第29話 『ここで終わりにします』
二人はホーム端のベンチに座り、湊はぽつりと口を開いた。わざわざ話すほどのことではない。けれど、黙ったまま持ち帰るには、少しだけ胸の奥に残りすぎていた。
視線は前に向けたまま、隣を見ない。見なくても、ミアがそこにいると分かる距離だった。
「コンビニに寄っててさ」
説明するためというより、思い出した順に言葉を置いていく。
湊は少しだけ間を置き、続けるかどうかを迷ってから、息を吐くみたいに言葉を足した。
「妹のバイト先の人に会ったんだ」
それで話は終わってもよかった。事実だけなら、それで足りている。誰に会ったか、どこで会ったか、それ以上に説明する必要はないはずだった。
けれど、口を閉じた瞬間、何かだけが足りない気がした。このままだと、さっき感じたものの中心だけを置き去りにするような感覚があった。
「……なんか、日常っていうのかな」
小さく付け足してから、湊は自分でもその言葉の意味を考えた。
話して、笑って、少しだけ時間を過ごした。特別な出来事はない。印象に残る事件もない。それでも、何もなかったわけじゃなかった。そこには時間があって、自分はそれをちゃんと過ごしていた。
「悪くなかった」
それが一番近かった。きれいな言葉でも、分かりやすい答えでもない。けれど、今の湊にとっては、それ以上にしっくりくる言い方が見つからなかった。
ミアは横で何も言わない。相槌も打たず、評価もせず、ただその言葉を受け取るように。
湊は前を見たまま、言葉が終わるはずだった場所から、もう一歩だけ踏み出した。
「でも、ここはなんか違うんだよな」
口に出してから、湊は少しだけ眉を寄せた。何が違うのか、どこが引っかかっているのか、うまくまとまらない。
言葉にしようとすると形が崩れる。それでも、引っ込めることはできなかった。
「ここに来るとさ」
少しだけ息を吐く。隣を見ない。見たら、言えなくなる気がした。
一ノ瀬彩音といた時間は、ちゃんと現実の中に収まっていた。
笑って、話して、またねって、それで終われる時間だった。けれど、ミアといる時間は、どこか境界が曖昧だった。
「……ちょっと変なんだよ」
言ってから、自分でも引っかかった。何を言っているのか、はっきり分かっているわけではない。
ただ、そう感じたから、そのまま出しただけだった。けれど、その一言は思っていたより重く落ちた。
「変、ですか」
ミアが小さく繰り返す。確認するような声だった。感情が露骨に出ているわけではない。それでも、いつもより少しだけ低く、何かを確かめるような響きがあった。
「うん」
湊が短く答えると、言葉のあとに重たい沈黙が落ちた。
「……みなと」
名前を呼ばれる。小さく、けれどはっきりした声だった。
湊は前を向いたまま、「なに」と返す。
視線を合わせることができない。
「さっきまで一緒にいた人との時間と」
ミアはすぐに続けなかった。一度だけ息を吸い、言葉を選ぶように間を置く。
その沈黙が、いつものものとは違っていた。
空白ではなく、何かを飲み込んでいるような間だった。
「ここ……わたしといる時間」
そこで、ミアの声がほんの少しだけ揺れた。いつもと同じ調子で整えようとしているのに、そこだけがわずかに崩れている。
湊は思わず肩に力を入れた。何を聞かれるのか、もう分かってしまった気がした。
「どっちがいいですか」
静かな問いだった。答えを急かすわけではない。けれど、逃がすつもりもない。
湊は前を見たままで、ミアの方を向くことができなかった。
それでも、正面から向き合われているみたいだった。
「……は?」
間の抜けた声が出た。理解が追いつかないわけではない。言われている意味は分かる。だからこそ、すぐには返せなかった。
比べるものじゃない。
そう思う。そもそも同じ基準で測れるものではない。けれど、そう言って逃げるのも違う気がした。
「いつもの時間と、ここでの時間」
ミアはゆっくりと言葉を置く。押しつけるでもなく、責めるでもなく、ただ二つのものを並べるみたいに言った。その声に強さはない。
