今日は、帰れ
家を出た瞬間、空気が違った。
肌にまとわりつくような湿気。
ただ立っているだけなのに、じわりと体温が奪われていく感覚。
息を吸う。
重い。
肺の奥に、湿ったものが沈んでいくみたいだった。
「……降るな、これ」
小さく呟く。
声はすぐに空気に溶けた。
風がない。
音もない。
それなのに、“何かが来る前”の気配だけがはっきりしている。
——ぽつり。
頬に、冷たい点が触れる。
遅れて、もう一滴。
アスファルトに、黒い染みがぽつぽつと広がり始める。
「あー……」
思わず顔をしかめる。
タイミングが悪い。
よりにもよって、今日かよ、と思う。
でも——
足は止まらない。
止める理由がないから。
むしろ、ここで止まる方が落ち着かない。
気づかないうちに、歩く速度が少しだけ上がる。
それを自覚して、少しだけ苦笑する。
⸻
公園に着く頃には、雨は完全に降り出していた。
細かい雨。
霧みたいに軽いのに、確実に濡れる。
葉に当たる音が、細かく重なる。
サラサラとした音が、空間を満たしている。
入口で立ち止まる。
一歩だけ、中を覗く。
ベンチは濡れている。
水滴が縁に溜まって、ゆっくり落ちていく。
ブランコは、鎖から水が伝っている。
ぽた、ぽた、と一定の間隔で地面に落ちている。
滑り台は、曇った光を鈍く反射している。
——誰もいない。
当たり前だ。
こんな日に、公園に来るやつなんていない。
「……いるのかよ」
半分、冗談みたいに呟く。
でも足は止まらない。
中に入る。
靴の裏が、濡れた地面に吸い付く。
一歩ごとに、小さな水音がする。
その音がやけに耳に残る。
そして——
視界の端に、動かない影。
ブランコ。
昨日と同じ場所。
同じ高さ。
同じ姿勢で、ミアが座っていた。
傘もささずに。
雨に打たれながら。
「……何やってんだよ」
気づいた瞬間、足が速くなる。
考えるより先に、体が動く。
濡れるのも構わず、距離を詰める。
「風邪引くぞ」
声が、少しだけ強くなる。
ミアは、ゆっくり顔を上げる。
濡れた髪が、頬に張り付いている。
水滴が、顎の先から落ちる。
その動きがやけにゆっくりに見える。
「……来たんだ」
いつもと同じ声。
でも、その見た目と噛み合っていない。
「来たんだ、じゃねえよ」
思わず言葉が荒くなる。
「なんで傘さしてないんだよ」
「持ってない」
間を置かずに返ってくる。
「買えよ」
「そこまでして生きたくない」
即答。
迷いがない。
その軽さが、妙に引っかかる。
昨日までより、少しだけ深く刺さる。
「……はぁ」
息を吐く。
呆れたような、諦めたような。
傘を差し出す。
雨音が、その部分だけ少しだけ鈍くなる。
「ほら」
ミアは視線を動かす。
傘を見る。
それから、こちらを見る。
「……いいの?」
「近いからあまりよくないけど」
そのまま答える。
「濡れてるの見てる方が気分悪い」
ミアはブランコから立ち上がる。
足元の水が、わずかに跳ねる。
一歩、傘の中に入る。
距離が、一気に縮まる。
肩と肩の間に、ほとんど隙間がない。
体温が、わずかに伝わる。
「……狭いね」
「二人用じゃないからな」
どうでもいい会話。
でも、その“どうでもよさ”が、少しだけ落ち着く。
雨音が、周りを覆っている。
外の世界が、少し遠くなる。
この傘の中だけ、切り取られているみたいだった。
「更新は?」
ミアが言う。
距離が近いせいで、声がそのまま届く。
逃げ場がない。
「……ある」
答える。
でも、違和感がある。
今日はちゃんと考えてきた。
それなりに、“いいやつ”を。
でも——
今の状況が、それを全部ズラす。
濡れているミア。
冷たい空気。
狭い傘の中。
この距離。
「今日は——」
言いかけて、止まる。
違う。
これじゃない。
今言うべきじゃない。
