第38話 『見た?』のあと
昼休み前、最後の授業が終わる頃には、教室の空気はもう半分ほど休み時間へ向かっていた。
チャイムが鳴る前から、机の中を整理する音があちこちで聞こえ始める。購買へ行く約束、小さな笑い声、昼をどこで食べるか相談する声。窓際から入り込む春の風が、まだ冷たさを残したまま教室の熱を緩く動かしていた。
終業のチャイムが鳴る。
同時に空気がほどけ、椅子を引く音や弁当箱の蓋を開ける音が重なり始める。購買へ向かう集団が慌ただしく教室を出ていき、その流れを横目に、白石湊は返された答案用紙へ視線を落とした。
赤字で書かれた数字は、九十四点。答案を問題集へ挟む。
「白石、相変わらず安定してるな」
教壇横でプリントをまとめていた教師が、答案へ目を向けながら言った。
「春休み明けって、結構落ちるやつ多いんだけどな」
「たまたまです」
短く返すと、教師は「またまた」と笑う。それ以上は言わず、次の生徒へ声をかけ始めた。
周りが昼の準備を始める中、湊も鞄へ手を伸ばしかけて、ふと参考書の存在を思い出す。
昨日返すつもりだったものだ。期限は今日まで。このままだと延滞になる。
弁当より先に返すか、と考え、参考書だけ持って席を立った。
昼休みの廊下は騒がしかった。
購買へ向かう足音、教室から漏れる笑い声、遠くで誰かの名前を呼ぶ声。移動教室でもないのに、人の流れだけは妙に忙しい。
けれど、図書室がある棟へ近づくにつれて、その騒がしさは遠くなっていく。さっきまで近くにあった声が、いつの間にか背中側へ流れていた。
扉の前まで来たところで、足が止まる。
開ききっていない扉の向こうから、声が聞こえた。
男子の声だった。落ち着こうとしているのに、わずかに緊張が滲んでいる。
「……好きです」
静かな場所だったせいか、その言葉だけが妙に輪郭を持って耳へ残る。
湊は扉へ伸ばしかけた手を止め、そのまま参考書を持ち直した。
今入るのは違う。
それだけは分かった。
「……ありがとう」
続いて聞こえた声に、意識が止まる。
少し困ったような、それでいて柔らかい声だった。聞き覚えがある。
彩音だった。
扉の前へ立ったまま、動けなくなる。覗くつもりはない。けれど、この空気へ入るのも違う気がした。
仕方なく、その場で待つ。
廊下で時々見かける顔だった。誰かと笑っていて、自然と人の中心にいるタイプ。サッカー部だった気がする。
だから、意外だった。
ああいうタイプでも、こういう顔をするんだなと思う。
廊下ですれ違うたび、彩音は誰かに名前を呼ばれている。昼休みになれば、気づけば周りに人がいた。
だから、図書室の向こうで交わされている言葉にも驚きはなかった。
少し間が空く。
それから、彩音の声が静かに続いた。
「ごめんね」
柔らかい声だった。突き放す感じではない。
「すごく嬉しいんだけど……今は、そういう気持ちじゃないかな」
少し沈黙が落ちる。
「気持ち伝えてくれてありがとう」
小さく息を吐く音がした。
「……やっぱ無理かー」
苦笑い混じりの声だった。
「ごめん」
「いや、全然。言えてよかった」
無理に明るくしている感じはある。それでも、後味の悪い終わり方ではなかった。
しばらくして、足音が近づいてくる。
扉が開き、出てきた男子生徒が一瞬だけ湊を見る。
「あ」
そんな顔をしたものの、結局何も言わなかった。気まずそうに視線を逸らし、そのまま廊下を歩いていく。
あとに残ったのは、閉まりきらない図書室の扉と、昼休みのざわめきから少し外れた静けさだった。
少し遅れて、図書室の扉が開く。
出てきた彩音は、いつもの柔らかい雰囲気のままだった。けれど、ふと上がった視線が湊とぶつかった瞬間、前髪へ触れていた指先が止まる。
目が、わずかに泳ぐ。
気づかれた、と思ったのかもしれない。
ほんの一瞬だけ窓の方へ逃げかけた視線が、結局また戻ってきて――彩音は少し困ったように笑った。
「……見た?」
誤魔化すみたいに笑う。けれど、前髪へ触れる指先は落ち着かない。
すぐには返事をせず、湊は彩音を見る。
「なんか、すごいタイミングなんだけど」
困ったように笑ってから、前髪へ指先を触れた。
「……まあ、聞こえるよね。あれ」
聞こうと思って聞いたわけじゃない。ただ、タイミングが悪かった。それだけだ。あの場面で扉を開ける勇気は、さすがになかった。
「……入れなかった?」
「今開けるのは違うかなって」
正直に言うと、彩音が一瞬だけ目を丸くする。それから堪えきれなかったみたいに肩を揺らした。
「ちゃんとしてるねぇ」
「そういうもんだろ」
「いや、普通に開ける人もいるよ?」
「それは気まずい」
即答だった。
さすがに、あの空気へ入っていく勇気はない。
すると彩音が、「たしかに」と笑う。そこで、張っていた空気がようやく緩んだ。
「ごめんね。図書室使うよね」
「返すだけだから別に」
参考書を軽く持ち上げると、彩音が「あ」と声を漏らした。
「延滞?」
「今日まで」
彩音は図書室へ視線を向ける。けれど入る気にはならなかったのか、そのまま窓際へ寄った。
吹き抜けた風に髪が揺れる。制服の袖がかすかに動き、視線が窓の向こうへ流れていった。
窓の外では木が揺れている。春なのに、風はまだ冷たかった。
そんな空気の中で、彩音が窓の外を見たまま呟いた。
「……ちょっと、逃げたい気分」
独り言みたいな声だった。
「逃げる?」
聞き返すと、彩音が苦笑しながら肩を竦める。
「うん。今教室戻ったら、多分すぐ聞かれるし」
“どうだった?”とか、“また?”とか。そこまでは言わなかったけれど、意味は何となく分かった。
「大変だな」
口にすると、彩音が息を漏らして笑う。
「ほんとだよー」
そう言いながらも、嫌そうな顔ではない。
そのあと、少しだけ言葉が途切れる。
ふと、彩音がこちらを見る。視線が一度だけ湊の顔で止まり、それから小さく笑った。
「……さっき見られちゃったから聞くけど」
前髪を整えながら、探るような声で続ける。
「湊くんも、告白されたりする?」
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