第41話 湊の誕生日
玄関を開けた瞬間、揚げ物の匂いがした。
油の熱がまだ空気に残っていて、そこへコンソメスープの湯気と、火を通した玉ねぎの甘い匂いが混ざっている。いつもの家の匂いではあるのに、今日はどこか手がかかっているのが分かった。
「ただいま」
声をかけると、キッチンの方から紬が顔を出した。エプロン姿のまま、手には布巾を持っている。
「おかえりなさい」
いつも通りの声だ。
湊はそのまま洗面所へ向かう。
水を流している間も、リビングから皿の触れ合う音が聞こえた。何かを並べ直しているような、小さな音。普段から几帳面な紬なら珍しくもない。
手を拭いて戻る。
リビングへ入った瞬間、足が少し止まった。
テーブルの上には、普段より皿が多かった。
唐揚げ、エビフライ、ポテトサラダにコンソメスープ。いつもの夕飯より確実に手がかかっていることは、見ただけで分かる。
唐揚げからはまだ熱が残っていて、エビフライの横にはレモンまで添えてあった。
「……すごいな」
自然に漏れた声に、紬はスープ皿を置きながら答える。
「今日くらいは」
誕生日だから――とは言わない。でも、わざわざ言葉にしなくても伝わる返しだった。
二人で席につく。
「いただきます」
声が重なり、湊は最初に唐揚げへ箸を伸ばした。
噛んだ瞬間、衣の香ばしさのあとから、にんにくと醤油の味が広がる。中はちゃんと熱く、噛むたびに肉汁が残った。
「……これ、美味しい」
自然に口から出た。紬はスープへ口をつけてから、
「味、大丈夫ですか」
「うん。かなり好きな味」
そう返すと、紬は唐揚げの皿へ一度視線を向けた。
「ならよかったです」
それ以上は言わない。
ただ、湊が次の唐揚げへ箸を伸ばしたのを見て、紬は何も言わないままエビフライの皿を少しだけこちらへ寄せる。
そこでようやく気づく。並んでいるものが、気づけば自分の好きなものばかりだった。
「あー……これ、俺の好きなやつばっかだ」
言うと、紬は水を飲んでから、
「誕生日なので」
去年の誕生日を思い出す。
同じケーキを囲んでいたはずなのに、今ほど自然ではなかった。まだ家族になって間もなくて、互いにどこまで踏み込んでいいのか分からない頃だ。
『ありがとうございます』
去年、紬はそんな言い方をしていた気がする。
当たり前みたいに「兄さん」と呼ぶ感じではなかった。
残りの夕飯へ箸を伸ばした。今日の唐揚げは、たぶん今までで一番美味しい。味だけじゃない。自分のために作られたものだと分かって食べる夕飯は、思っていたよりずっと温かかった。
食事が終わる頃には、テーブルの上もだいぶ片付いていた。
唐揚げの皿はほとんど空で、エビフライの横にはレモンの皮だけが残っている。コンソメスープも湯気を落ち着かせていて、揚げ物の熱が満ちていた部屋は、いつもの夜の温度へ戻り始めていた。
紬は空いた皿を重ね、流しへ運ぶ。
水が流れる音。皿同士が触れる音。その途中で、一度だけ冷蔵庫へ視線が向いた。
湊はコップを持ちながら、その姿を見る。
今日の紬はいつも通りに見えて、でも、どこか落ち着かない。
テーブルを何度も整えたり、皿の位置を直したり。本人は隠しているつもりなのかもしれないけれど、見ていれば分かるくらいには、気にしている。
手を拭いた紬が席へ戻る。それから、テーブルの端へ目を落とし、冷蔵庫の方を見る。
「……食べ終わったなら、ケーキ食べますか」
湊が立ち上がり、冷蔵庫を開ける。
見慣れたロゴの白い箱が置かれていた。
誕生日になると毎年見る箱。小さい頃から変わらない、父親が予約している店のケーキだ。冷蔵庫の灯りに照らされるだけで、味まで思い出せそうなくらいには見慣れている。
「お父さんから連絡来てました」
後ろから紬の声がする。
「今日、受け取ってきてって」
「ありがとうな」
湊は箱を持ち上げてテーブルへ戻ると、紬が引き出しから皿を出している。
