「不合格、保留の明日」
学校が終わって、そのままバイトに入って、気づけば帰る時間になっていた。
特別なことは何もない、いつも通りの一日だった。
レジを打って、品出しをして、先輩に呼ばれて返事をしているうちに、時間だけが過ぎていく。
時計を見る。
昨日と、ほとんど同じ時間だった。
体は自然と昨日と同じ動きをなぞる。
駅へ向かって、改札を抜けて、階段を上がる。
いつも通り。
そのはずだった。
けれど、ホームに出た瞬間、ほんの少しだけ違和感があった。
理由は分からない。
景色も、人の数も、何も変わっていないはずなのに、どこか一か所だけ噛み合っていない気がする。
無意識に、あの場所を見る。
白線の近く。
人の流れから少し外れた位置。
昨日も、一昨日も、ミアがいた場所。
「……いない」
小さく呟く。
探すまでもなかった。
一目で分かる。
そこにいるはずの存在がいないだけで、その場所だけが妙に目についた。
空白になったみたいに、そこだけ不自然に見える。
たった一人いないだけだ。
それなのに、胸の奥が落ち着かない。
見間違いかと思って、少し歩く。
立ち位置を変えながら、人の隙間を縫うように何度も見る。
それでも、いなかった。
「……は?」
思わず声が漏れる。
そんなはずはない、と思った。
昨日、あいつは言ったはずだ。
『また明日』って。
軽い調子だった。
でも、ただの挨拶じゃないと思っていた。
来る前提の言葉だったはずだ。
少なくとも、自分はそう受け取っていた。
それなのに、いない。
その事実が、少しずつ現実になっていく。
反射みたいにスマホを取り出す。
けれど、何かができるわけじゃない。
連絡先は知らない。
名前だって、ミアとしか聞いていない。
本名かどうかも分からない。
ここに来る以外、繋がる方法がない。
そのことが、遅れて重くのしかかってくる。
――ここに来なかったら、終わりだったんだ。
「……何やってんだ、俺」
自分でも分かる。
いるかどうかも分からない相手を、必死に探している。
そこまでする理由なんて、本当はないはずなのに。
そのときだった。
カラン、と乾いた音がした。
少し離れたベンチの方。
反射的にそちらを見る。
そして、見つけた。
ベンチに座っている。
ミアだった。
昨日と同じ無表情で、何事もないみたいに静かに座っている。
探していた姿が、そのままそこにあった。
ただ、場所だけが違う。
白線の近くじゃない。
人の流れの端でもない。
ただのベンチ。
誰でも座れる場所に、普通に座っている。
それだけなのに、妙に違和感があった。
「……なんでそっち」
疑問が、そのまま口から漏れる。
そのまま近づく。
さっきまで探していた距離が、拍子抜けするほど簡単に縮まった。
ミアはちらりとこちらを見て、すぐに視線を戻した。
「今日はこっち」
それだけ言う。
短くて、あっさりした答えだった。
説明する気はないらしい。
「いや、昨日と違うじゃん」
責めたわけじゃない。
ただ、引っかかったことをそのまま言っただけだ。
昨日は白線の近くに立っていた。
それが当たり前みたいになっていたから、ベンチに座っているだけで妙に違って見える。
「ダメ?」
ミアが少しだけ首を傾げる。
本気で不思議そうな顔だった。
わざとでも、意地悪でもない。
「……ダメじゃないけど」
言ってから、少し力が抜けた。
もっと何か理由があると思っていた。
でも、たぶんそんなものはない。
今日はこっち。
それだけだ。
その雑さが、妙にミアらしかった。
さっきまでの焦りが、少しずつ抜けていく。
勝手に“ルール”を決めていたのは、こっちだったのかもしれない。
昨日と同じ場所。
昨日と同じ時間。
そういう形に意味があると思い込んでいた。
でも、ミアは違う。
立っていなくてもいい。
白線の近くじゃなくてもいい。
ただ、そこにいればいい。
「更新は?」
ミアが聞く。
昨日と同じ言葉。
でも、場所が違うだけで少しだけ調子が狂う。
「あー……一応」
曖昧に返す。
今日は少し自信があった。
昨日よりは、ちゃんとした理由を考えてきたつもりだった。
でも、この場の空気にうまくはまらない。
「今日は……同じ場所じゃなくてもいいって分かった」
考えてきた言葉を捨てて、今感じたことをそのまま口にする。
ミアがこちらを見る。
今度はしっかり視線が合った。
「だから、明日は別の場所にしてみればいい」
言い切る。
同じじゃなくてもいい。
変わっても続くなら、それでいい。
今の自分には、それが一番しっくりきていた。
少しの沈黙が落ちる。
ミアはじっとこちらを見たまま、ぽつりと言った。
「……なんで?」
予想外の返しだった。
「ここじゃなくても、生きる理由になるなら、場所固定する必要ないだろ」
なんとか言葉を繋げる。
理屈としては間違っていない。
そう思った。
でも、ミアは小さく首を振る。
「不合格」
あっさりとした声だった。
「は?」
思わず間抜けな声が出る。
「なんでだよ」
「続かないよ」
