第2話 「理由は、重さじゃないらしい」
バイトが終わり、何気なく見た時計の表示は、昨日とほとんど同じ時刻を指していた。変わっていない。ただの数字のはずなのに、なぜかいつもと違って見える。
意味なんてない。ただ、そう感じただけだ。それでも一度そう思ってしまうと、視線を外してもその違和感だけが残り続ける。
そのまま駅へ向かう。帰るためには〇〇駅で乗るしかない。学校とバイト先の最寄りであり、家の近く△△駅へ行くための、ほぼ唯一のルートだ。
本来なら、ここに来る理由なんて考える必要はない。それでも足は迷わない。改札を抜け、流れに紛れるように階段を上がる。
ただまっすぐ、“あの場所”へ向かっている。
それを自覚した瞬間、ほんのわずかに息が詰まる。
行かなければ終わる、と思った。
正確には、“終わってしまう”の方が近い。何が終わるのかは分からない。関係と呼べるほどのものでもないし、昨日初めて会っただけの相手だ。
それでも確かに、あそこには何かがあった。
それを自分から切るのは違う気がした。理由はない。ただ、あの目を見てしまった以上、なかったことにはできなかった。
ホームに出る。
視線は自然と、あの場所へ向かう。白線の近く、人の流れからほんの少しだけ外れた位置。昨日と同じ座標をなぞるように、意識がそこへ固定される。
――いた。
探すまでもなかった。そこにいるだけで分かる。昨日と同じ距離、同じ立ち方。今日は文庫本を持っていた。
ページをめくる指だけが、わずかに動いている。それ以外はほとんど変わらない。まるでそこだけ時間が切り取られているみたいに、静かに存在していた。
「……本当に来たんですね」
本から目を離さないまま、ミアが言う。こちらを見てもいないのに分かっている声で、最初からそこにいる前提で話している響きだった。
湊は軽く息を吐きながら、その隣に立つ。
「そっちこそ」
一言返す。それだけで会話は成立した。昨日と同じ距離に収まると、不思議と違和感が消える。
しばらく何も言葉は続かない。
それでも昨日ほど居心地は悪くなかった。沈黙を埋める必要がないと分かってきたからか、無理に言葉を探す感覚が薄れている。
湊は視線をミアの手元へ落とす。
「本、好きなんですか」
なんとなくの問いだった。ミアはページをめくる手を止めないまま、わずかに間を置いてから答える。
「時間が潰れるから」
好きかどうかではなく、必要かどうか。
その割り切り方が、現実的に聞こえる。
湊は小さく息を吐く。
「面白いとかじゃなくて?」
一歩踏み込む。ミアは一拍も置かずに返す。
「どうでもいいかな」
ページがめくられる。その小さな音だけが、この場ではやけに残る。少しだけ間が空く。
踏み込まなくてもいいはずなのに、言葉が出る。
「昨日から気になってたんですけど」
「本当に、死ぬつもりなんですか」
言った瞬間、その重さに気づく。
それでも引っ込めることはできなかった。ミアは手を止めない。
「死ぬタイミングを決めてないだけ」
当たり前のことを答えるみたいに言った。
その軽さが、逆に現実味を帯びる。湊は白線の方へ視線を向ける。
「決めたら?」
浅い問いだと分かっていても、言葉は止まらなかった。
ミアは同じ調子で返す。
「その日に死ぬよ」
アナウンスが流れる。電車が近づく。人が前へ動く。それでもミアは動かない。昨日と同じ位置で、同じように立っている。
湊は一瞬だけ言葉を失う。その現実が、今、目の前にあるのだから。
「……今日は」
ミアが本を閉じる。
初めて、はっきりとこちらを見る。
その視線に捕まった瞬間、逃げ場がなくなる。
「更新、持ってきた?」確認だった。
湊は一度息を吐く。
「…ありますよ」
少しだけ間を置いて答える。
ずっと考えていた。どうでもいいはずなのに、頭から離れなかった。
ミアは一歩、近づく。ほんのわずかな距離。
それだけで空気が変わる。
「聞かせて」
湊は視線を逸らさずに口を開く。
「その本まだ途中だろ?どうでもいいって言う割に、まだ読んでる」
「だったら、終わりを見てからでいいんじゃないか。そのあと、まだ死にたかったら…その時考えろよ」
ミアの手元を見る。挟まれた栞の位置。まだ終わりまで届いていない。ミアは何も言わない。ただ、こちらを見ている。
沈黙が落ちる。電車の音が近づく。人の流れが動く。それでもこの場所だけが切り取られたみたいに静まっていた。やがて、ミアが小さく息を吐いた。
張り詰めていた空気が、わずかに緩む。その変化だけで、答えはもう出ている気がした。視線を外さないまま、ミアが口を開く。
「今日は、それでいい」
あっさりとした言い方だった。体の奥に残っていた力が一気に抜ける。湊は遅れて息を吐き、ようやく肩の力を落とした。
「いいのか、それで」
自然に出た疑問だった。
ミアは迷いなく頷く。そのまま視線を線路の方に向けながら、淡々と続ける。
「理由ってさ、重さじゃないから」
言い切る声に揺らぎはない。
湊は眉を寄せ、言葉の意味を探るように問い返す。
「……じゃあ、なんなんですか」
ミアはすぐに答える。
「続くかどうか」
だが、そのあとに続いた一言で、輪郭がはっきりする。
「明日に繋がるなら、それでいい」
軽いはずの言葉なのに、不思議と納得できた。
湊は思わず小さく笑い、わずかに視線を逸らす
「適当だな」
ぼやくように言うと、ミアは否定しなかった。
「本気で考えた理由って、だいたい続かないし」
現実的な言い方だった。
ミアは手元の本に視線を落とし、栞を挟み直して丁寧に閉じる。その動作に無駄はなく、さっきまでのやり取りが嘘のように落ち着いている。
「じゃあ」
ほんのわずかな間を置く。
「今日は生きるね」
何気ない声だった。それなのに、その言葉だけは、はっきりと耳に残る。
ミアは振り返らずに電車に乗り込む。人の流れに自然に溶け込み、その背中はすぐに見えなくなっていく。
湊はしばらく、その方向を目で追っていた。昨日と同じはずの光景なのに、どこかだけ違って見える。
一日、延びた。
それだけのことのはずなのに、胸の奥に重さが残る。
帰りの電車の中で、ふと気づく。
理由なんてないはずなのに、考えている。明日のことを。どんな言葉にするか、何を理由にするか、気づけば思考がそちらに引き寄せられている。
「……なんだ、これ」
それでも、悪くないと思った。明日も、あの場所に行く。
気づいたときには、それ以外の選択肢が浮かばなくなっていた。
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