第48話 兄妹の距離感
買い物は、思っていたより早く終わった。
会計を済ませ、袋へ詰め終える。野菜に卵、明日の朝に使うパンや牛乳まで入ったエコバッグは、それなりの重さになっていた。普段なら、湊が重い方を持ち、紬は軽い袋を持って隣を歩く。それがいつもの帰り道だった。
湊が持ち手へ手を伸ばしかけた時、その前に紬の指が入った。
「……今日は、私も一緒に持ってもいいですか?」
片側の持ち手を掴んだまま、紬は袋を見ている。言いながらも声は控えめだった。でも、断られる前提みたいに肩へ力が入っているのに、手だけは離れない。
湊は一度だけ紬を見る。
「重たいけど、大丈夫か?」
「……持てます」
一昨日までなら、多分ここで終わっていた。湊が持つと言って、紬も無理には言わない。そういう距離だった。
けれど今は違う。
昨日のことを思い出す。エプロンを抱えて、逃げるみたいに部屋へ戻っていった背中。あのあと、どんな顔をしていたのかは分からない。でも、今こうしていつもと違うことを言うくらいには、何かが残っているのかもしれなかった。
「腕きつくなったら言えよ」
湊はそう言って、空いている方の持ち手へ手を掛けた。
(……断られなかった)
紬はほんの少しだけ目を丸くする。無理するなと言われると思っていた。もしくは、自分が持つからいいと返されるか。
なのに、自然に二人で持つことができた。
それが思ったより嬉しくて、持ち手を握る指へ少し力が入った。
スーパーを出ると、冷たい風が頬を抜けた。袋を真ん中で持つと、思っていたより距離が近い。少し離れると引っ張られるから、自然と歩幅が揃う。
住宅街へ入る頃まで、しばらく会話はなかった。それでも気まずくない。足音の速さが同じで、ときどき袋が揺れるたびに、隣の手元も少しだけ動く。
そんな時間が、不思議と落ち着いた。
「……意外でした」
紬が前を向いたまま言う。
「何が」
「止められると思ってたので」
湊は少し考える。
「一緒に持ってくれるって言ってくれたしな」
その返しが、あまりにも自然だった。
理由を聞かれるでもなく、ただそう思ったからだと受け入れてくれたんだ。
紬は少しだけ視線を落とす。
「……はい」
小さく返してから、少し間が空く。
「今日は、こっちがよかったので」
言ったあと、自分でも曖昧だと思った。何が、なんて説明できない。ただ、今日はいつもみたいに帰りたかった。少し近い距離も、隣を歩く時間も、なんとなく終わってほしくなかった。
エントランスへ入ると、エレベーターの前で足が止まった。点検中の表示は、朝のまま残っている。
「……まだ点検中ですね」
紬が表示を見上げ、持ち手を握る指に力を入れる。湊も階段の方へ目を向けた。
「みたいだな」
二人で袋を持ったまま階段へ向かう。段差へ足を置くたび、持ち手が揺れた。
湊が速さを合わせると、紬も隣で息を整える。踊り場を回る手前で、紬が歩いたまま口を開いた。
「……次も、重い時はこうしていいですか」
湊の足が一拍遅れる。隣を見ると、紬は前を向いたままだが耳だけが赤い。
「紬がいいなら、助かるよ」
「うん」
玄関前へ着くと、紬が先に鍵へ手を伸ばす。
「開けますね」
鍵が回り、ドアが開く。二人で袋をキッチン横へ置くと、湊は牛乳を冷蔵庫へ入れ、紬は卵を奥へ寄せて昼に使う野菜を作業台へ並べた。
「お昼、作りますからゆっくりしててください」
冷蔵庫の扉を閉めた紬は、そこまで言って足を止めた。廊下の方へ視線を向け、自分の部屋へ入っていく。
戻ってきた手には、誕生日に渡したエプロンがあった。キッチンの前で立ち止まり、胸元へ当てる。首紐を通し、髪を横へ流して背中へ手を回した。
胸元へ置いた指が布を押さえている。
「……どうですか」
紬は湊の方を向いているのに、目は合わない。
湊は冷蔵庫の前で手を止める。淡い色のエプロンは、台所に立つ紬によく似合っていた。
「…似合ってる」
紬は胸の奥がキュッとなり、返事をしようとして唇が開きかけるが、声にはならない。視線が落ち、声は小さくなってしまった。
「……ありがとう、ございます」
笑顔の紬を見た瞬間、もっと早く行動していればと頭をよぎったが、考えることをやめた。
紬が包丁へ触れる前に、玉ねぎを一つ取る。
「一緒に作ろうか」
紬の手が止まる。視線が湊の手元におちる。
「え……でも」
「俺も食べるし」
隣に立つ場所だけを空けたまま、玉ねぎの皮へ指を掛ける。
紬は包丁を取る代わりに、まな板を湊の方へ寄せた。
「……じゃあ、玉ねぎをお願いします」
湊が頷くと、紬は隣へ並び、人参を取り出した。
肩が触れる距離ではない。それでも、一人で立つはずだった台所に、二人分の場所ができている。
「分かった」
湊が玉ねぎの薄皮を剥き始める。紬は人参を洗いながら、一度だけ湊の手元を見た。すぐ視線を戻し、水道を止める。
紬は人参をまな板へ置いた。包丁へ手を伸ばしかけて、また止まる。湊の横顔を見て、言うか迷うように唇を閉じたあと、声を落とした。
「兄妹ってこんな感じ…なのかな」
湊の手が止まる。すぐには顔を向けず、玉ねぎの薄皮を剥きながら声だけを返した。
「どうした、妹」
「……バカ」
紬は包丁を取り、人参へ視線を落とす。けれど切り始めるまでに少し時間が掛かった。耳がまだ赤い。
湊はそんな横顔を見て、言い返す代わりに玉ねぎへ手を戻した。
「手、気をつけろよ」
「……お兄ちゃんこそ」
玉ねぎを切る音と、人参を刻む音が並ぶ。
「目にしみる」
「目がいたいです」
狭いキッチンに、まな板を叩く音だけが続いていた。
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