第45話 兄と呼ばれた夜
ここまで読んでくださった皆様へ
体調の都合で、毎日更新ができなくなりました。必ず最後まで走りきりますので、一緒に見届けてください。
水を止めたあとも、湊はしばらく流しの前に立っていた。
食器は水切りかごに並んでいる。カップが二つ、皿が一枚。洗い終えたばかりの陶器にはまだ細かな水滴が残っていて、キッチンの灯りを受けるたび、小さく光を返していた。
部屋の空気はさっきと違っていた。いつもと同じ静けさのはずなのに、どこか落ち着かない。
「……お兄ちゃん、か」
口に出してから、自分で驚いた。
言葉にした瞬間、さっきの紬の声がもう一度頭をよぎった。あの時の声が、まだ少し残っている。
嬉しそうだった気もする。けれど、それだけじゃない気もした。何かを堪えるような、うまく言葉にできないものを飲み込んだような――そんな曖昧さが耳に残っている。
湊は濡れた手をタオルで拭きながら、視線をシンクへ落とした。
兄妹になって、もうすぐ一年になる。
名字が同じになって、同じ家で暮らすようになった。朝に顔を合わせて、夜に「おかえり」と「ただいま」を交わす。それでも、急に家族みたいに振る舞えるほど、簡単なものでもなかった。
紬は、最初から驚くほどきちんとしていた。
必要以上に踏み込んでこない。
壁を作っているという感じでもなかった。ただ、どこまで近づいていいのかを慎重に測っているような、そんな距離の取り方だった。
去年、親の再婚で兄妹になった。それまで他人だった相手と、急に同じ家で暮らすことになったのだから、ぎこちなさくらいあって当然だと思う。
朝になれば「おはようございます」と言って、夜になれば「おやすみなさい」と部屋へ戻る。夕飯を作って、湊が皿を洗う。必要なことは話すけれど、それ以上は踏み込みすぎない。
同じ家で暮らしていても、どこか一歩ぶんの距離だけは、ずっと残っていた。
その距離は、居心地が悪いわけじゃなかった。
むしろ、ちょうどよかったのだ。
無理に近づけば、壊れてしまうものだってあると思う。
だから、今くらいでいいと思っていた。
少なくとも――今日までは。
『……お兄ちゃん』
あの呼び方が、まだ耳の奥に残っている。
「……」
タオルを置こうとして、湊の手が少し止まる。
お兄ちゃん。
その呼び方は、自分のものだったわけではない。血の繋がった妹がいたこともなければ、誰かにそう呼ばれて育った記憶もない。去年、急に与えられた立場で、形だけはそこにあった言葉だ。
だから、紬がその言葉を使わなくても当然だった。
兄妹なんだから、敬称をつけないでいいと最初に言った。
むしろ、それでよかった。兄と呼ばせるほどのことを、自分がしているとは思っていなかった。料理を作ってもらい、たまに買い物をし、家にいる時は同じ空間で過ごす。そんな生活の積み重ねだけで、胸を張って兄だと言えるほど単純ではない。
それなのに、紬は呼んだ。こぼれたみたいに。
湊は冷蔵庫の前まで歩き、水を取り出そうとして扉を開けた。冷気が指先に触れ、頭の中の熱を少しだけ薄める。ペットボトルを取ってから扉を閉めると、冷蔵庫の低い動作音だけが部屋に残った。
キャップを開け、一口飲む。
喉を通る冷たさで、ようやく少し呼吸が整った。
嬉しい、で片づけるには落ち着かない。照れくさい、だけでも足りない。何かを貰ったような気がするのに、それが自分に相応しいものなのか分からない。そういう、置き場所のない感情が胸の奥で静かに残っていた。
湊はリビングへ戻り、テーブルの上を片づけた。
リボンの切れ端はない。包装紙も紬が持っていったらしく、テーブルには紅茶の薄い輪染みだけが残っている。布巾でそこを拭くと、何もなかったみたいに表面は元へ戻った。けれど、さっきまでここにエプロンが置かれていたことを、湊ははっきり覚えていた。
選ぶのに、少しだけ時間がかかった。
大げさなものは違う気がした。高すぎるものも、逆に紬を困らせる気がした。料理が好きだと本人が言ったわけではない。ただ、台所に立つ時の手つきや、皿を並べる時の丁寧さを見ていれば、嫌いでやっているわけではないことくらいは分かった。
だから、エプロンにした。
それが正解だったのかは、今でも分からない。
紬は泣いていた、と思う。
湊は布巾を畳み、テーブルの端へ置いた。泣かせるつもりなんてなかった。むしろ、少し困った顔で「ありがとうございます」と言われるくらいを想像していた。いつもの紬なら、きっとそうすると思っていた。
なのに、違った。
それだけ、見えていなかったのかもしれない。
