第3話 「不合格、保留の明日」
春休みはほぼ毎日バイトに入っている。毎日忙しく、気づけば帰る時間になっていた。特別なことは何もない、いつも通りの一日だった。レジを打ち、店長に呼ばれて返事をしているうちに、時間だけが淡々と過ぎていく。
更衣室を出る前に時計を見ると、表示は昨日とほとんど同じ時刻を指していた。ただの数字のはずなのに、今はそれが少しだけ意味を持って見える。昨日も、一昨日も、この時間の先にミアがいた。
駅へ向かい、改札を抜けて、階段を上がる。
ホームに出た瞬間、ほんの少しだけ違和感があった。景色も、人の数も、流れているアナウンスも変わっていないはずなのに、どこか一か所だけ噛み合っていない。そう思った瞬間、視線は勝手に白線の近くへ向いた。
昨日も、一昨日も、ミアがいた場所だった。人の流れから少し外れた、危ういのに妙に静かな位置。けれど、そこには誰もいなかった。
「……いない」
声に出してから、胸の奥がざわつく。探すまでもなく分かる。そこにいるはずの存在がいないだけで、その場所だけが空白になったみたいに不自然に見えた。
たった一人いないだけだ。それなのに、落ち着かない。見間違いかと思って少し歩き、人の隙間を縫うように角度を変えて何度も確かめる。それでも、ミアの姿はなかった。
「……は?」
思わず声が漏れる。そんなはずはない、と思った。昨日、あいつは確かに言ったはずだ。また明日、と。軽い調子だったが、ただの挨拶ではなかったはずだ。
少なくとも、湊はそう受け取っていた。来る前提の言葉で、ここに繋がるための合図だった。それなのに、今そこにミアはいない。
反射的にスマホを取り出して、すぐに意味がないことに気づく。連絡先は知らない。名前だって、ミアとしか聞いていない。本名かどうかも分からない相手と繋がる方法は、このホームに来ることだけだった。
その事実が、遅れて重くのしかかってくる。ここに来なかったら終わりだったのだと、今さら理解する。昨日まで当たり前みたいにあったものは、実際にはひどく脆い場所に置かれていた。
「……何やってんだ、俺」
自分でも分かっていた。いるかどうかも分からない相手を、必死に探している。そこまでする理由なんて、本当はないはずなのに、体だけは勝手に動いていた。
そのとき、カラン、と乾いた音がした。少し離れたベンチの方から聞こえた、小さな音だった。反射的にそちらを見て、湊は息を止める。
ベンチに座っているのは、ミアだった。昨日と同じ無表情で、何事もないみたいに静かにそこにいる。探していた姿が、拍子抜けするほど普通の場所にあった。
ただ、場所だけが違う。白線の近くではなく、人の流れの端でもない。ただのベンチに、普通に座っている。それだけの違いなのに、妙な違和感があった。
「……なんでそっち」
疑問が、そのまま口から漏れた。近づいていくと、さっきまで遠く感じていた距離が驚くほど簡単に縮まる。ミアはちらりとこちらを見て、すぐに視線を戻した。
「今日はこっち」
短く、あっさりした答えだった。説明する気はないらしい。その声に緊張感はなく、湊が探し回っていたことなど、最初から関係ないみたいだった。
「いや、昨日と違うじゃん」
責めたつもりはなかった。ただ、引っかかったことがそのまま言葉になった。昨日までは白線の近くに立っていたから、それが当然みたいに頭の中へ残っていた。
ミアは少しだけ首を傾げる。
「ダメ?」
本気で不思議そうな顔だった。わざとでも、意地悪でもない。それを見た途端、湊の肩から少し力が抜ける。
「……ダメじゃないけど」
言ってから、自分が勝手に緊張していたことに気づく。もっと大きな理由があると思っていた。でも、たぶんそんなものはない。今日はこっち、それだけなのだろう。
その大ざっぱさが、妙にミアらしかった。勝手にルールを決めていたのは、こちらだったのかもしれない。昨日と同じ場所、昨日と同じ時間、そういう形に意味があると思い込んでいた。
けれど、ミアは違う。白線の近くに立っていなくてもいい。座っていてもいい。ただ、そこにいればいい。そう思った瞬間、さっきまでの焦りが少しずつ抜けていった。
「更新は?」
ミアが顔を上げて聞く。昨日と同じ言葉だったが、場所が違うだけで少しだけ調子が狂う。湊は隣に立ったまま、息を整える。
「あー……一応」
曖昧に返す。今日は少し自信があった。昨日よりはちゃんとした理由を考えてきたつもりだったが、この場の空気にうまくはまらない。
だから、用意してきた言葉を捨てた。今感じたことを、そのまま掴むしかない気がした。
「今日は……同じ場所じゃなくてもいいって分かった」
ミアがこちらを見る。今度はしっかり視線が合った。その目を受け止めながら、湊は続ける。
「だから、明日は別の場所にしてみればいい」
言い切ったあと、胸の奥に小さな手応えがあった。同じじゃなくてもいい。形が変わっても続くなら、それでいい。今の自分には、それが一番しっくりきていた。
少しの沈黙が落ちる。ミアはじっと湊を見たまま、やがて小さく口を開いた。
「……なんで?」
予想外の返しだった。湊は一瞬だけ言葉に詰まり、それでも理屈を繋げようとする。
「ここじゃなくても、生きる理由になるなら、場所を固定する必要ないだろ」
間違ってはいないはずだった。そう思った。けれど、ミアは小さく首を振った。
「不合格」
