第35話 戻した指先
放課後のショッピングモールは、人の多さのわりに落ち着いて見えた。制服姿の高校生は多い。それでも、昼休みの教室みたいに熱が散った騒がしさとは違って、買い物袋を提げた人たちが緩やかに通り過ぎ、エスカレーターの駆動音と店内BGMが吹き抜けの空間へ薄く広がっていた。
雑貨屋を出たところで、彩音が振り返る。紬はさっき買った小さな紙袋を胸の前で抱えていて、湊は二人より半歩後ろを歩いていた。どこかへ向かっているようで、実際には目的も決まっていない。そんな曖昧な移動だった。
「で、次どこ見る?」
彩音がそう言って、周囲の案内板へ視線を向ける。湊は特に行きたい店もなく、近くの服屋や雑貨店を眺めるだけに留めていた。
「湊くん、見たい店ある?」
「今のところは特に」
「じゃあ、あれ見てもいい?」
彩音が指差した先には、家電量販店の大きな看板があった。白い照明に照らされた入口は、周囲の店より明るく、外からでもスマホやタブレットの展示台が並んでいるのが見える。彩音が先に歩き出し、紬もそれに続いた。湊は二人の後ろから、少し遅れて店内へ足を踏み入れる。
空気が変わった。整然と並んだスマホ、タブレット、ヘッドホン。商品紹介の映像と電子音が絶え間なく流れていて、雑貨屋の柔らかい空気とはまるで違う。立っているだけで、視界の端から情報が入り込んでくるような場所だった。
「うわ、種類多……」
彩音がイヤホン売り場の前で足を止める。紬も棚を見上げながら、「こんなにあるんですね」と小さく呟いた。湊は少し離れた場所から、並んだケースを眺める。広告で見たことのあるモデルがいくつもあり、『高音質』『ノイズキャンセリング搭載』『長時間再生』といった文字が、やけに強く目に入った。
湊は無意識に、自分のポケットへ触れていた。今使っているイヤホンは、ケースを開いても片方だけ接続が遅れることがある。充電の減りも前より早い。使えないわけではないけれど、通学中やバイト帰りに小さな引っ掛かりとして残ることが増えていた。
「……まだ使えるか」
小さく呟き、湊はポケットから手を離す。音楽に強い拘りがあるわけではない。通学中に動画を流したり、帰り道に適当に曲を聴いたりする程度なら、今のものでも困らない。そう思って視線を外しかけた時、棚の中央に並ぶ白いケースが目に留まった。
照明を受けた白は、他の商品よりも静かに見えた。派手なデザインではない。ただ、家で使っている紬のスマホケースや、キッチンに置かれているマグカップを思い出す色だった。たぶん、紬ならこういうものを選ぶ。
値札を見る。高い。高校生が気軽に買うには迷う額だった。ただ、手が届かないわけではない。バイト代を何回か残せば買えなくもない、その現実的な高さが逆に頭へ残った。
去年の誕生日を、ふと思い出す。家族になったばかりで、まだ距離感も掴めなかった頃。何を渡せばいいのか、そもそも渡していいのかも分からないまま、結局「おめでとう」だけで終わった。今思えば、それすらぎこちなかった気がする。
「湊くん?」
彩音の声で意識が戻る。顔を上げると、少し離れた場所から二人がこちらを見ていた。彩音は不思議そうに首を傾げ、紬は隣の商品棚へ視線を移しながらも、こちらの様子を気にしているようだった。
「なに見てたの?」
「ワイヤレスイヤホン」
「買い替えるの?」
「いや。俺にはここまでの性能いらないかなって」
そう返すと、彩音は「ふーん」と軽く笑った。何か言いたげだったが、それ以上は踏み込んでこない。紬も何も言わなかった。ただ、湊が見ていた棚へ一度だけ視線を向け、値札を見たところで静かに目を逸らした。
「でも高いね、これ」
彩音が値札を覗き込み、分かりやすく顔をしかめる。
「高校生には結構きついかも」
「そうだな」
湊が頷く横で、彩音が紬の方を見る。
「紬ちゃんは? 欲しいのとかないの?」
聞かれて、紬はすぐには答えなかった。並んだケースをゆっくり見渡し、その中の一つへ手を伸ばす。指先で持ち上げたのは、湊がさっき見ていた白いイヤホンだった。ケースは思ったより小さく、照明を受けた表面が静かに光っている。
紬は値札を見た瞬間、ほんのわずかに動きを止めた。それから何事もなかったように棚へ戻す。
「今使ってるの、まだ使えてるので」
声は落ち着いていた。けれど、戻す時だけ指先が離れにくそうに見えて、湊は無意識にその手元を見てしまう。紬が使っているイヤホンは少し古いモデルで、片方の塗装も剥げかけていたはずだ。
湊は何か言いかけたが、結局何も言わなかった。紬もすぐ隣の商品へ視線を移し、説明文を読んでいるふりをする。けれど、数行分を目で追ったところで止まり、今度は別の棚に並ぶ黒いケースへ視線が流れた。
白より、黒の方が似合うかもしれない。
そんな考えが浮かんで、紬は慌てるように目を逸らした。説明文へ視線を戻しても、文字はほとんど頭に入ってこない。胸の前に抱えていた紙袋を持ち直し、何でもない顔で彩音の隣へ戻る。
その沈黙を切り替えるように、彩音が大きく息を吐いた。
「あー、お腹空いた。クレープ食べたい」
「さっきから言ってるな」
「今、本気で食べたいの」
彩音は笑いながら歩き出し、紬もその後を追う。湊は最後にもう一度だけイヤホン売り場を振り返った。白いケースが、照明を受けて静かに並んでいる。
結局、何も手に取らないまま、湊は二人のあとを追いかけた。
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