第1話 『儚げな美少女が、俺に“明日の理由”を求めてきた』
その日、俺は知らない女の子に命を預けられた。
春休みでもバイト帰りのホームは、いつもと変わらない。
整列位置に並ぶ人影はそれぞれ別の世界に沈んでいて、スマホを見続ける会社員も、壁に背中を預けて目を閉じている学生も、誰ひとり隣に立つ他人へ関心を向けていない。
ただ、今日は人が多く、いつもより奥のほうで電車を待つことにした。
線路の向こうから湿った風が抜け、電光掲示板だけが規則正しく明滅を繰り返し、この場所の時間を機械みたいに進め続けていた。
だから最初は、ただ視界に引っかかっただけだった。
白線のすぐ内側に、ひとりの少女が立っている。
派手な服装じゃない。髪型だってどこにでもいる女子高生と変わらない。それなのに、立ち位置だけが妙におかしかった。ほんの少し前に寄った重心。あと半歩でも踏み出せば、そのまま線路へ落ちそうな距離感。その危うさだけが、周囲の景色から不自然に浮いて見える。
視線を逸らそうとしても、意識が勝手にそこへ戻ってしまい、昔から人を自然に観察してしまう。
——まもなく、上り列車が通過いたします。
無機質なアナウンスがホームへ流れる。それでも周囲の空気は変わらない。誰も顔を上げず、誰も少女を見ない。
危険だと気づいていても、関わる理由がなければ、人は簡単に“自分には関係ない”を選べる。
俺も、その側の人間だったはずだった。
見なかったことにして、電車に乗って帰る。それで終わるはずの話なのに、気づけば足が動いていた。
理由は分からない。ただ、このまま放っておけば取り返しがつかなくなる。そんな不安に駆られたからだ。
「……そこ危ないですよ」
声をかけると、少女はゆっくり振り返った。長い髪が肩の上でわずかに揺れ、その奥から静かな目がこちらを見る。驚いた様子はない。
その落ち着き方が逆に怖かった。
見た目の綺麗とか可愛いとか、そういう感想が入り込む隙がない。
空っぽに近い目だった。
なのに、その奥にはっきりした意志だけが残っている。迷っている人間の目じゃない。“ここに立つ理由”だけを抱えたまま、静かに前を見続けている目だった。
少女は小さく首を傾ける。
「じゃあ、あなたが理由をくれますか」
柔らかい声だった。だから余計に、言葉だけが現実から浮いて聞こえる。
「……は?」
間の抜けた声が漏れる。
だが少女は気にした様子もなく、白線の向こう側へ一度だけ視線を流したあと、再びこちらを見る。
「ここに立たない理由。生きる理由でもいいです」
冗談には見えなかった。試しているようにも見えない。ただ、本当に必要な条件だけを確認している顔だった。
喉の奥がわずかに乾く。
「……なんで俺が」
聞き返したつもりだったが、ほとんど時間稼ぎみたいな声になった。少女はあっさり答える。
「他にいないので」
軽い口調だった。なのに、その一言だけ重い。
この子の中では、それが自然なのだと分かってしまう。今ここで目を離したら、本当に飛び込む。そんな確信だけが嫌なくらいはっきりあった。
線路の奥から接近音が近づいてくる。空気が震え始め、ホーム下の風が強くなる。
関わらない方がいい。たぶん、普通はそうする。なのに、目が離せなかった。
「……止めますよ」
考えるより先に言葉が出た。少女は少しだけ目を細め、こちらを観察するみたいに視線を寄せる。
「じゃあ」
一歩、こちらへ近づいた。
その直後、通過電車がホームを切り裂く。
轟音と風圧が一気に体を叩き、服の裾が激しく揺れた。数十センチ先を巨大な鉄の塊が通り抜けていく。その距離の危うさを、遅れて体が理解する。
けれど少女は動じない。髪を押さえることすらせず、静かな声のまま言葉を続けた。
「これから私に、生きる理由をください」
言葉だけが耳に残る。
理解した瞬間、急に息が浅くなった。軽く返してはいけない気がした。曖昧に誤魔化したら、この会話そのものが終わると確信した。
「これからって……毎日、ですか?」
自分でも驚くくらい声が掠れていた。
少女は迷いなく頷く。
「今日だけじゃ意味ないから」
その返事で分かる。これは相談じゃない。
条件だ。
「なんで…」
絞り出すように聞くと、少女は不思議そうに瞬きをした。
「明日も死にたくなるから」
普通の声だった。
今日の天気でも話すみたいに自然で、だからこそ逃げ場がない。言葉が出なくなる。慰めも説得も、たぶんこの子には届かない。ここで取り繕った言葉を使えば、それで終わる気がした。
だから考えるのをやめる。
「俺が、明日の理由を持ってくる。今日は、それじゃ駄目か」
弱い提案だと自分でも分かっていた。それでも今の俺に出せたのは、それだけだった。
少女は少し黙る。その数秒が長く感じる。ホームへ電車が滑り込み、人の流れがゆっくり動き始める中、少女は静かにこちらを見ていた。
「それと」
気づけば、もう一つ言葉が出ていた。
「君の名前、教えて」
少女は少しだけ間を置き、小さく口を開く。
「……ミア」
俺はその響きを確かめるみたいに繰り返した。
「ミア」
口にした瞬間、輪郭の曖昧だった存在に、少しだけ現実感が生まれる。
ミアはその反応を見て、ほんのわずかに目を細めた。
「君は?」
聞き返され、俺は少しだけ考える。それから首を横に振った。
「今は教えません」
ミアの眉がわずかに動く。
「どうして」
責める声じゃない。ただ純粋に理由を求める響きだった。
「理由、出せなかったら終わりなんでしょ」
確認するように言うと、ミアはゆっくり頷く。
「うん」
短い返事だった。けれど、それで十分だった。
「だったら、その時でいい」
今はまだ踏み込まない。その線だけは自分で決めておきたかった。ミアはしばらくこちらを見つめていたが、やがて
「いいよ。今日は、それでいい」
張っていた空気が、ほんの少しだけ緩む。
終わったわけじゃない、むしろ逆だ。
明日に繋がってしまったのだと、その感覚だけが残る。
ミアは白線から離れ、人波の中へ歩き出す。
「明日も、同じ時間にここにいる」
振り返らないまま言葉だけを落とす。その背中は、どこにでもいる女子高生にしか見えなかった。
「更新、忘れないで」
電車のドアが開く。ミアは乗り込む直前、一度だけこちらを振り返った。小さく手を振るその姿だけ見れば、本当に普通の女の子だった。
「じゃないと、死ぬから」
軽い声だった。だが、その一言だけが異様に重く残る——あの子は、本気だ。
そう理解した瞬間、自分がもう後戻りできない場所に立っていることだけが、はっきり分かった。
電車が動き出す。
何気なく視線を追った先で、ミアの鞄についたキーホルダーが窓の光を反射した。
それは、同じ学校の校章だった。
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・物語を分かりやすく解説するための図になります。
電車(JR)路線図
①病院
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②湊 自宅 最寄り駅
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③出会いの駅、学校、バイト先、祖父家
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④ミア 自宅 最寄り駅
◀ ██████【電車】██████
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③ ホーム
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