第28話 同じ言葉、違う温度
駅の中へ入った瞬間、外の空気が一枚薄く剥がれ落ちたみたいだった。
人はいる。改札を抜ける音も、遠くで重なる足音も、誰かの笑い声も確かに耳には入ってくる。それなのに、不思議なくらい輪郭がぼやけていて、全部が少し遠い場所の出来事みたいに感じられた。
白石湊はホームへ続く階段を上がりながら、さっきまでの時間を頭の中でゆっくり反芻していた。
コンビニの白い照明。
飲み物の並ぶ冷蔵ケース。
壁にもたれながら笑っていた彩音の横顔。
距離の詰め方が自然だった。
無理に近づいてくるわけじゃない。それなのに、気づけば隣にいて、会話が続いていて、その空気を心地いいと思っている。
やわらかい声だった、と思う。
誰が見ても、ちゃんと“いい時間”だったと言えるような過ごし方だった。
気まずさもない。背伸びもない。高校生らしいと言ってしまえば、それで綺麗に片づいてしまうくらいには自然だった。
だからこそ、湊は小さく息を吐く。
悪くなかった。
むしろ、かなり楽しかったはずだ。
それなのに、胸の奥には妙な引っかかりだけが残っている。
考えようとすると形が曖昧になる。
理由を掴もうとするほど、指の隙間から抜け落ちていく。
ただ、“何かが違う”という感覚だけが、静かに残り続けていた。
気づけばホームへ出ている。
視線は迷わなかった。
白線の近く。人の流れから少し外れた、あの場所。
そこに見慣れた姿を見つけた瞬間、湊は無意識に足を止める。
「……いた」
小さく漏れた声は、自分で思っていたより安堵に近かった。
ミアは、いつもと同じ位置に立っていた。
白線の内側。
電車を待つ人たちから半歩だけ距離を取った場所で、静かに前を向いている。
変わらない立ち姿だった。
それを見た途端、胸の奥で落ち着かなかった何かが、ゆっくり元の位置に戻っていく。
まるで最初から、ここにいるのが当然だったみたいに。
「来たんですね」
先に声を掛けてきたのはミアだった。
振り向いたというより、最初から湊が来ることを知っていたような声音だった。
「……まあな」
短く返し、その隣へ並ぶ。
距離は変えない。
近づく理由も、離れる理由もない。その曖昧な位置関係が、二人にとってはもう自然になっていた。
少しだけ間が空く。
ホームを抜ける風が制服の裾を揺らし、遠くで電車の接近音が低く響いていた。
その音に紛れるように、ミアがぽつりと口を開く。
「今日は、遅かったですね」
責めるわけでもない。
興味本位でもない。
ただ、気づいたから口にした。それだけの平坦な声だった。
「ちょっと寄り道してた」
湊は前を向いたまま答える。
隠したいわけじゃない。
けれど、自分から細かく説明する気にもなれなかった。
ミアは小さく頷くだけで、それ以上は聞いてこない。
その引き方が、妙に心地よかった。
「寄り道……いいと思います」
ふいに落ちた言葉に、湊は少しだけ視線を向ける。
ミアは相変わらず前を見たままだった。
「そういうのがあっても」
一度、わずかに間を置く。
「湊は、ちゃんとここに来るので」
静かな声だった。
感情を押しつけるわけでもなく、正しいことを言うわけでもなく、ただ“そういうものだ”と確認するみたいな響きだった。
「続いてるなら、それでいいです」
その瞬間、湊の思考がわずかに止まる。
――似ている。
さっき彩音と交わした会話と、どこか。
あのときの言葉はもっと軽かった。笑いながら交わす雑談の延長みたいな温度で、肩の力を抜いたまま自然に出てきたものだった。
けれど、ミアの言葉は違う。
重たいわけじゃない。
なのに、軽く流れていかない。
最初からそこに存在していて、ずっと変わらず残り続けていたものを、そのまま言葉に変えたような感覚があった。
「……」
うまく整理できない。
ただ、さっきから胸に残っている違和感の正体が、少しだけ輪郭を持ち始めていた。
同じような言葉なのに、響きが違う。
彩音の隣にいるときは、“今”が楽しかった。
ミアの隣にいるときは、“続いていること”そのものを意識させられる。
その差が、思っていた以上に大きかった。
「……どうかしましたか」
ミアが小さく首を傾ける。
湊は我に返ったように首を振った。
「いや、別に」
結局、それ以上の言葉は出てこない。
ミアも追及しなかった。
ただ静かに頷き、再び前を向く。
沈黙が戻る。
けれど、それはさっきまでとは違っていた。
ただ黙っているだけなのに、妙に深い。
「……湊」
不意に名前を呼ばれる。
視線を向けると、ミアがこちらを見ていた。
「今日の分」
わずかに間を置いてから、
「まだです」
と静かに言う。
逃がさないように。
けれど、無理に縛りつけるわけでもない距離感で。
「……ああ」
湊は小さく息を吐いた。
考えていなかったわけじゃない。
ただ、今日は少し違っていた。
彩音と過ごした時間。
そのあとにここへ来たこと。
そして、ミアが変わらずここにいたこと。
全部が頭の中で重なり合って、うまく整理できなくなっている。
「……今日はさ」
湊はゆっくり口を開く。
急がず、言葉を選ぶ。
「さっきのこと、聞いてもらうってのでいいか」
ミアがほんのわずかに目を止めた。
それは一瞬だった。けれど、確かに“間”があった。
「……はい」
返ってきた声は、いつも通り静かだった。
だが、その静けさの奥に、ほんの少しだけ柔らかいものが混ざっている気がした。
「それでいいですよ」
短く答えたあと、ミアは続ける。
「それでも、ちゃんと続くので」
その言葉は、今までより少しだけ近い場所に落ちてきた。
「……そっか」
湊はそれ以上言わなかった。
電車の接近音が強くなる。
風がホームを抜け、人の流れがゆっくり前へ動き始める。
その中で二人だけが、ほんの半拍遅れて歩き出した。
タイミングを合わせようとしたわけじゃない。
それでも自然に揃ってしまう。
白線から離れ、並んで歩きながら、湊は小さく息を飲む。
――一ノ瀬彩音のことを話す。
それは多分、思っているよりずっと踏み込んだ行為だった。
言わなくても済む話だ。
わざわざここへ持ち込む必要もない。
それでも。
ミアには、自分のことを知ってほしいと思ってしまった。
理由とか、ルールとか、そういう話じゃない。
ただ、そうしたいと思った。
胸の奥に残る違和感は、まだ消えていない。
同じ言葉。
違う温度。
その差だけが、静かに湊の中へ残り続けていた。
だからこそ、次に口にする言葉が、何かを少し変えてしまう気がした。
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