第34話 見えない気持ち
「紬ちゃんと出かけるの珍しいの?」
彩音がそう言いながら、机へ麦茶のペットボトルを置く。
箸で白米を崩しながら、頭の中だけで言葉を探す。別に仲が悪いわけじゃない。家では普通に話すし、顔も合わせる。けれど、紬の方から「付き合って」と何かを頼んでくることは、ほとんどなかった。
「紬なら一人で行くだろ」
ようやく出てきたのは、それだけだった。
彩音は「あー」と小さく頷く。
「分かるかも。紬ちゃんって、なんでも自分で済ませそう」
「実際そうだしな」
湊が返すと、彩音は卵焼きを摘まんだまま少し視線を上へ向けた。
何か考えるみたいに、ほんの短く間が空く。
「でもさ」
その声に合わせるように、教室の後ろで小さな悲鳴が上がった。誰かがジュースをこぼしたらしい。笑い声と椅子を引く音が重なり、パンの袋を開ける乾いた音まで混ざって、昼休み特有の騒がしさが教室中へ広がっていく。
そんな中でも、彩音の声だけは妙にはっきり聞こえた。
「本当は、一緒に行きたい時もあるんじゃない?」
湊の箸が止まる。
そのまま数秒遅れて白米を口へ運び、咀嚼してからようやく息を吐いた。
「……どうなんだろうな」
紬が何を考えているのかなんて、昔からよく分からなかった。
いや、違う。
分からないままでも困らなかったから、ちゃんと考えたことがない。
「聞けばいいじゃん」
彩音は軽く言う。
「兄妹なんだし」
「簡単に言うなよ」
思ったより早く言葉が出た。
彩音は少しだけ目を丸くしたあと、小さく笑う。
「難しい?」
「……まあ」
曖昧に頷く。
家族だから何でも話せる、なんてことはない。むしろ近すぎるから、変に踏み込まないまま終わることの方が多かった。
紬もそうだ。
必要以上に頼ってこないし、こっちも無理に聞かない。そういう距離で、ずっとやってきた。
彩音はしばらく何も言わなかった。
弁当を一口食べ、麦茶を飲み、それからまた箸を持つ。その沈黙が自然で、湊も、箸を動かした。
「でも」
再び彩音が口を開く。
「紬ちゃん、湊くんの話するとき楽しそうだよ」
その瞬間、卵焼きが箸から滑りかけた。
慌てて持ち直した湊を見て、彩音が吹き出す。
「なにその反応」
「いや」
言葉が出ない。そんなふうに見えたこと、一度もなかった。
「え、気づいてなかったの?」
楽しそうに言われ、湊は視線を逸らす。否定しようとして、少し遅れた。
「……そんなこと、あるか?」
彩音は頬杖をつきながら笑う。
「あるある。なんかね、ちゃんと見てる感じする」
その言葉が、頭に残った。ちゃんと見てる。
そう聞いた瞬間、不意に別の声が頭の奥で重なる。
――ちゃんと見てます。
コンビニ袋の擦れる音。ホームへ吹く風。街灯の下で缶を持っていたミアの横顔まで、ほとんど反射みたいに浮かび上がってくる。
「……湊くん?」
彩音に呼ばれ、湊はようやく意識を戻した。
「どうしたの?」
「……なんでもないよ」
反射的に返したものの、自分でも少し遅かったと思う。
彩音は「してたって」と笑い、後ろの席では別のグループがスマホを囲んで騒いでいる。窓際では誰かが眠そうに机へ突っ伏し、教室の空気は昼休みらしい緩さのまま流れ続けていた。
「で、どうするの?」
彩音が改めて聞く。
「買い物」
「あー……」
湊は弁当箱の端へ視線を落とした。断る理由はない。むしろ最近は、紬とまともにどこかへ行った記憶の方が少なかった。
「行くよ」
そう返すと、彩音は嬉しそうに笑う。
「じゃ、決まりね」
話を進めながら、どこか満足そうに頷く姿を見て、湊は小さく息を吐いた。残っていた卵焼きを口へ運ぶ。
紬の作る卵焼きは少し甘い。前からそうだったはずなのに、今日は妙にはっきり味が分かった。
そのタイミングで、開いていた窓から春の風が吹き込んでくる。カーテンがふわりと揺れ、誰かのプリントが一枚だけ床へ落ちた。後ろの席で笑い声が上がり、彩音も何か言っていたが、その瞬間だけ湊の意識は少し遅れていた。
白線の近くで吹いていた風と、缶を開ける音が、不意に頭の奥で重なる。
――終わらなくていいので。
思い出した、というより、勝手に浮かんだ感覚に近かった。止まりかけていた箸をもう一度動かす。
彩音が「聞いてる?」と笑いながら覗き込み、湊は「あー、聞いてる」と適当に返した。
けれど、本当に聞こえていたのがどっちだったのか、自分でも少し分からなかった。




