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駅で出会った女の子と不思議な関係に。明日も死にたくなる彼女に、俺は毎日、生きる理由を渡すことになった。  作者: 逢華 (最後の挑戦)
新学期、更新のない日々 (家族編)

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第44話 お兄ちゃん

玄関の鍵が開く音がした。

昼間の明るさはまだ残っている。それでも窓の外の空はゆっくり色を落とし始めていて、向かいの建物の影も長く伸びている。


リビングでは、湊がソファへ浅く腰掛けたままスマホを見ていた。テレビはついているが、内容はほとんど頭に入っていない。画面の音だけが静かに流れている。


玄関の方で、靴を揃える音がした。


「ただいま」


リビングの入口へ姿を見せた紬は、嬉しかったことがあったような、機嫌が良さそうな顔をしていた。


「おかえり」

湊がスマホをテーブルへ置く。


「思ったよりたくさん歩きました」


言いながら、肩のバッグを持ち直す。館内を何度も歩き回ったことを思い出したのか、小さく息が漏れた。


「疲れた?」


「……うん」

そう答えてから、紬はほんのひと呼吸だけ置く。

「でも、楽しかったです」

その言い方がどこか新鮮で、紬が自分から“楽しかった”と口にすることは、決して多くない。


「そうか」

それ以上は聞かなかった。


紬はバッグをソファの横へ置き、中から小さな紙袋を取り出した。

「友達から、プレゼント貰いました」

はにかむように言う。


「ちゃんと祝われたんだな」


湊が何気なく言う。

紬は一瞬だけ動きを止めたあと、小さく頷いた。


「……はい」

その声は柔らかい。

今日一日を思い返しているのかもしれない。友達との会話。プレゼント。

紬は不意に、バッグの中へ視線を落とした。


白いケース。

朝持って出たイヤホンは、今もそのまま入っている。

――兄さんから。

羨ましい、と言われた。優しいお兄ちゃんだね、と笑われた。

――ちゃんとしてる人、かな。

あの時、自然に出た言葉だった。


「ご飯、どうする」


湊の声で意識が戻る。


「あ、食べてきました。友達が誕生日だからって、ご馳走してくれて……」

そこまで言って、困ったように眉を下げて笑う。


「正直、気を遣われすぎちゃったかもしれません」


「誕生日だしな」


「そうなんですけど」


家へ帰ってきて、靴を脱いだ瞬間に緊張が解けたことを、自分でもよく分かっていた。

湊は立ち上がり、キッチンへ向かう。


「じゃあ、何か飲む?」


「……紅茶、飲みます」


「分かった」


お湯を沸かす音がする。

電気ケトルの震える音が静かな部屋へ広がり、休日の終わりを告げるような空気が色濃くなっていく。

紬はソファへ座り、背もたれへ体重を預けた。家の中は静かだった。テレビの音も小さい。人の話し声もない。


数分後、テーブルへ湯気の立つカップが置かれた。


「ありがとうございます」


「どういたしまして」

湊も水を注ぎ、向かいへ座る。

しばらくは、特に会話もなかった。

紅茶の香りだけが静かに残る。

それでも、気まずさはない。


紬はカップを両手で持ちながら、息を吐いた。

今日一日を思い返す。友達と笑って、プレゼントを貰って、たくさん歩いて。十分すぎるくらい、ちゃんと誕生日だった。


ふと、イヤホンを思い出す。

自分も同じタイミングで、色違いを渡したこと。

あの時、一瞬だけ見せた湊の和らいだ顔。

紬はカップをテーブルへ戻し、躊躇いつつも口を開いた。


「いつもありがとうございます」


湊が顔を上げる。

「どうした、急に」


「その……」

言葉を探す。うまく説明できない。

ただ。

帰ってきた時に「おかえり」と言われたことが、思ったより胸に残っていた。

それに。

昨日から今日にかけて、自分の誕生日をちゃんと覚えていてくれたことも。


紬は視線を落としてから、小さく言い直す。

「……誕生日プレゼントありがとうございました。イヤホン、音質違いますね」


紬がそう言って立ち上がりかけた、その時だった。湊はテーブルの上に残ったカップへ伸ばしていた手を止め、視線を落としたあと、短く声をかける。


「ちょっと待って」


それだけ言って、湊はリビングを出ていった。廊下を歩く足音が自分の部屋の前で止まり、扉の開く音がする。紬は立ち上がりかけた姿勢のまま、何を待てばいいのか分からず、椅子の背へ指先を添えた。


間もなく戻ってきた湊の手には、細長い包みがあった。落ち着いた色の包装紙に、細いリボンがかかっている。大げさなものではないのに、それが自分へ向けられていると分かった瞬間、紬は目を瞬かせた。