フォークを並べ、ナイフを置く。手順はいつも通りなのに、箱へ触れる時だけ動きが少し慎重だった。
「去年も食べたな」
箱を見ながら言う。でも、去年の夜は今より静かだった気がする。
家族になって間もない頃で、何を話せばいいのか俺は分からなかった。ケーキを囲んでいたはずなのに、会話より食器の音ばかり残っている。
紬が箱を開ける。
白いクリーム。
苺。
真ん中には、小さなチョコプレート。
『みなと お誕生日おめでとう』
視線がそこで止まる。
「……名前、入ってる」
紬は箱を押さえながら「店員さんに聞かれたので」
プレートの位置を見ながらナイフを持つ。
文字が割れない場所を探るみたいに、角度を何度か変えている。
「そんな難しい?」
湊が聞くと、紬はケーキから目を離さない。
「割れたら嫌なので」
刃先を止めてから、続ける。
「せっかくですし」
真剣だった。
そこまで気にするんだな、と思う。
去年なら、たぶん見えていなかった。
ケーキを受け取って、夕飯を作って、崩れないように持ち帰って、ここまで準備していたことも。
「……色々、ありがとな」
言うと、紬の手が止まる。でも顔は上げない。
プレートを避ける位置をもう一度見て
「誕生日ですから」
ナイフを入れたケーキが切り分けられる。
プレートを避けたせいで、大きさは少し不揃いだった。それでも文字は崩れていない。『みなと お誕生日おめでとう』のチョコプレートも、読める形のまま端へ残されている。
紬は皿を湊の前へ置いてから、自分の分を引き寄せた。
「崩れなくてよかったです」
言いながら、フォークを並べる。声はいつも通りだったが、ケーキへ向いていた視線だけは、皿へ移してからもしばらく戻っていた。文字が欠けていないか、最後にもう一度確かめているようだった。
「いただきます」
湊が口にすると、紬も同じタイミングでフォークを持つ。
スポンジは軽く、甘さは控えめだった。子どもの頃から何度も食べている味なのに、今日に限っては残り方が違う。夕飯のあとだからなのか、それとも時間のせいなのか、クリームの甘さがいつもより長く舌に残った。
「……美味しい」
言うと、紬は紅茶へ手を伸ばしながらケーキを見る。
「ならよかったです」
受け取ってきた箱も、夕飯が終わるまで冷蔵庫へ入れていたことも、プレートを割らない切り方まで考えていたことも、今日の流れ全部がそこへ入っている気がした。
食べ終わる頃には、紅茶の湯気も落ち着いていた。
切り分けたケーキ皿と、使い終えたフォークがテーブルへ残っている。テレビはつけていない。換気扇の低い音と、ときどき外を走る車の音だけが、夜の隙間を埋めていた。
紬はカップを重ねて立ち上がる。
「洗い物、やってきます」
そう言ってキッチンへ向かい、水を流し始める。皿同士が触れる音が続き、止まり、また動く。普段ならもっと迷いなく終わるはずなのに、今日は途中で何度か間が空いた。布巾の位置を直し、流し台の端を拭いてから、また皿へ手を戻している。
湊は椅子へ背を預けたまま、その音を聞いていた。
ケーキの甘さがまだ舌に残っている。夕飯の熱も、紅茶の温度も混ざったまま、部屋だけがゆっくり夜へ寄っていく時間だった。
「……みなと」
水の音が止んだあと、呼ばれる。
振り返ると、紬がキッチンの入口に立っていた。エプロン姿のまま、両手で小さな紙袋を持っている。持ち手の折れ目を指先で整えてから、テーブルの近くまで来て、そのまま湊の前へ置いた。
「あとで渡そうと思ってたんですけど」
声はいつも通りだった。ただ、紙袋を置く動きだけが妙に慎重で、テーブルへ触れた音まで小さかった。
「誕生日なので」
派手な包装はない。
ショッピングモールのロゴが入った、ごく普通の紙袋だった。
数日前、三人で歩いた吹き抜けの音が頭へ戻る。白い照明。イヤホン売り場。並んだケース。紬が値札を見て、何も言わず棚へ戻したあの手元まで、変に鮮明だった。
「開けてもいい?」