「どっちが、いいですか」
もう一度、問いが落ちる。
湊はすぐに答えられなかった。
言葉にした瞬間、どちらかを選ぶみたいで嫌だった。
「……どっちっていうか」
湊は時間をかけるように口を開いた。はっきりした答えではない。けれど、黙ったままではいられなかった。
「向こうは、ちゃんとした時間で。こっちは……」
そこで止まる。続きが出てこない。分かっているはずなのに、言葉にすると崩れそうだった。
ミアは急かさない。ただ静かに、その続きを待っている。
「ちょっと違う感じがするっていうか」
足りない。説明にもなっていない。けれど、それが一番近かった。
ミアは小さく頷く。それで十分だと判断したみたいに、深く聞き返すことも、納得した顔をすることもなく、そのまま受け取った。
「そうですか」
短く言って、ミアは黙った。
言葉が終わったあと、二人の間には余白だけが残る。無理に埋める必要のない沈黙のはずなのに、今は少しだけ苦しかった。
夜の風が通り、さっきまでの会話を遠くへ運んでいくみたいに、二人の間をすり抜けていく。
「……わたし」
不意に、ミアが口を開いた。自分でも少し迷ったような出だしだった。続けるかどうかをほんの一瞬だけ考え、それでも言葉を止めなかった。
「いつもの時間...の方が、いいと思います」
静かな声だった。断言というほど強くはない。けれど、揺れてもいない。最初からそう決めていたみたいに、ミアは前を見たまま続けた。
「区切りがあって、終わりが分かる時間。そういう方が、きっと普通...なんだと思います」
その最後だけ、少しゆっくりだった。
ミアはまるで、自分に言い聞かせているみたいに。
ほんの少しだけ声が揺れた。初めてだった。こんなふうに、ミアの言葉が崩れるのは。いつもはもっと均一で、感情が入り込む隙なんてないみたいに、静かに並べられていたのに。
「でも、ここにいると」
ミアは続ける。止めることもできたはずなのに、そのまま言葉を重ねた。言い切る前に一瞬だけ息が止まる。
そのわずかなためらいが、湊の胸に引っかかった。
「湊のそういう時間、減っちゃいますよね」
はっきりと言い切った。
逃げない。誤魔化さない。責めているわけではない。ただ、湊の中にあるものを見てしまったから、そのまま言葉にしただけだった。けれど、その一言はさっきまでよりずっと重く響いた。
風が通る。さっきと同じ夜の風のはずなのに、少しだけ冷たく感じた。
湊は喉の奥に残った言葉を飲み込みかけて、それでも止められなかった。
「理由も、意味も」
ぽつりと置いた言葉は、まとまりがなかった。
考えきったわけではない。正しいと胸を張れるわけでもない。それでも、引っ込めることはできなかった。
「ちゃんとしてなくても、いいって思うから」
最後の声は、自分でも驚くほど静かだった。
強くもない。軽くもない。
自分でも説明しきれない言葉だった。
それでも、確かにそこにあった。
「それだと」
ミアの返事は、いつもより少し早かった。
初めて、リズムが崩れた。湊が目を向けるより先に、ミアは言葉を続ける。
「もったいないので」
整える余裕もないまま、言葉だけが先に外へ出てしまったみたいだった。ミアは一度もこちらを見ない。その横顔は、いつもと同じように静かなはずなのに、どこかだけ危うく見えた。
「湊は、いつか後悔しますから」
その一言で、夜の音が遠くなる。
言われた内容ではなく、その中に含まれているものが、少し遅れて湊の理解に追いついてくる。
「……え」
それしか出てこなかった。
「だから」
ミアはほんの少しだけ間を置いた。最後の言葉を選ぶみたいに。けれど、その声にはもう迷いが残っていなかった。
「ここで終わりにします」
ミアの声は静かだった。
強く言ったわけじゃない。突き放すような響きもない。それなのに、その一言だけで、何かが決定的に変わったのが分かった。
湊はすぐに言葉を返せなかった。頭の中で意味を理解するより先に、胸の奥だけが妙にざわつく。
