第36話 人波の向こう側
クレープ屋の前には長い列ができていた。鉄板の上で焼かれる生地の匂いが吹き抜けへ広がり、制服姿の高校生たちがメニュー表を見上げながら声を重ねている。
買い物帰りの家族連れも多く、人の流れは途切れない。それでも、昼休みの教室みたいな熱っぽさはなく、館内全体に緩やかな空気が流れていた。
「やっぱ人気なんだね」
彩音が列の最後尾へ並びながら言う。
「でも思ったより進みそう」
その隣へ紬が入り、湊は半歩遅れて後ろへ立った。
吹き抜けのガラス越しには夕方の光が見える。館内放送と人の話し声が重なり、その下をエスカレーターの駆動音が一定のリズムで通り抜けていく。
「彩音さん、もう決めたんですか?」
「決めた」
彩音は迷いなく頷いた。
「こういうの、考え始めると長くなるし」
「あ、それ分かります」
紬が笑う。列が前へ進み、三人も流れに合わせて歩いた。
横をショッピングバッグを提げた人たちが通り過ぎていく。小さな子どもが走っていき、その少し後ろを女性が慌てて追いかけていた。
彩音の声も、周囲のざわめきへ自然に溶けていた。
「湊」
紬に呼ばれ、顔を上げる。
「次ですよ」
「ああ」
気づけば、もう注文の順番だった。彩音は期間限定のいちごクレープを頼み、紬は少し迷ったあと、カスタードの入ったものを選ぶ。
「湊くんは?」
聞かれて、湊はメニューを見上げた。写真のほとんどが生クリームだった。
「甘すぎないやつある?」
「クレープ屋で?」
彩音が笑う。茶化す響きではない。ただ、本当に面白そうにしているだけだった。
「じゃあこれとか」
指差されたのは、クリームが控えめなものだった。
湊は数秒見て
「じゃあそれで」
と頷く。
受け取ったクレープを崩さないよう気をつけながら、三人はフードコート横の空いたスペースへ向かった。
窓際のテーブルが一つ空いている。彩音がそちらへ視線を向け「座れそう」と静かに言った。
紬が先に紙袋を置き、湊も向かい側へ腰を下ろす。
ガラス越しには夕方の光が広がり、テーブルの表面へ淡く反射していた。周囲では買い物帰りの人たちが話していて、その声が絶えず重なっている。
彩音は包み紙を整えながらクレープを持ち上げた。
紬も崩さないよう両手で持ちながら口をつける。
湊も一口だけ食べた。思っていたより甘い。
無言のまま包み紙を持ち直した湊を見て、彩音が肩を揺らした。
「やっぱり甘かった?」
「……結構くる」
「量ありますもんね」
紬が言う。
「食べ切れます?」
「多分」
そう返しながら、もう一口だけ齧る。クリームが思ったより重く、甘さが口の中へ残った。その横で、紬が不意に口を開く。
「湊、前にコンビニのプリン食べてましたよね」
視線を上げる。
「食ってたかも」
「意外でした」
「なんで」
「甘いの、そんな好きそうじゃないので」
湊はクレープを持ったまま考える。言われてみれば、最近はほとんど食べていなかった。
「前ほどは食べなくなったな」
「へぇ」
彩音が頷く。会話が途切れても、不思議と気まずくならなかった。
吹き抜けを風が抜ける。館内の空気が揺れ、重なっていた話し声が遠くへ流れていく。
湊はクレープを持ったまま、人の流れを眺める。
エスカレーターを降りてくる制服姿の学生。笑いながら通り過ぎていくグループ。買い物袋を提げたスーツ姿の男性。
流れていく人の波を、ぼんやり眺めていた時だった。
その中で、不意に視線が止まった。
人波の向こうで、白い服が揺れた。
髪を耳へ掛ける仕草が、一瞬だけ視界に残る。
それなのに、視線だけが勝手に止まる。包み紙を押さえていた指先に、わずかに力が入った。呼吸が半拍だけ遅れる。
――違う。
分かっている。こんな場所にいるはずがない。
「湊くん?」
彩音に呼ばれ、湊は視線を戻した。
「どうした」
「クリームついてる」
言われて手元を見ると、包み紙の端からクリームが崩れかけていた。
「あー……」
持ち直した瞬間、彩音がまた笑う。
「食べるの、苦戦してるね」
「思ったより重い」
返しながら、湊は崩れたクリームを包み紙ごと押さえる。紬もその様子を見て笑っていた。
ショッピングモールのざわめきは途切れない。館内放送も、人の流れも、変わらず続いている。
甘さだけが残る口の中で、さっき人波の向こうに見えた白だけが、頭から離れなかった。




