第1話 死ぬつもりの彼女が、俺に“明日の理由”を求めてきた
その日、俺は知らない女の子に命を預けられた。
バイト帰りのホームは、いつもと変わらない時間の流れの中にあった。電車を待つ人間が等間隔に並び、スマホを見ているやつや、壁にもたれて目を閉じているやつが、それぞれ自分の時間に沈んでいる。誰かが誰かに関わる理由なんて特にない、よくある夕方の光景だった。
だから最初は、ただの見間違いだと思った。
白線のすぐ内側に立っている少女。
派手な格好をしているわけでもなく、特別目立つ顔立ちでもない。ただ、その立っている位置だけが妙におかしくて、視界に入った瞬間から意識がそちらに引き寄せられる。
今にも落ちそうな距離だった。
——まもなく、上り列車が通過いたします。
アナウンスが流れる。
それでも周囲の人間は動かない。気づいていないのか、それとも関わる気がないのか、誰もその少女を見ようとしない。危ないと思っても、それを口にする理由がない限り、人は簡単に無視できる。
俺だって、そうするつもりだった。
見なかったことにして、そのまま電車に乗る。それで終わる話だったはずだ。
それなのに、気づけば足が動いていた。
どうしてかは分からない。ただ、そのままにしておくとまずい気がした。それだけで十分だった。
「……危ないですよ」
声をかける。
少女は、ゆっくりと振り向いた。
目が合った瞬間、理解より先に感覚が来る。
ああ、これは。
本気だ。
綺麗とか可愛いとか、そういう感想が入り込む余地がない。ただ空っぽで、でも確かに“何か”に向かっている目だった。迷っているわけでもなく、躊躇しているわけでもない。ただ、そこに立っている理由だけが残っている。
少女は、小さく口を開く。
「じゃあ」
ほんの少しだけ首を傾ける。
「あなたが、理由をくれますか」
意味が分からない。
思考が追いつかないまま、「……は?」と声が出る。
少女は気にした様子もなく続けた。
「ここに立たない理由」
一拍も置かずに言葉を重ねる。
「生きる理由でもいいです」
冗談には見えなかった。
試している感じでもない。
ただ、本気でそう思っている顔だった。
「……なんで俺が」
口にしながら、自分でも分かる。これは問いとして成立していない。ただ時間を稼いでいるだけの言葉だ。
「他にいないので」
あっさり返される。
その声の軽さが、逆に現実味を強くする。この子にとっては、それが当たり前なのだと分かってしまう。
その瞬間、背中に冷たいものが走る。
このまま放っておけば、本当にいく。
そう確信するには十分だった。
「……止めますよ」
気づけば口から出ていた。
考えたわけじゃない。ただ、それ以外の選択肢が浮かばなかった。
少女は、ほんの少しだけ目を細める。
「じゃあ」
一歩、こちらに寄る。
その瞬間、通過電車が横を駆け抜けた。
轟音と風圧が体を叩く。ほんの数十センチの差で、取り返しのつかない位置だったことを、遅れて理解する。
それでも少女は、何事もなかったように言った。
「これから私に、生きる理由をください」
言葉の意味を理解するのに、一瞬かかる。
そして、そのあとで。
重さだけが残る。
「……毎日、ですか?」
自分でも分かるくらい、声が掠れていた。
少女は迷いなく頷く。
「今日だけじゃ意味ないから」
その言葉を聞いた瞬間、問いの意味が変わる。ただの会話じゃない。これは条件だ。
「なんで」
それでも聞かずにはいられなかった。
少女は、すぐに答える。
「明日も死にたくなるから」
あまりにも普通の言い方だった。
だから逃げ場がなかった。
それが特別なことじゃなく、この子にとっては当たり前の感覚なのだと、はっきり分かってしまう。
しばらく言葉が出なかった。
何かを言わなければいけないのに、どんな言葉も全部軽く感じる。ここで適当なことを言えば、それで終わる気がした。
だから、考えるのをやめた。
「……俺が、明日の理由を持ってくる。それじゃ駄目か」
弱いのは分かっている。
それでも、それしか出なかった。
少女は黙る。
ほんの数秒。
それがやけに長く感じる。
その沈黙の中で、自分の選択が正しかったのかを考えかけて、やめる。考えても意味がない。
やがて少女は、小さく息を吐いた。
「それでいいよ」
あっさりと言う。
「今日は、それでいい」
張り詰めていたものが、少しだけ緩む。
終わった、と思った。
でも同時に、それで終わりじゃないことも分かる。
繋がってしまった。
少女——ミアは背を向けて歩き出す。
「明日も、同じ時間ね」
振り返らない。
「更新、忘れないで」
電車に乗る。
ドアが閉まる直前、軽く手を振る。
その仕草だけ見れば、普通の女の子だった。
「じゃないと、死ぬから」
軽い声だった。
けれど、その一言の重さだけが、遅れて現実として残る。
あいつは、本気だ。
そう理解した瞬間、自分がもう後戻りできない場所に立っていることだけが、はっきりと分かった。
その日から、俺は“理由”を考えるようになった。
どうすればいいのかは分からない。
何を言えばいいのかも、まだ何一つ決まっていない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがある。
——明日、あいつはまたここに来る。
そして俺は。
何かを答えなきゃいけない。




