第24話 《一ノ瀬 彩音》 その1
バイトが終わった瞬間、湊は思わず店内の時計を見上げていた。時刻は、いつもより1時間近く早い。
レジ締めも片付けも妙にスムーズに終わって、気づけば制服のままバックヤードへ立っている。普段ならまだ忙しさの余韻が残っている時間なのに。
「お疲れー」
先に上がるスタッフの声へ軽く返事をしながら、湊はロッカーの扉を閉める。
制服を脱ぎ、私服へ着替える動きもどこか落ち着かなかった。駅へ向かうには少し早い。
だから、本来なら適当に時間を潰せばいいはずだった。コンビニへ寄るでも、本屋へ入るでも、スマホでも見ながら適当に歩けば、それだけで埋まる程度の時間。
それなのに、店を出たあと、湊の足はほとんど迷わず駅の方向へ向いていた。夜になりきる前の空気が、ゆっくり街へ広がっている。
急ぐ必要はない。いない可能性の方が高い。
そこまで考えてから、湊は小さく息を吐いた。
「……時間とか決めてないんだよな」
誰に言うでもなく呟く。けれど、その言葉は思ったより自分の中へ落ちなかった。
“また明日”と言われただけだ。
なのに、自分はこうして駅へ向かっている。
それが少しだけ可笑しかった。
駅前へ近づくにつれて、人の流れが増えていく。
その中を歩きながら、湊は無意識にホームのことを考えていた。
白線の近く。
人の流れから少し外れた位置。
ぼんやり線路の向こうを見ている横顔。
そこまで浮かんでから、湊は小さく眉を寄せる。
「……重症だろ、これ」
苦笑混じりに呟く。けれど足は止まらない。
むしろ、気づかないうちに少しだけ速くなっていた。
そのときポケットの中でスマホが震えた。
小さな振動だったのに、妙に意識へ引っかかる。
湊は足を少し緩め、画面へ視線を落とした。表示されていた名前を見て、ほんのわずかに目を細める。
【 一ノ瀬彩音 】
紬のバイト先の先輩。連絡先を交換してから何度かやり取りはしているものの、まだ親しいと言える距離ではない。ただ、文面だけで相手の警戒を薄くするのが上手い人だ、という印象は残っていた。
数秒だけ迷ってから通知を開くと
『紬ちゃんに聞いたんだけど、もうすぐバイト終わる?』
軽い文面だった。けれど、踏み込み方は近い。いきなり距離を詰めているわけではないのに、返事をしない方が不自然に思える位置へ、するりと入ってくる。
湊は歩きながら少しだけ考え
『今日はもう上がってます』
余計な言葉はつけない。送信するとすぐに既読がつき
『早いね、今帰り?』
『帰ってる途中です』
『そっか。じゃあタイミングよかった』
迷いのないテンポだった。会話を急かしているわけではないのに、流れだけは止めない。
湊はそれを少し不思議に思いながら
『一ノ瀬さんは?』
自分から聞き返すつもりはなかった。けれど、このまま終わる流れでもなかった。
数秒後
『コンビニで甘いの買うか迷ってる』
『五分くらい棚の前いる』
湊は少しだけ情景を想像した。文章だけで姿が浮かぶのは、たぶん一ノ瀬の話し方のせいかもしれない。
『意外です。なんでもすぐ決めそうなので』
『よく言われる』
『でも、どうでもいいことほど決められないんだよね』
『大事なことの方がすぐ決まるかも』
湊はその文面を見て、少しだけ足を緩めた。なんとなく、その感覚は分かる気がした。
『なんとなく分かります』
『え、分かってくれる人いた』
『ちょっと嬉しい』
その“ちょっと嬉しい”を軽く言える距離感が、一ノ瀬らしかった。重くならない。けれど、ちゃんと内側へ一歩入ってくる。
『湊くんも迷うタイプ?』
名前の呼び方が自然に変わっていることに気づいた。けれど、不思議と嫌な感じはしない。
『決めるのが面倒で、そのままにすることはあります』
『あー、それっぽい』
『ちゃんと考えてるのに、考えてないふり上手そう』
その一文に、湊は少しだけ眉を寄せる。言われたことのない種類の言葉だった。否定もしづらく
『どういう意味ですか』
『そのまま』
『距離あるのに冷たくないから』
一ノ瀬は、人を見るのが上手い。踏み込みすぎる前に止まる感覚を知っている。だから気づくと、こちらの返事の温度まで少し変えられている。
『褒めてます?』
『かなり』
と即座に返ってきた。それから少し間を置いて
『だから、もし迷惑じゃなかったら少し会えないかな』
湊は歩きながら小さく息を吐いた。強引ではない。けれど、断るほどの理由がない場所までは自然に持っていく。その距離の詰め方が、あまりにも滑らかだった。
『○○駅前のコンビニ』
『白いカーディガン着てるから分かると思う』
遠くはない。むしろ、このまま歩けば駅へ向かう途中で着く場所だった。
断る理由はない。けれど、行かなきゃいけない理由もない。その曖昧な感覚のまま歩き続けていると、少し先にコンビニの明かりが見えてきた。白い光が、夕方と夜の境目にぼんやり滲んでいる。
その光景を見た瞬間、湊の頭の中へ別の場所が浮かんだ。夜の駅。白線の近く。何も持たずに立っている横顔。気づけば、無意識に駅の方向を探していた自分に気づき、湊は小さく息を吐いた。
「……まだ時間はあるだろ」
誰に向けるでもなく呟く。それでも足は止まらない。コンビニの明かりは、少しずつ近づいていた。