聞くと、紬は席へ戻りながら頷く。
「……はい」
短い返事のあと、カップへ視線が落ちる。けれど、指先だけがカップの縁をなぞっていた。
湊は紙袋へ手を入れる。
箱を見た瞬間、動きが止まった。
黒いケースのワイヤレスイヤホン。
あの日、売り場で足を止めたものだった。
「……これ」
声が途中で止まる。
紬は紅茶へ口をつけてから、カップを置く。
「あのとき。見てたので」
言葉はそれだけだった。
箱へ落ちた視線の先で、あの日の売り場が浮かぶ。
値札を見ていた時間も、立ち止まった場所も、思ったより見られていたらしい。
湊は箱を見直す。
それから、指先で箱の角を軽くなぞった。
「……ありがとう」
自然に出た声だった。
紬は「いえ」とだけ返して、視線をテーブルへ落とす。けれど、肩の力は夕飯の時より抜けて見えた。
数秒の沈黙が落ちる。
換気扇の音だけが低く回る中、湊は箱を持ったまま立ち上がった。
「あー……」
言いながら、自分の鞄へ手を伸ばす。
湊は黒い箱を見たまま、指先で角をなぞる。
数秒遅れて立ち上がり、鞄へ手を伸ばした。
「……実は」
引っ張り出した箱をテーブルへ置く。
「俺も買ってたんだ」
湊が取り出した箱をテーブルへ置いた瞬間、紬の動きが止まった。
白い箱だった。見慣れたメーカーのロゴと、さっき自分が渡したものと同じ商品名。違うのは色だけで、黒と白の箱がケーキ皿の横へ並ぶと、最初からそこへ置かれる予定だったみたいに収まりがよかった。
紬はすぐに何か言わなかった。箱を見る。湊を見る。また箱へ視線を戻す。その動きだけで、頭の中で何が繋がったのか分かる気がした。数日前のショッピングモール。イヤホン売り場。白いケースを手に取って、値札を見て、何も言わず棚へ戻した時間。
「……同じですね」
ようやく落ちた声は、いつも通り落ち着いていた。けれど、白い箱へ触れた指先はすぐには離れない。包装の角を確かめるようになぞって、それからテーブルの上で止まった。
「まさか、同じの選ぶとは思わなかった」
湊はそう言って、黒い箱を自分の方へ少し寄せる。言葉にすると軽くなる気がして、それ以上は続けなかった。自分が黒を見ていたことを紬が覚えていて、紬が白を手に取っていたことを自分も覚えていた。ただそれだけなのに、テーブルの上には変な重さが残っている。
紬は白い箱を見たまま、カップへ手を伸ばしかけてやめた。紅茶はもう冷め始めていて、湯気もほとんど見えない。換気扇の低い音と、外を通る車の音だけが、夜の部屋に残っていた。
「湊も、見てたんですね」
責めるような声ではなかった。むしろ、自分で言ってから確かめるみたいな響きだった。
「まあ、見てた」
湊は黒い箱の角を指で押さえる。白いケースを持ち上げた時の紬の手元は、思ったよりはっきり覚えていた。戻す時だけ指が離れにくそうだったことも、別の棚を見ているふりをしていたことも。
「白、紬っぽいと思ったから」
キッチンのマグカップや、スマホケースや、部屋から時々見える小物。そういうものが、自然とそこへ繋がっていた。
紬は返事をしなかった。代わりに、白い箱を両手で持ち上げる。軽いはずの箱を、落とさないように扱うみたいにゆっくりと膝の上へ置いた。
「……ありがとうございます」
湊も頷く。大げさに返すと、たぶんこの空気は崩れる。そう思って、黒い箱を開けずにそのまま置いた。二人の間に、同じ形の箱が色違いで並んでいる。
紬はしばらくして、黒い箱へ視線を向けた。
「黒を選んでよかったです」
「そう?」
真面目な顔で言うから、湊は少し笑った。確かに否定はできない。制服の上着も、バイト用のパーカーも、スマホケースも、気づけば暗い色ばかりだ。
「じゃあ、白も正解だな」
湊が言うと、紬の手が止まった。白い箱を抱えたまま、視線だけがこちらへ向く。何か言い返しそうで、結局何も言わない。その代わり、箱の角をもう一度だけ指で整えた。