あっさりとした声だった。湊は思わず眉を寄せる。昨日までの流れなら、少なくとも悪くない答えだと思っていた。
「は? なんでだよ」
声に焦りが混じる。ミアは迷わず答えた。
「続かないよ」
淡々とした言い方だった。
「場所変えたら、来なくなるかもしれないし」
その言葉は妙にまっすぐ刺さった。湊は言い返せなかった。たしかに、その可能性はある。場所が変われば、少し面倒に思うかもしれない。
ミアは目を逸らさない。
「ここだから来てるだけかもしれないでしょ」
完全には否定できなかった。ほんの少しでも足が重くなれば、来なくなるかもしれない。その“少し”を、湊は今すぐ否定できるほど強くなかった。
「だから」
ミアが立ち上がる。動作は軽くて自然だった。その自然さが、逆に怖かった。
「今日、死ぬね」
今日の天気でも話すみたいな声だった。
さらっと言う。昨日と同じ調子なのに、今回はまるで違った。合格ではない。その事実だけが、はっきり現実になった。
「……待てよ」
反射的に腕を掴んでいた。ちゃんと掴んでいないと、このままどこかへ行ってしまいそうだった。
「今のナシ」
言いながら、頭の中が一気に回り始める。まずい。これは昨日とは違う。なんとなくじゃ止められない。本当に、このまま終わる。
「……もう一個」
気づけば口が動いていた。ここで引いたら終わる。それだけは分かっていた。
「まだある」
ミアがゆっくり振り返る。視線が合う。逃げ場はない。さっきの言葉は弱かった。届かなかった。なら、今度は違うものを出すしかない。
頭の中で無理やりひねり出すんじゃない。今ここにあるものを、そのまま掴む。その瞬間、不意に繋がった。
ミアは、場所を変える話をただ否定したわけじゃない。続かない理由を考えていた。それはつまり、一度は明日のことを考えたということだ。
「……お前さ」
掴んだ腕に、少しだけ力が入る。
「今、場所変える話に反応しただろ」
ミアは何も言わない。けれど、腕を振りほどこうともしなかった。
言葉は止まらなかった。止めたら終わる気がした。
「続かないって考えたってことはさ」
少し息を詰める。
「一回は、続く前提で考えたってことだろ」
ミアは何も言わない。
「だったら、今日終わるのは早い」
少しだけ腕に力が入る。
「明日の答え、見てからにしろよ」
ミアの目がわずかに揺れた気がした。ほんの一瞬の変化だったが、湊はそれを見逃さなかった。
長い沈黙が落ちる。ミアはしばらく何も言わなかった。ただ、こちらを見ていた。
やがて、ほんの少しだけ目を伏せる。
「……ずるい」
小さな声だった。初めて聞く響きだった。困ったみたいな、責めきれないみたいな声で、その一言だけが妙にはっきり残る。
そして、ミアは目を伏せたまま続けた。
「合格」
その一言で、張り詰めていたものが一気にほどけた。足から力が抜けそうになり、湊はそこで初めて、自分が立っているだけで精一杯だったことに気づく。
「ギリギリ」
ミアが付け足す。
「今のは、ちゃんと明日に繋がってた」
軽い調子なのに、その言葉だけは妙に重かった。湊は深く息を吐く。心臓はまだうるさく、全然落ち着いていない。それでも、終わったことだけは分かった。
「……そうかよ」
掴んでいた腕をゆっくり離す。指の感触だけが、少し遅れて残った。ミアは離された腕を見下ろしてから、何事もなかったようにベンチの横へ立つ。
少しだけ間が空いたあと、ミアが口を開く。
「ねえ」
その声は、さっきより少しだけ柔らかい気がした。
「さっきのやつ」
湊が顔を上げると、ミアは視線を横に逃がしたまま続ける。
「場所変えるってやつ」
一瞬だけ、間が空く。その間に、ホームへ入ってくる電車の音が遠くから近づいてきた。
「明日は、それ試してみる」
あっさりした言い方だった。決めたことをそのまま口にしただけみたいな声だったが、その内容は妙に重かった。
「不合格だけど、保留」
ミアは淡々と言う。完全に切り捨てるわけでも、受け入れるわけでもない。その曖昧さが、昨日までより少しだけ柔らかく感じられた。
「駅以外で待ち合わせよ」
そう言って、ミアは少しだけ視線を逸らす。
「来れるなら、来て。時間は……」
短く場所と時間を告げると、ミアはそのまま歩き出した。今度は振り返らない。その背中を見送りながら、湊はふと理解する。
ルールが、少し変わった。
最初から決まっていた形じゃない。押しつけられただけのものでもない。やり取りの中で少しずつ形を変えていくものになり始めている。
帰り道、いつもと同じ道を歩いているはずなのに、頭の中だけが落ち着かなかった。場所、理由、何を言えばいいのか、明日ちゃんと会えるのか。考えることは昨日より確実に増えている。
「……めんどくせえ」
正直な感想だった。今までなら、こんなことを考える必要なんてなかった。わざわざ面倒なことに、自分から首を突っ込んでいる。
それでも、足取りは昨日より少しだけ軽かった。やめる理由じゃなく、続ける理由が増えていく。それが思っていたより悪くないと、湊は認めざるを得なかった。
第3話まで読んでくださってありがとうございます。
少しでも続きが気になったら、応援、フォロー、レビューいただけると嬉しいです。
この先、妹や新キャラ、過去の掘り下げ、いろいろな出来事が少しずつ動き出します。
よければ、これからも見守ってください。




