブランコは止まったままだった。鎖にはまだ水滴が残っていて、風が吹くたび、ぽつり、ぽつりと地面へ落ちる。
ベンチはまだ濡れている。
滑り台にも水滴が残っていた。
湊はゆっくり視線を巡らせる。
そして、すぐ見つけた。
滑り台の横。しゃがみ込むような姿勢で、ミアが水たまりを見ていた。
昨日とは違う場所だった。けれど探した感覚はない。最初からそこにいると思っていたみたいに、自然に目が向いていた。
湊はそのまま近づいていく。
足元の砂利が小さく鳴る。
それで気づいたのか、ミアが少しだけ顔を上げた。長い黒髪が肩から滑り落ちる。雨上がりの光を受けた髪は、黒というより濡れた夜みたいな色に見えた。
「来ましたね」
静かな声だった。
湊は苦笑する。
「約束してるからな、待たせたか?」
「待ってたから、合ってる」
即答だった。
あまりにも自然に返されて、一瞬だけ言葉に詰まる。
ミアは気にした様子もなく、水たまりへ視線を戻した。
湊も隣へ立つ。
小さな水たまりだった。
濁った水に、曇った空が映っている。電線の影。揺れた木の枝。そして、その真ん中にミアの顔まで浮かんでいた。
「……何がそんなに面白いんだよ」
聞くと、ミアは少し考えてから口を開く。
「ちゃんと映らないところ」
「は?」
「綺麗すぎないから」
ミアは膝を抱えたまま、水面を指先で軽くなぞった。
波紋が広がる。
映っていた空が崩れる。
千切れるみたいに歪んで、青が砕ける。
それを見ながら、ミアはぽつりと言った。
「濁ってる方が好き」
独り言みたいな声だった。
けれど、その言葉だけ妙に重かった。
「綺麗だと触れなくなるから」
湊は返事をしなかった。
たぶん、ここで何かを言うべきなんだろうと思う。でも、軽い言葉を返した瞬間、今見えているもの全部が嘘っぽくなる気がした。
ミアはそんな湊を気にする様子もなく、水面を見続けている。
その横顔は静かだった。
静かなのに、どこか危うい。
放っておけば、そのまま水の中へ落ちていきそうな薄さがあった。
「更新は?」
しばらくして、ミアが言った。声はいつも通り静かだったが、ただ答えを待っているだけには聞こえなかった。湊はすぐに返事をせず、ミアの足元にある水たまりへ視線を落とした。さっき指先で崩された空は、まだ少しだけ揺れていて、濁った水面の中で雲と青がゆっくり形を戻そうとしていた。
完全には戻らない。風が吹けばまた崩れるし、落ち葉が沈めば空は隠れる。けれど、それでも水面には確かに空が映っていた。湊はその中途半端な景色を見ながら、昨日から考えていた言葉を一度全部捨てた。綺麗な言葉で救えるほど、目の前の少女は簡単じゃないと思った。
「今日の理由、今決めた」
湊は水たまりから目を離さないまま言った。
「この水たまりが、明日どうなってるか見に来る。残ってるのか、乾いて消えてるのか、それとも泥だけになってるのか。俺はそれを知りたい」
ミアが顔を上げる。湊はその視線を受けても、すぐには見返さなかった。見返すと、言葉を飾りたくなる気がしたからだ。
「だから、ミアも明日来て確認しないか。今日これを見たやつがいないと、明日変わったかどうか分からないだろ」
言ってから、少し乱暴だったかもしれないと思った。けれど、優しいだけの言葉にしたくなかった。生きてほしい、なんて真正面から言えば、たぶんミアは受け取らない。だから湊は、水たまりを見る理由にした。明日を、確認しに来るだけの用事にした。
ミアは何も言わなかった。代わりに、もう一度水たまりを見た。濁った水面には、さっきより少しだけ整った空が映っている。綺麗ではない。歪んでいる。それでも確かに、今日ここにあったものが映っていた。
「……明日、消えてたら?」ミアが小さく聞いた。湊は少し考え、それから肩の力を抜いた。「消えてたら、消えてたって分かる。それも見に来ないと分からない」
その返事に、ミアはしばらく黙っていた。風が濡れた草を揺らし、滑り台の端から水滴が落ちる。ぽつりと水面に当たって、せっかく戻りかけていた空がまた崩れた。
ミアはその波紋を見つめたまま、ほんの少しだけ息を吐いた。
「……合格」
その声は、いつもより遅かった。簡単に出した答えではなく、ちゃんと考えてから置いた言葉に聞こえた。
湊は何も言わず、同じ水たまりを見た。今日の理由は、たぶん立派なものじゃない。誰かに説明したら、そんなことで、と笑われるかもしれない。それでも、明日ここへ来る理由にはなる。少なくとも、今この瞬間のミアを一日先へ運ぶには、それで足りる気がした。
ミアがぽつりと呟く。
「昔ね、雨の日にずっと外にいたことがあって」
そこで言葉が止まる。
けれど今度は、ただ意味深なだけでは終わらなかった。ミアは自分の袖を軽く握る。
「寒すぎると、途中から感覚なくなるんだよ」
その言い方が妙に現実的だった。
知識じゃない。
経験した人間の声だった。
湊は返事に迷う。
結局、口から出たのは、
「……風邪引かなかったのか」
そんな言葉だった。
ミアは一瞬だけ目を丸くしたあと、小さく吹き出す。
「引いた」
「そりゃそうだろ」
思わず即答する。
その瞬間、ミアがちゃんと笑った。
声は小さい。
でも今までで一番自然だった。
それを見て、湊は少しだけ肩の力を抜く。
ああ、この子も普通に笑うんだな、と、そんなことを思った。
ミアは立ち上がり、膝についた砂を払った。袖口を指でつまみ、少しだけ濡れた布の感触を確かめるようにしてから、公園の出口へ歩き出す。
湊はその背中を見送った。出口の手前でほんの少しだけ足を止めた。
「また明日」
ミアは振り返り、軽く手を振ってからそれだけ言って、今度こそ公園の外へ出ていった。
一人になってから、湊はもう一度水たまりを見下ろした。揺れた空はまた少しずつ戻り始めている。濁っていて、歪んでいて、何度も崩れる。それでも、明日どうなっているのかは、今日のままでは分からない。
だから明日が必要になる。湊はようやく、その単純なことに気づいた。救うための言葉じゃなく、続きを見るための約束。それが今日、ミアに渡せるぎりぎりの理由だった。




