第43話 土曜日の約束
土曜日の駅前は、平日より歩く速さが少しだけ緩かった。
紬はスマホの画面を確認した。
待ち合わせの十五分前。早すぎるほどではないけれど、遅れるよりは落ち着く。トートバッグの持ち手を持ち直しながら、改札横の柱へ軽く寄る。
ロック画面には、昨夜の通知履歴がまだ残っていた。
――誕生日おめでとう。
零時を回った瞬間、言われた言葉。特別な空気だったわけではない。ただ、いつものリビングで、いつもの声で言われた。それなのに、昨日からずっと胸の奥へ残っている。
「紬ー!」
名前を呼ばれて顔を上げる。
人混みの向こうから手を振りながら近づいてくるのは結菜だった。肩につくくらいの髪を軽く揺らしながら、小走りでこちらへ向かってくる。明るい色のパーカーに細めのデニム。制服の時よりずっと表情が動いて見えた。
その少し後ろを、美咲がゆっくり歩いてくる。肩までの髪を外側へ流し、落ち着いた色のカーディガンを羽織っている。
二人とも私服姿で、学校とは違う雰囲気だった。
「待った?」
「ううん。今来たところ」
そう返すと、結菜がじっと顔を見る。
「絶対ちょっと待ってたでしょ」
「……少しだけ」
正直に認めると、結菜がすぐ笑う。
三人揃ってショッピングモールへ向かう。休日の館内は思ったより人が多く、吹き抜けの上から流れる音楽と店内放送が緩やかに混ざっていた。エスカレーターの駆動音が一定のリズムで空気の下を流れ、館内全体に落ち着いたざわめきが広がっている。
「今日は主役だからね」
歩きながら結菜が当然みたいに言った。
「ちゃんと祝われてください」
「そんな大げさな……」
「誕生日なんだから大げさでいいの」
横から美咲まで頷く。
紬は少し困ったように息を漏らした。誕生日自体が嫌なわけではない。ただ、自分が中心になる空気には今でも少し慣れない。
午前中は服屋を見て、雑貨屋を回った。結菜が何度も服を合わせては「これどう?」と聞き、美咲が冷静に意見を返す。そのやり取りを見ながら、紬は何度か笑った。
気づけば昼を過ぎ、少し遅めの昼食を取ったあと、三人は館内のカフェへ入った。
窓際の席だった。買った袋を椅子の横へ置き、ドリンクが運ばれてくる。休日の店内は少し騒がしい。それでも、誰かの笑い声や食器の触れ合う音が混ざり合う空気は、不思議と落ち着いた。
「そういえばさ」
結菜がストローをくわえながら言う。
「誕生日プレゼント、もう貰った?」
「……家族から」
結菜がすぐ身を乗り出す。
「え、何?」
「アクセ? コスメ?」
「いや……そんな感じじゃなくて」
言いながら、紬は曖昧に視線を落とした。トートバッグの口元へ手を伸ばしかけた、その時だった。
「……あれ?」
向かい側に座っていた美咲が、不意に声を上げる。
バッグの中にある白いケースの端が見えたらしく
「そのイヤホン、新しくない?」
言われて、紬の動きが少し止まる。
「あ……うん」
「え、それ最新のやつじゃん!」
結菜まで身を乗り出した。
「これ結構高いやつだったよね?」
その言葉で、不意にあの日の売り場が頭へ浮かぶ。
家電量販店の白い照明。整然と並んだケース。値札。そして、少し離れた場所でイヤホンを見ていた湊。
――俺にはここまでの性能いらないかなって。
そう言っていたのに。
昨日、渡された箱を開けた瞬間、言葉が止まった。
黒と白。
まさか同じものだったなんて、思わなかった。
紬はケースへ指先を添えながら、小さく答える。
「……誕生日プレゼント」
「えっ、誰から?」
少しだけ間が空く。
紬は視線を落としたまま言った。
「……兄さん」
数秒、空気が止まる。
結菜と美咲が顔を見合わせる。
「あ、前言ってたお兄さん?」
紬は小さく頷く。
「え、一個上だよね?」
「うん」
「羨ましすぎるんだけど」
結菜が大げさなくらい驚く。
「誕生日にこれ!?」
「いいなー」
「優しいんだ?」
聞かれて、紬は少しだけ考えた。
優しい。
そう言ってしまうのは少し違う気がした。
言葉が多いわけじゃない。何でも聞いてくるわけでもない。でも、見ている。覚えている。必要以上に踏み込まないのに、気づくとちゃんと残っている。
昨日だって、零時を回った瞬間、自然に「誕生日おめでとう」と言ってくれた。
今朝も。
――楽しんできな。
たったそれだけだったのに、なぜかずっと残っている。
紬はケースを指先で軽く撫でる。
「……ちゃんとしてる人、かな」
「え?」
「なんていうか……ちゃんと見てるというか」
言ってから少しだけ恥ずかしくなる。自分から家の話をするつもりはなかった。それでも、否定したい気持ちにはならなかった。
結菜がふっと笑う。
「めっちゃいいお兄ちゃんじゃん」
「紬、大事にされてる感ある」
「羨ましいー」
紬はすぐには返事をしなかった。
ケースへ視線を落とす。白い表面へ窓際の光が静かに映っている。嬉しい気持ちは確かにある。でも、それだけではなかった。まだ少し落ち着かなくて、でも嫌じゃなくて、自分の中でもうまく整理できない。
その時だった。
「はい、主役」
結菜が小さな紙袋をテーブルへ置く。
「誕生日おめでとう」
続いて、美咲も笑いながら袋を差し出した。
「紬、おめでと」
紬は目を瞬かせる。
「……え」
「その反応、ちょっと傷つくんだけど」
「祝うに決まってるじゃん」
「今日、誕生日でしょ?」
慌てて両手で受け取る。思っていたより少し重かった。
「……ありがとうございます」
「今日は主役だから遠慮禁止」
「あとケーキも食べるから」
「え、そこまで……」
「誕生日だよ?」
そう言われて、紬は少しだけ笑った。
去年とは違う。
家でも祝われて、外でも祝われて。
そんな誕生日が自分に来るなんて、少し前までは思っていなかった。
だからなのか。
ふと、帰った時の家を思い浮かべる。
別に何かあるとは思っていない。もう十分すぎるくらいだった。
それでも、なぜか少しだけ。
今日は早く帰ってもいいかもしれない、と、そんなことを思ってしまった。