ミアは迷わず答えた。
「場所変えたら、来なくなるかもしれないし」
淡々とした言い方だった。
でも、その言葉は妙にまっすぐ刺さった。
「ここだから来てるだけかもしれないでしょ」
言い返せなかった。
たしかに、その可能性はある。
場所が変われば、少し面倒に思うかもしれない。
ほんの少しでも足が重くなれば、それだけで来なくなるかもしれない。
その“少し”を、完全には否定できなかった。
「だから」
ミアが立ち上がる。
動作は軽くて、自然で、だからこそ妙に怖かった。
「今日、死ぬね」
さらっと言う。
昨日と同じ調子なのに、今回はまるで違った。
“合格”じゃない。
その事実だけが、はっきり現実になる。
「……待てよ」
反射的に腕を掴んでいた。
初めて触れたミアの腕は、驚くほど細くて軽かった。
ちゃんと掴んでいないと、このままどこかへ行ってしまいそうだった。
「今のナシ」
言いながら、頭の中が一気に回り始める。
まずい。
これは昨日とは違う。
なんとなくじゃ止められない。
本当に、このまま終わる。
「……もう一個」
気づけば口が動いていた。
「まだある」
ここで引いたら終わる。
それだけは分かっていた。
ミアがゆっくり振り返る。
「……なに」
視線が合う。
逃げ場はない。
さっきのは弱かった。
届かなかった。
なら、今度は違う。
頭の中で無理やりひねり出すんじゃない。
今ここにあるものを、そのまま掴む。
その瞬間、不意に繋がった。
さっきミアは、場所を変える話をただ否定したわけじゃない。
“続かない理由”を考えていた。
それはつまり、一度は明日のことを考えたってことだ。
「……お前さ」
掴んだ腕に少しだけ力を入れる。
「今、場所変える話に反応しただろ」
ミアは何も言わない。
「本当にどうでもいいなら、不合格ってわざわざ言わない」
言葉が止まらなかった。
「続かない理由まで考えたってことは、一回は“続く前提”で考えたってことだろ」
沈黙。
ミアは表情を変えない。
でも、目も逸らさない。
「だったら、今日終わるのは早い」
自分でも驚くくらい、まっすぐな声が出た。
「お前、もう明日のこと考えたじゃん」
ホームの音が、少しだけ遠くなる。
「場所を変えたら来なくなるかもしれないって思ったんだろ」
さらに続ける。
「それって、来るか来ないかを見たいってことじゃないのか」
喉が乾く。
でも、止まれない。
「明日の答えを見ないまま終わるのは、さすがに早すぎるだろ」
長い沈黙が落ちる。
ミアはしばらく何も言わなかった。
ただ、こちらを見ていた。
それから、ほんの少しだけ目を伏せる。
「……ずるい」
小さな声だった。
初めて聞く響きだった。
困ったみたいな、責めきれないみたいな声。
そして、
「合格」
あっさりと続ける。
その一言で、張り詰めていたものが一気にほどけた。
足から力が抜ける。
本気で、立っているだけで精一杯だったことにそのとき気づいた。
「ギリギリ」
ミアが付け足す。
「今のは、ちゃんと明日に繋がってた」
軽い調子なのに、その言葉だけは妙に残った。
「……そうかよ」
深く息を吐く。
心臓がまだうるさい。
全然落ち着いていない。
でも、終わったとは分かった。
「ねえ」
ミアが言う。
少しだけ、声が柔らかい気がした。
「さっきのやつ」
「ん?」
「場所変えるってやつ」
一瞬、間が空く。
「明日は、それ試してみる」
あっさりした言い方だった。
決めたことを、そのまま口にしたみたいに。
でも、その内容は妙に重かった。
「不合格だけど、保留」
ミアは淡々と言う。
完全に切り捨てるわけでも、受け入れるわけでもない。
その曖昧さが、昨日までより少しだけ柔らかかった。
「駅以外で待ち合わせよ」
そう言って、少しだけ視線を逸らす。
「来れるなら、来て。時間は……」
短く告げると、ミアはそのまま歩き出した。
今度は振り返らない。
その背中を見送りながら、ふと理解する。
――ルールが、少し変わった。
最初から決まっていた形じゃない。
押しつけられたものでもない。
やり取りの中で、少しずつ変わっていくもの。
そんな関係になり始めている。
⸻
帰り道。
いつもと同じ道を歩いているはずなのに、頭の中だけが落ち着かない。
場所。
理由。
何を言えばいいのか。
明日、ちゃんと会えるのか。
考えることが、昨日より増えていた。
「……めんどくせえ」
小さく呟く。
正直な感想だった。
今までなら、こんなことを考える必要なんてなかった。
わざわざ面倒なことに、自分から首を突っ込んでいる。
それでも――
足取りは、昨日より少しだけ軽かった。
やめる理由じゃなく、続ける理由が増えていく。
それが、思っていたより悪くなかった。
第3話まで読んでくださってありがとうございます。
少しでも続きが気になったら、応援、フォロー、レビューいただけると嬉しいです。
この先、妹や新キャラ、過去の掘り下げ、いろいろな出来事が少しずつ動き出します。
よければ、これからも見守ってください。