頭の中で用意してきた言葉が、一気に軽くなる。
一瞬、思考が空白になる。
そのあと——
口が、勝手に動く。
「……今日は、今すぐ帰れ」
「は?」
ミアの眉が、わずかに動く。
初めてはっきり分かる反応。
「そのままだと普通に体調崩すだろ」
「別にいいよ」
「よくない」
被せるように言う。
少し強い。
自分でも分かるくらいに。
「今日死ぬ理由より、明日風邪引く方が現実的だろ」
言葉が止まらない。
理屈が正しいかどうかはどうでもいい。
今は、それを言うしかない。
「どうせなら、体調いい状態で考えろよ」
沈黙。
雨音だけが残る。
細かく、途切れずに。
ミアは、じっとこちらを見る。
その目が、ほんの少しだけ揺れる。
「……それ」
小さく呟く。
「更新?」
「そう」
また、沈黙。
今度は少し長い。
ミアは視線を落とす。
自分の袖を見る。
濡れて、色が濃くなっている。
指で、軽くつまむ。
布が、肌に張り付く。
「……冷たい」
ぽつりと落ちる声。
さっきまでと違う。
ほんの少しだけ、“実感”が混ざっている。
「だろ」
「……うん」
小さく頷く。
その動きが、やけにゆっくりに見える。
時間が少しだけ引き延ばされたみたいに。
そして——
「合格」
はっきりとした声。
その一言で、張っていたものが抜ける。
肩の力が落ちる。
息が、深くなる。
「……帰る」
ミアが言う。
「今日は」
その言葉が、少しだけ重みを持つ。
ただのルールじゃなくて、“選択”に変わっている。
「駅まで入ってけよ」
気づけば、口に出ていた。
自分でも少し驚く。
「いらない」
すぐに返ってくる。
でも、そのあと——
ほんのわずかに間があって、
「……駅までなら」
小さく付け足される。
その言い方が、少しだけ柔らかい。
二人で歩き出す。
傘は一つ。
距離は近いまま。
雨は、少しだけ強くなっている。
地面に当たる音が、はっきりする。
水たまりが、少しずつ広がっていく。
靴の中に、じわりと湿気が入り込む。
「……なんで来たの」
ミアが言う。
前を見たまま。
「昨日約束したから」
「口約束なのに?」
「……まあ」
少し考える。
言葉を選ぶ余裕は、あまりない。
でも、誤魔化す気もない。
「来なかったら、終わる気がした」
そのまま言う。
飾らずに。
ミアは何も言わない。
でも、歩く速度がほんの少しだけ落ちる。
隣にいる距離が、わずかに長くなる。
「……そっか」
短い言葉。
でも、軽くはない。
どこかに残る。
しばらく歩く。
会話はない。
でも、気まずくはない。
雨音が、ちょうどいい距離を保ってくれる。
踏みしめる音。
水が跳ねる音。
それだけで、十分だった。
「ありがとう」
駅に着き、ミアが立ち止まる。
街灯の光が、雨粒を細かく照らしている。
「じゃあ」
傘を少し傾ける。
ミアが外に出る。
「また明日」
背を向けたまま言う。
「傘いるだろ」
「いらない、色々困る」
でも——
一歩進んで、止まる。
ほんの一瞬の迷い。
振り返らないまま、
「……来るでしょ」
小さく、付け足す。
確認みたいな声。
少しだけ、不安が混じっている。
「行くよ」
迷わず答える。
今度は考えない。
即答する。
ミアは、ほんのわずかに頷く。
その動きが、妙にゆっくりに見える。
そしてそのまま
後ろ姿が、少しずつぼやけていく。
⸻
帰り道。
傘の中は、一人分の広さに戻る。
さっきまで二人だった空間が、やけに広い。
音も、少し遠くなる。
雨音が、ただの背景に戻る。
「……風邪引くなよ」
小さく呟く。
誰に聞かせるでもなく。
気づけば、
“明日の理由”じゃなくて、
“あいつ自身”のことを考えていた。
理由を作るために会っていたはずなのに、
その前提が、少しずつズレていく。
——そのズレが、嫌じゃない。
むしろ、
少しだけ、安心する。