終わる。今、そう言われた。その事実だけが遅れて広がっていく。
「明日からは、来なくていいです」
あまりにも、あっさりとしていた。引き止める隙もないくらい自然に、ミアは言った。強くもない。冷たくもない。ただ、余計なものを全部落として、必要な言葉だけを残したような声だった。
「……は」
声にならない音が漏れる。
湊は反射的にミアを見る。
そこで初めて、ミアが一度もこちらを見ていなかったことに気づいた。
膝の上で握られた指先。
白線の向こう側へ向いた視線。
電車が近づく音。
その全部が、もう“終わる側”へ向いている。
「なんで」
低い声が出た。理由が欲しかった。納得できるものじゃなくてもいい。ただ、このまま終わるには、何もかもが足りない気がした。
ミアは少しだけ視線を落とした。地面を見るでもなく、ただ、その間を埋めるようにまつげを伏せる。それから短く言った。
「楽しかったです」
それだけだった。余計な言葉は何もない。けれど、そのあとに続いた一言で、湊の胸の奥がきしむ。
「戻れなくなるので」
淡々とした言い方だった。けれど、どこかだけ壊れていた。きれいに並べられた言葉の奥で、何かが崩れているのが分かった。
「……意味わかんねえよ」
喉の奥が熱い。
言葉を探すたび、何かが引っかかった。
取り繕う余裕はなかった。何を言っているのか。何を怖がっているのか。どうして終わらせようとしているのか。
ミアはほんの少しだけ笑った。口元がわずかに動く。形だけなら笑っているはずなのに、全然軽くない。むしろ、さっきよりも重く見えた。
「わたしも、分かってないです」
小さく言う。否定するわけでも、逃げるわけでもない。分からないまま、それでも終わらせようとしている。その矛盾が、そのまま言葉になっていた。
風が二人の間を抜ける。ミアは少しだけ顔を上げた。一瞬、目が合った。逃げることもなく、引き寄せることもない。ただ真っ直ぐな視線だった。
「湊のおかげで、生きる理由ができました」
いつもと同じ声のはずだった。けれど、その一言だけは違って聞こえた。少しだけ笑って、ミアは続ける。
「だから、このままだと……わたし、ずっと生きたくなります」
その言葉は、まっすぐに刺さった。比喩ではない。大げさでもない。冗談でもない。ただの事実みたいに、そのまま置かれた。
湊は何も言えなかった。何か言わなければいけない気がするのに、言葉が出てこない。軽い返事をできる空気ではなかった。
ミアも、それ以上続けない。これで全部だと、そう言っているような顔をしていた。
電車の音が近づく。レールの振動が足元から伝わり、風が強くなる。ホームの空気が一気に動き、人が同じ方向へ流れ始めた。ミアもその流れに乗るように、一歩、二歩、踏み出す。
ほんの一瞬だけ振り返った。口元が少しだけ緩む。今までで一番、作っていない表情だった。何かを隠すためでも、誤魔化すためでもない。ただそのままの顔が、一瞬だけ湊の目に映る。
「ありがとうございました」
それだけ言って、ミアは電車に乗った。迷いはなかった。振り返らない。ドアが閉まり、短い音が鳴る。それだけで、全部が区切られた気がした。
電車が動き出す。ゆっくりと、けれど確実に距離が離れていく。ミアの姿が小さくなって、やがて見えなくなるまで、湊はその場から動けなかった。
さっきの言葉だけが残っている。
生きる理由ができました。
ずっと、生きたくなります。
その二つが、何度も頭の中で重なっては離れた。
「……どういうことだよ、それ」
ぽつりと呟く。答えなんて出るわけがない。それでも言葉にしないと、そのまま飲み込まれてしまいそうだった。
発車した電車の風だけが、遅れてホームに残った。
その冷たさで、ようやく自分が一人になったことを理解した。
気づけば、湊は手を強く握っていた。理由は分からない。考えたわけでもない。ただ、何もしていないと、何かが零れてしまう気がした。
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