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水面に触れる

翌日、雨はもう止んでいた。


まるで最初から何もなかったみたいに、空は薄く晴れている。


けれど、空気の奥にはまだ湿り気が残っていて、

昨日の名残が、わずかに世界に張り付いていた。


道の端には、水たまりがいくつも残っている。


踏めば簡単に崩れる、小さな鏡みたいなそれに、

空が歪んで映っていた。


靴の先で、それを避けながら歩く。


無意識に。


——昨日と同じ時間。


——昨日と同じ道。


けれど、向かう先はもう“ただの場所”ではなかった。


あの公園に行く理由は、もう一つしかない。


それを、わざわざ言葉にする必要はなかった。



公園に入る。


濡れた土の匂いが、ふわりと立ち上る。


草の青い匂いと混ざって、少しだけ懐かしいような感覚になる。


昨日の雨が、ここに残っている。


ブランコは止まっている。


鎖に残った水滴が、時折、遅れて落ちる。


その音が、やけに遠くまで響く。


ベンチはまだ乾ききっていない。


触れれば、きっと冷たい。


視線を巡らせる。


そして——


「……いた」


小さく呟く。


滑り台の横。


地面にしゃがみ込むような姿勢で、ミアがいた。


昨日とは違う場所。


でも、不思議と迷わなかった。


そこにいると分かっていたみたいに、自然に視線が向いた。


「何してんだ」


声をかける。


ミアは、すぐには振り向かない。


足元を見たまま、静かに答える。


「水、見てた」


その言葉に、少しだけ首を傾ける。


近づく。


ミアの視線の先を見る。


水たまり。


小さな、浅いもの。


そこに、空が映っている。


歪んだ青。


途切れた雲。


そして、その上に——


ミアの顔が、揺れている。


風もないのに、わずかに波打っている。


「……それ、面白いか?」


なんとなく聞く。


ミアは、ほんの少しだけ間を置いてから答える。


「昔も、見てたから」


その言い方に、わずかな引っかかりを覚える。


“昔も”。


それだけの言葉なのに、妙に重い。


「どこで」


無意識に聞いていた。


深く考えずに。


ただの会話の延長として。


でも——


ミアは答えなかった。


少しだけ視線を落として、

指先で、水たまりの表面を軽くなぞる。


波紋が広がる。


映っていた空が、崩れる。


「……濁ってる方が、好き」


ぽつりと呟く。


独り言みたいに。


「綺麗だと、落ち着かない」


その言葉は、説明じゃなかった。


ただの感想みたいで、でもどこかで終わっていない。


その先に何かがあるのに、そこで切られている感じ。


「……そっか」


それ以上は聞かない。


聞けない、の方が正しいかもしれない。


踏み込んだら、壊れる気がした。


何がとは言えないけど、確実に。


ミアは立ち上がる。


膝についた砂を、軽く払う。


その仕草が、やけに静かだった。


「更新は?」


振り返らずに言う。


いつもの言葉。


でも、さっきの空気がまだ残っている。


完全には戻っていない。


「……ある」


少しだけ間を置いて答える。


頭の中には、いくつか候補があった。


昨日の帰りから考えていたもの。


でも——


さっきの“濁ってる方が好き”って言葉が、引っかかっている。


そのまま使うのは、違う気がした。


でも、無視するのも違う。


「今日は——」


言いかけて、止まる。


言葉を選ぶ。


少しだけ慎重に。


「その水」


ミアの足元を指す。


さっきの水たまり。


「もうちょっと見てからにすればいい」


ミアが、わずかにこちらを見る。


続きを待つように。


「さっき、崩れただろ」


波紋で歪んだ水面を思い出す。


「でも、また戻る」


完全には同じじゃないけど、


それでも、また空は映る。


「だから……」


言葉を探す。


上手く言おうとすると、崩れる気がした。


「もう一回、戻るところ見てからでいい」


言い切る。


静かになる。


風が、少しだけ吹く。


水面が揺れる。


「……」


ミアは何も言わない。


ただ、水たまりを見る。


時間が、ゆっくり流れる。


さっきよりも、少しだけ長い沈黙。


その間に、波紋は消えていく。


揺れが収まる。


空が、また形を取り戻す。


歪んだまま。


完全には戻らないまま。


それでも——


映る。


「……」


ミアが、ほんの少しだけ息を吐く。


その音が、やけに近く聞こえる。


「……合格」


静かに言う。


いつもより、少しだけ遅い。


考えてから出したみたいな声。


肩の力が抜ける。


でも今回は、それだけじゃ終わらない。


「ねえ」


ミアが言う。


視線は、水面のまま。


「昔ね」


一瞬だけ、言葉が途切れる。


その間に、空気が変わる。


「雨の日、ずっと外にいたことがあって」


それだけ。


説明はない。


誰と、とか。


どこで、とか。


どうして、とか。


何も続かない。


ただ、その一文だけが落ちる。


でも——


それだけで、十分すぎるほど重い。


「……寒そうだな」


やっと出てきた言葉が、それだった。


もっと聞くこともできたはずなのに、


それ以上は、踏み込めなかった。


ミアは、小さく笑う。


ほんのわずかに。


「うん」


短い返事。


でも、その中に少しだけ温度がある。


昨日よりも、少しだけ。


「だから」


ゆっくり立ち上がる。


「冷たいの、分かる」


自分の袖を、軽く触る。


もう乾いているはずなのに、確かめるみたいに。


「……そっか」


それ以上の言葉は、出てこなかった。


出さなくていい気がした。


沈黙。


でも、重くはない。


さっきまでとは違う種類の静けさ。


その後は深い話もする訳もなく


「じゃあ」


ミアが歩き出す。


公園の出口に向かって。


「今日は生きる」


いつもの言葉。


でも、少しだけ違う。


“理由”じゃなくて、“続き”みたいに聞こえた。


「また明日」


振り返らずに言う。


でも、足は止まらない。


そのまま進んでいく。



一人、残る。


さっきの水たまりを見る。


もう波紋はない。


空が、静かに映っている。


でも——


さっきより少しだけ、歪んで見えた。


「……濁ってる方が好き、か」


小さく呟く。


その意味を、考える。


考えようとして、やめる。


たぶん、簡単に分かるものじゃない。


分かった気になる方が、危ない。


「……明日」


自然と、口に出る。


次の“理由”じゃない。


ただの、続き。


それを考えている自分に、少しだけ気づく。


——触れてはいけないものに、少しだけ触れた気がした。




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