紬がどれだけ気を張っていたのか。どれだけ遠慮していたのか。今日の涙だけで全部分かった気になるのは違う。けれど、少なくとも何もなかったわけではない。
湊はソファへ腰を下ろし、消音に近いテレビの画面を眺めた。
画面の中では、知らない芸人が笑っている。スタジオの照明は明るく、観客の声も賑やかなはずなのに、部屋の静けさの方が強かった。湊はリモコンを取り、テレビを消す。
紬の部屋は静かだった。泣いているのか、もう落ち着いたのかは分からない。喜んでくれていたなら、それでいい。
スマホを手に取る。画面を点けると、通知がいくつか並んでいた。バイト先、唯一の親友、どうでもいい広告。指先で流していくうちに、駅の時刻表アプリが目に入った。
一瞬だけ、ホームの明かりが頭をよぎった。
夜の駅。白線の内側。人の流れから少し外れた場所に立つ、あの少女の横顔。生きる理由という言葉を、軽くも重くもなく口にした声。今日のぶん、という不思議な言い方。
ミアのことを思い出したのは、たぶん偶然ではなかった。
誰かの中に、自分が思っているより深く何かを残してしまうことがある。反対に、自分の中にも、相手が気づかないまま残り続けることがある。ミアと過ごした時間も、紬が今日こぼした言葉も、形は違うのにどこかで繋がっている気がした。
湊はスマホの画面を消す。
ミアはミアで、紬は紬だ。重ねていい相手ではない。ただ、誰かに何かを渡すということが、自分で思っているよりずっと重い時がある。
それだけは、分かった気がした。
リビングの照明を少し落とす。
部屋の明るさが変わると、窓の外の夜が濃く見えた。向かいの建物にはいくつか明かりが点いていて、その一つ一つの中にも誰かの生活がある。夕飯を食べている家も、風呂に入っている家も、たぶん喧嘩している家もある。
この家も、その中の一つなのだと思った。
去年までは、そういう感覚が薄かった。
湊は立ち上がり、廊下へ出た。
洗面所へ向かう途中で、紬の部屋の前を通る。扉は閉まっていて、中から音はしない。灯りがついているかどうかは、廊下側からは分からなかった。
湊は足を止めかけて、すぐにやめた。
何か声をかけるには、まだ早い。
そう思ったのに、通り過ぎる直前で、視線だけが扉へ向いた。
「……おやすみ」
聞こえないくらいの声だった。
返事はない。
それでよかった。
お風呂に入り、顔の火照りを冷ますため、水で顔を洗う。水の冷たさが頬に残った。鏡の中の自分は、特に変わっていない。けれど、どこか落ち着かない顔をしている気もした。
お風呂から出たあと、リビングへ戻る。
テーブルの上は片づいている。ソファの横に紬のトートバッグが置かれたままだった。帰ってきてから、エプロンのことで頭がいっぱいになって忘れたのだろう。湊は少し迷ったが、そのままにしておいた。
部屋へ持っていくのはやめておく。
そう思ってリビングの照明を消しかけた時、廊下の奥でかすかな物音がした。扉が開く音ではない。たぶん、部屋の中で何かを動かした音だ。湊は振り返ったが、それ以上の音は続かなかった。
起きている。
そう分かっただけで、なぜか安心した。
湊は照明を落とし、リビングを出た。
自分の部屋へ向かう途中、紬の部屋の前をもう一度通る。
今度は足を止めなかった。
けれど、頭の中にはまだ、あの声が残っていた。
『ありがとう、お兄ちゃん』
湊は自分の部屋へ入り、扉を閉める。机の上には学校のプリントと、読みかけの本と、充電ケーブルがそのままになっていた。何も変わっていない自分の部屋に入ったはずなのに、家全体の空気だけが少し違って感じる。
ベッドへ腰を下ろし、スマホを机に置く。
明日になれば、いつも通りになるかもしれない。紬はまた少し距離を戻して、何事もなかったみたいに朝食を作るかもしれない。湊もたぶん、それに合わせていつも通りに振る舞う。
それでいい。
一度呼ばれたからといって、急に全部が変わるわけではない。むしろ、変わらない部分があるからこそ、少し変わったところに気づけるのかもしれない。
湊は部屋の明かりを消した。
暗くなった天井を見上げると、今日の出来事が静かに沈んでいく。エプロンを抱えていた紬の手。紅茶の湯気。水音に混じった誕生日おめでとう。返ってきた、震えた声。
その全部が、眠気に負ける手前で、もう一度胸の奥へ残った。
明日の朝、どんな顔をすればいいのかは分からない。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
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