第37話 甘さの残る帰り道
クレープを食べ終わる頃には、上階のガラスには外の景色よりも店の明かりが映るようになっていて、昼と夜の境目みたいな色が空間へ薄く広がっている。
人の流れは変わらないはずなのに、時間が動いただけで、同じ場所が少し違って見えた。
「なんか、気づいたら結構長居してましたね」
紬が包み紙を丁寧に折りながら言う。
テーブルには空になったカップと紙ナプキンだけが残っていた。さっきまで漂っていた甘い匂いも、周囲のざわめきへ混ざって、もうほとんど輪郭を失っている。
「たしかに」
彩音も笑いながら立ち上がった。
「こういうの久しぶりかも。目的なく歩く感じ」
「あ、それ分かります」紬がすぐに頷く。
「気になったお店入って、なんとなく見て、疲れたら休んで……って、意外と楽しいですよね」
「ね。予定決めてない方が、逆に気楽だったりするし」
二人の会話を聞きながら、湊も椅子から腰を上げる。
何となく吹き抜けの下へ視線が向いた。
エスカレーターを上がっていく人影。買い物袋を提げた家族連れ。制服姿の高校生たちが笑いながら通り過ぎていく。
さっき一瞬だけ視界を掠めた白い服の姿は、もうどこにもない。
――当たり前だろ。
自分に言い聞かせるように思ったあとで、逆に何を探していたのかを意識してしまう。
無意識だったはずなのに、気づいた瞬間だけ妙に誤魔化せなかった。
「湊くん?」
不意に呼ばれて顔を上げる。
彩音が少しだけ首を傾けていた。
「疲れた?」
「いや、別に」
反射みたいに返す。
彩音は数秒だけこちらを見ていたけれど、それ以上は何も聞かずに「ならよかった」と笑った。気づいていないわけじゃない。それでも、そこへ無理に触れてこない。
三人はトレーを片付け、そのままショッピングモールの出口へ向かう。
雑貨屋の前を通り過ぎたとき、紬が「あ」と足を止める。
「洗剤買うの忘れてました」
「ほんとに困るやつだね」
彩音が笑う。
「いや、切実なんですよ。ないと困るので」
そう言いながら、紬は迷いなく近くのドラッグストアへ入る。彩音も自然にその隣へ並び、湊は半歩遅れて後ろを歩いた。
店の中へ入ると、さっきまでの賑わいが少し遠くなる。
均一な白い照明の下、棚には洗剤や柔軟剤、ティッシュにシャンプーが整然と並んでいた。静かに流れる店内BGMのせいか、モールのざわめきとは別の場所みたいに、ここだけ少し落ち着いて見える。
紬は迷う様子もなく棚へ向かい、慣れた手つきで洗剤を手に取った。
「これでいいかな……」
その横で彩音が感心したように声を漏らした。
「紬ちゃん、しっかりしてるね」
「放っておくと湊が困るので」
「俺基準なのか」
「実際困るじゃん」
間髪入れず返ってきた言葉に、彩音が微笑む。
「なんか、いいね」
「何がですか?」
「そういうの。ちゃんと家族って感じする」
その言葉に、紬の動きがほんの少しだけ止まった。
洗剤を持つ指先に、わずかな間ができる。
けれど次の瞬間には、「そうですかね」といつもの調子で笑って、棚へ視線を戻した。
湊は何も言わない。
最初から、こうだったわけじゃなく、去年から急に始まった暮らしだった。
同じ家にいても、食事のタイミングも、距離感も、何をどこまで話すかも、最初はどこか噛み合っていなかった。
ただ、気づけば紬は当たり前みたいに家のものを気にするようになっていて、湊もそれを自然に受け取っている。
そういう時間を重ねた結果が、今なのかもしれなかった。
「よし、買えました」
紬が袋を軽く持ち上げる。
「これで安心ですね」
彩音が笑う。
紬もつられるように笑って、三人はショッピングモールから出た。
自動ドアが開いた瞬間、館内に溜まっていた暖かさが背中から抜けていき、代わりに少し冷えた風が頬を撫でる。さっきまで人混みの熱の中にいたせいか、その温度差が思ったよりはっきりしていて、湊は無意識に肩を竦めた。
「ちょっと寒いですね」
紬が袋を持ち直しながら肩を竦める。制服の袖が小さく揺れる。家ではしっかりして見えるのに、こういう瞬間だけ年相応に見えた。
「春って感じだねぇ」
彩音が前髪を指先で押さえながら空を見上げる。
「昼あったかいのに、夜だけ急に冷えるやつ」
「ですねー」紬も笑った。
「服、毎年ちょっと困ります」
二人のやり取りを聞きながら、湊も何となく見上げると、夜になりきる前の空だった。
道路脇の街灯、ファストフード店の灯り、ガラス越しに見える店内の白い照明。車が通り過ぎるたび、ヘッドライトがアスファルトを滑るように流れていく。
「思ったより歩きましたね」
紬が袋を揺らしながら、小さく息を吐く。
「モール広いからねぇ、途中からどこ通ったか分かんなくなってたもん」
二人の会話は途切れない。
無理に盛り上げている感じでもなく、歩く速さに合わせて自然と言葉が落ちていく。
駅前が近づくにつれて、人の流れも少しずつ同じ方向へ集まり始める。
話し声も足音もあるのに、不思議と騒がしくは感じない。急いでいる人は多いはずなのに、みんなもう“帰る側”の顔をしていた。
信号が青へ変わる。
人の列が一斉に動き出し、湊たちも流れに合わせて横断歩道を渡る。見慣れているはずの景色なのに、駅が近づくだけで意識よりも先に、記憶の方が動いてしまう。
バイト帰りの夜、ホームへ上がった瞬間の静けさ。人の流れから少し外れた場所、白線の近くへ立つ細い背中。世界の音から半歩だけ離れたところにいるみたいな横顔。
――『今日のぶん、ください』
思い出そうとしたわけじゃない。
ただ、駅が近づくだけで勝手に浮かび上がってくる。
「湊くん?」
横から落ちてきた声に、湊は顔を上げた。
少し前を歩いていた彩音が、こちらを振り返っている。
「今日、なんかぼーっとしてるね」
「そうかな?」
気づけば、いつの間にか隣へ並ぶくらいの距離になっていた。少し先では、紬がもうICカードを手にしている
「早くしないと電車来ますよ」
「はーい」
彩音が肩を竦めながら、その後を追った。
改札を抜けた瞬間、構内へ電車の到着を知らせるアナウンスが響いた。
その音に重なるように風が吹き抜け、春の夜の冷たさが制服の袖を揺らしていく。
前を歩く紬と彩音の背中を見ながら、湊はゆっくり息を吐いた。
クレープの甘さは、もうほとんど残っていない。
気づけば視線だけが、またホームの方へ向いていた




