第46話 日曜日のお買い物(1)
翌朝、リビングへ入ると、キッチンから包丁の音が聞こえていた。
まな板に刃が当たる一定の音と、火にかけた鍋の音。窓の外はもう明るく、カーテン越しに入る日差しが床の上へ薄く伸びている。日曜日の朝らしい静けさの中で、紬はいつもと変わらない姿勢で台所に立っていた。
「おはようございます」
振り返った紬の声は、昨日とはどこか違って聞こえた。湊は一瞬だけ返事が遅れそうになり、すぐに視線を食卓へ逃がす。テーブルには二人分の箸と皿が並んでいて、湯気の立つ味噌汁の香りがリビングへ広がっていた。
「おはよ。早いな」
「昨日、寝るのが遅くなったので、逆に目が覚めました」
紬はそう言って、卵焼きを皿へ移した。言葉の調子は落ち着いている。けれど、湊の方を長く見ようとはしなかった。湊もそれを無理に追わず、食卓の椅子を引いて腰を下ろす。昨日のことに触れれば、たぶん二人とも余計にぎこちなくなる。
朝食は、いつも通りに進んだ。紬が作った味噌汁を飲み、焼き魚をほぐし、湊が「おいしい」と言う。紬は「ありがとうございます」と答えて、自分の皿へ視線を戻す。
食事を終えると、湊は皿を流しへ運んだ。
紬は湯呑みを片づけながら、テーブルの端に置いていたメモ用紙を手に取る。いくつかの食材名と曜日らしき文字が並んでいた。湊は水を出しかけてから、それが今日の買い物のメモだと気づく。
「今日、買い物行く日か」
「はい。時間、大丈夫ですか」
「平気。いつでも大丈夫だぞ」
日曜日に時間が合えば、二人で食材を買いに行く。最初から決めていたわけではない。親が出張で家を空けることが増え、帰りも遅い日が続くようになってから、いつの間にかそうなった。
一週間全部を決めるわけではない。
冷蔵庫に残っているものや、親が帰ってくる日を考えて、だいたい四日分。足りなければ買い足せばいいし、二人とも帰りが遅くなる日は、温めるだけで済むものを入れる。そうやって、家の中の時間はいつの間にか二人で回るようになっていた。
「今週のシフト、分かりますか。買う量を考えたいので」
湊は濡れていない手でポケットからスマホを出し、バイト先の予定表を開いた。画面をスクロールしながら曜日を確認する。前なら、紬に聞かれるまで家の献立と自分の予定が繋がっていることを意識していなかった。
「火、水、金、土」
「四日ですね」
湊の予定をメモに足しているのだろう。表情は真面目で、いつものように段取りを組んでいるだけに見える。それでも、湊はその横顔を見て、昨日の声を思い出した。
『ありがとう、お兄ちゃん』
胸の奥に置いたはずの声が、朝の明るさの中でまた浮かび上がる。湊は視線をスマホへ戻し、無意味に画面を閉じた。何かを言えば昨日へ戻ってしまいそうで、結局、何も言わなかった。
「火曜と水曜は、帰り遅いですよね」
「たぶん。閉店までかな」
「じゃあ、その日は温めるだけにします。金曜も同じで、土曜は帰ってくる時間次第ですね」
「そこまで考えなくてもいいぞ」
湊が言うと、紬は顔を上げた。責めるでもなく、遠慮するでもなく、ただ不思議そうにこちらを見る。その目を向けられて、湊は自分の言葉の方が余計だったかもしれないと思った。
「私が困るので」
「……そっか」
「はい」
それ以上は続かなかった。
紬は再びメモへ視線を落とし、湊は皿を洗い始める。水音が会話の隙間を埋めた。以前なら、この沈黙はただの沈黙だった。話すことがないから黙っているだけで、そこに意味を探す必要もなかった。
けれど今朝は違った。
会話が途切れても、居心地が悪いわけではない。
湊は洗い終えた皿を水切りかごへ置いた。
「買い物、今からでもいいですか」
紬がメモを閉じながら言った。
「いいよ」
「牛乳と卵は買います。あと、玉ねぎと鶏肉。火曜は親子丼にして、水曜はカレーにします」
「カレー、作るんだな」
「作り置きできますから。それに、湊の好物ですよね」
紬の声はいつも通り落ち着いていた。けれど、好物だと言い切る距離だけが、昨日までと違っていた。
「重いものは持つから、遠慮なく入れてくれ。」
湊が言うと、紬は一度だけ瞬きをした。
「いつも持ってもらっていますよ」
「今日も持つってこと」
「……ありがとうございます」
紬はそう答えてから、すぐに視線を逸らした。
湊も何も言わず、蛇口を閉めた。
二人はそれぞれ準備をした。
紬は財布とエコバッグを確認し、湊はスマホと鍵をポケットへ入れる。紬の靴は端にきちんと揃えられていて、湊の靴は踵がわずかに外を向いていた。昨日までなら気にも留めなかったはずなのに、今日はなぜかそれが目につく。湊は黙ってしゃがみ、自分の靴を玄関の端へ揃え直した。
隣で、紬の動きが止まる気配がした。見られていたのだと思う。けれど湊は何も言わず、靴紐を結び直した。紬も何かを言うことはなく、ただ扉の前で立ち止まったまま、湊が立ち上がるのを待っていた。
先に出ればいいのに、そうしない。エコバッグを持った手を胸の前で軽く握り直し、紬は何でもない顔で扉を開ける。湊が隣へ並ぶと、ようやく玄関の外へ足を踏み出した。
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