「……なんですか、これ」


「誕生日プレゼント」


「だって、昨日……」


そこまで言いかけて、紬は言葉を止めた。昨日、イヤホンを貰ったばかりだった。白いケースに入ったそれは十分すぎるのに、まだ何かを受け取っていい理由が見つからない。


湊はその反応を見て、気恥ずかしさを隠すように視線を逸らした。包みをテーブルの上へ置き、指先でリボンの端を一度だけ直す。


「昨日のは、いつもご飯や家のことをしてくれてる感謝の気持ちみたいなもの」


「……」


「これは別。誕生日プレゼント」


その言い方があまりにも自然だった。特別なことをしているつもりはないみたいに、ただ当然のこととして置かれた言葉だった。


紬は返事を探したけれど、喉の奥で何かが詰まって、うまく声にならなかった。


胸の奥が、ゆっくり締めつけられていく。苦しいわけではない。けれど、呼吸の仕方を忘れてしまう。しばらく包みを見つめてから、紬はようやく小さく口を開いた。


「……開けてもいいですか」


「うん」


リボンをほどく指先が、思ったより慎重になる。包装紙を破らないように端から開いていくと、中から淡い色のエプロンが現れた。派手ではないけれど、生地はやわらかそうで、胸元には小さな刺繍が入っている。


紬はそれを広げることも忘れて、指先でそっと布に触れた。どうしてこれを選んだのだろう、と考える前に、胸の奥が強く揺れる。料理が好きなこと。台所に立つ時間が多いこと。きっと、自分では当たり前みたいに済ませていたものを、湊はちゃんと見ていた。

言葉が出なかった。


湊は数秒だけ視線を泳がせた。何か言おうとして、結局やめる。代わりにテーブルの上のカップを手に取り、いつもより低めのトーンで言った。


「……洗い物、やるから」


そのままキッチンへ向かい、蛇口をひねる。水の流れる音が、静かなリビングへ広がった。紬はエプロンを抱えたまま、湊を見ていた。

湊はスポンジへ洗剤をつける。泡が立つ音に混じって、間が空いたあと、不意に名前を呼ばれた。


「紬」


「……はい」


「誕生日、おめでとう」


水音に溶けそうなくらい静かな声だった。それでも、ちゃんと届いた。紬の喉が小さく震える。何か返さなきゃいけないのに、言葉が胸の奥でほどけてしまって、形にならない。

しばらくして、やっと絞り出すように口を開く。


「……ありがとう」


そこまで言って、息が止まった。視線が揺れる。抱えていたエプロンの布が、指先でかすかに寄る。そして、ほとんど無意識みたいに、続きが零れた。


「……ありがとう、お兄ちゃん」


言った瞬間、紬の肩が揺れた。自分の声なのに、自分が一番驚いていた。キッチンに立つ湊の手も止まる。蛇口から流れる水だけが、その数秒を埋めた。

肌に触れる空気が変わった気がした。長い沈黙ではなかったはずなのに、紬にはやけに長く感じた。


「……こちらこそ、いつもありがとうな」


一拍置いて返ってきた声は、それだけだった。でも、いつもよりやわらかかった。その一言を聞いた瞬間、紬はもうそこにいられなくなった。


「……部屋に置いてきます」


それだけ言って、紬はエプロンを抱えたままリビングを出た。逃げるみたいになったことは分かっていた。それでも、今ここで湊の顔を見たら、何かが全部こぼれてしまいそうだった。


自分の部屋へ戻り、扉を閉める。エプロンを抱えたままベッドへ座り込むと、心臓の音がやけに大きく聞こえた。落ち着かない。嬉しい。でも、それだけではない。胸の奥が熱くて、息を吸うたびに少し痛い。

机の上には、昨日もらった白いイヤホンが置かれていた。紬はゆっくりケースを開く。小さなランプが静かに光り、その白い光が指先を照らす。


その光を見た瞬間、不意に視界が滲んだ。

ぽたり、と雫が膝へ落ちる。


紬は慌てて目元を押さえた。泣くつもりなんてなかった。嬉しいだけなら、笑えばよかった。ありがとうと言えたなら、それで十分だったはずなのに、胸の奥に溜まっていたものは、思っていたよりずっと多かった。


エプロンを抱きしめる。やわらかい布の感触が腕の中にあって、イヤホンの小さな光が机の上で静かに揺れている。昨日と今日で貰ったものが、どちらも自分のために選ばれたものだと分かってしまう。

それが、どうしようもなく嬉しかった。


「……お兄ちゃん」


もう一度、声に出してみる。今度は誰にも聞こえないくらい小さく。気恥ずかしさが勝り、落ち着かなくて、胸の奥が熱くなる。


それでも、嫌ではなかった。


紬は濡れた目元を拭い、エプロンを膝の上へ丁寧に広げた。明日から使うのは、もったいない気がした。けれど、使わないまましまっておく方が、きっと違う。

大事に使おう。


そう思った瞬間、再び視界が潤んだ。今度は慌てて拭わずに、紬は小さく息を吐いた。部屋の外では、水の止まる音がして、食器を水切りへ置く音が静かに続いていた。


ここまで読んでいただきありがとうございます。


少しでも続きが気になると思っていただけたら、ブックマークや評価をしていただけると励みになります。


感想も一言でも大歓迎です。全部読んで、次に活かしています。

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