第26話 《一ノ瀬彩音》 その3
「なんかさ」
彩音が冷蔵ケースを覗き込みながら、小さく笑う。
「湊くんって、一人でも平気そうな感じするよね」
ガラス越しの白い光が横顔を照らしていた。
派手な顔立ちではないのに、立っているだけで周囲の空気が少し柔らかく見えるのは、多分この人の話し方のせいだ。
湊は手に取ったペットボトルを眺めながら、「どうだろ」と曖昧に返す。
「いや、なんか分かるんだよね」
彩音はそう言って、並んだ飲み物へ視線を滑らせる。
「誰かと一緒にいなくても平気そうっていうか」
「それ褒めてる?」
「半分くらい」
間を置かず返ってくる。
そのテンポがおかしくて、湊は少しだけ息を漏らした。彩音もつられたみたいに笑う。
彩音が冷蔵ケースを覗き込みながら、不意にそんな声を落とした。
彩音は無理に話を広げようとせず、湊の返事をそのまま受け取るみたいに小さく頷く。それから冷蔵棚へもう一度視線を戻し、並んだラベルをゆっくり眺めた。
変に盛り上げようとしているわけじゃない。ただ、その場で浮かんだことを自然に投げているだけなのに、不思議と空気が止まらなかった。
変に気を遣わなくていいし、沈黙ができても焦らなくて済む。何かを頑張って続けなくても、会話が勝手に流れていく感じが、思ったより楽だった。
レジの方で電子音が鳴る。誰かが会計を終えた音だった。その瞬間、不意に別の景色が頭を掠める。
湊は無意識に視線を逸らした。
今この場所は彩音といる空気が軽い。
話しやすくて、一緒にいて疲れない。ちゃんと現実の中にある距離感だった。それは間違いなく心地いい。なのに、頭の奥へ残るのは、まったく別の静けさだった。
「ん?」
彩音が小さく首を傾ける。
「どうかした?」
「……いや」
短く返す。
少し遅れて、「なんでもない」と付け足した。
彩音はそれ以上聞かなかった。
小さく笑って、手の中の飲み物を軽く持ち直す。透明なラベルが白い光を反射して、一瞬だけ指先が明るく見えた。
レジへ向かう途中、彩音が「あ、そうだ」と思い出したみたいに声を上げた。
「一個聞いていい?」
「なに」
「今さ、気になってる人とかいる?」
探るみたいな空気はない。本当に“ついでみたいに聞いた”温度で言ってくるから、逆に返答へ困る。
湊はすぐには答えなかった。
レジ前の床へ視線を落としながら、小さく息を吐く。考えているというより、頭の中に浮かんだものをどう説明するのが正しいのか分からなかった。
「……どうだろ」
少し間を置いてから返す。
「いるような、いないような」
自分でも曖昧だと思う答えだった。
けれど、ちゃんと言葉にしようとすると、逆に何かが違う気がした。まだ形になっていない感覚を無理やり名前に変えるみたいで、それが妙にしっくりこない。
彩音はその返事を聞いて、小さく笑う。
「なにそれ」
からかうというより、本当に面白がっている感じだった。
「自分でもよく分かってないし」
「それ、一番危ないやつじゃん」
「危ないってなんだよ」
「気づいたら落ちてるやつ」
間を置かず返ってくる。
そのテンポがおかしくて、湊は少しだけ息を漏らした。彩音もつられたみたいに笑う。
変に盛り上げようとしている感じがない。ただ、その場で浮かんだ言葉を自然に投げているだけなのに、不思議と会話が止まらなかった。
レジ前へ並ぶ。
前の客が会計をしている間、少しだけ沈黙が落ちた。けれど気まずくはない。
彩音はスマホを見るでもなく、ぼんやり店内の棚を眺めている。その力の抜けた立ち方を見ながら、湊は小さく息を吐いた。
無理に会話を繋げなくていいし、沈黙ができても焦らなくて済む。何かを頑張って合わせなくても、自然に空気が流れていく感じが、思ったより楽だった。
「でもさ」
彩音が前を向いたまま続ける。
「“いるような、いないような”って時点で、たぶんもう誰かいるよね」
「……そういうもんか?」
「そういうもん」
即答だった。
前の客がレジを離れ、店員が「お次どうぞ」と声を掛ける。彩音はカゴをカウンターへ置きながら、「だって」と小さく続けた。
「興味ない相手のことって、そもそも考えないじゃん」
その言葉に、湊は返事をしなかった。
代わりに財布から小銭を取り出す。
頭の奥では、別の景色が浮かんでいた。
白線の近く。人の流れから少し外れた場所。
何も変わらない顔で「更新ありますか」と当たり前みたいに聞いてくる声。
理由なんて曖昧なままなのに、“明日”だけは最初から存在しているみたいな距離感。
「……」
無意識に、指先へ少しだけ力が入る。
彩音はそんな湊を見ても、特に何も言わなかった。ただ会計を終えて袋を受け取ると、「まあ、まだ間に合うと思うけど」と軽く笑う。
軽い口調だった。
でも、その言葉だけ妙に耳へ残る。
「なにが」
湊が聞き返すと、彩音は少しだけ首を傾けた。
「いろいろ?」
わざと曖昧に言う。
それ以上は説明しない。
自動ドアが開き、夜の空気が店内へ流れ込む。昼の熱が消えきる前の中途半端な温度が、ゆっくり肌へ触れた。
彩音は隣へ並びながら、「でも意外だったな」と小さく笑う。
「湊くん、もっと“誰にも興味ないです”タイプかと思ってた」
「……そう見える?」
「見える」
即答だった。
「なんか、一人で完結してそうだから」
湊は小さく息を漏らす。
否定できない気もした。
実際、少し前までの自分なら、多分そうだったのだと思う。
最近は何を考えているのか分からないのに、気づけば視線を探してしまう横顔。理由なんて曖昧なままなのに、当たり前みたいに“明日”を前提にしてくる声。
気が付けば思い出してしまう存在。
今はそれとはまた違う。
彩音といる空気は、軽くて分かりやすい。
一緒にいて疲れないし、ちゃんと現実の中にある距離感だと思う。
それは間違いなく心地いい。
時計を見ると、いつもの時間がもうそこまできていた。




