第23話 知らない時間の兄
バイト終わりの時間帯は、店の中に残っていた熱がゆっくり抜けていく。
ついさっきまで聞こえていたレジの音も、誰かの笑い声も、シャッターの向こうへ遠ざかっていくみたいに薄くなって、バックヤードには蛍光灯の低い音だけが残っていた。
更衣室前の狭いスペースで、紬はロッカーにもたれながらスマホを触っている。
特に見るものがあるわけじゃない。
ただ、指だけが止まらなかった。
画面を開いて、閉じて、また開く。
流れるように写真フォルダへ入って、そのまま何枚かスクロールしたところで、指が止まる。
見慣れている写真だった。
部屋で撮っただけの、なんでもない一枚。
視線はカメラから外れていて、髪も少し乱れている。たまたまそこにいた瞬間を切り取っただけで、別に見せるために撮ったものじゃない。
なのに、今日はなぜか目が離れなかった。
「ねえ、紬ちゃん」
横から声が落ちてくる。
ふわっとした、力の抜けた声だった。
顔を上げると、すぐ近くに彩音が立っている。
いつの間に来たのか分からないくらい自然に距離へ入り込んでいて、紬は少しだけ反応が遅れた。
彩音はカーディガンの袖を軽く指で摘まみながら、スマホの画面を覗き込む。
「それ、お兄ちゃん?」
もう分かっているみたいな聞き方だった。
確認というより、会話を始めるための一言に近い。
「……見てたんですか」
紬が画面を少し傾けると、彩音は悪びれもなく笑う。
「ちょっとだけ」
その笑い方が自然すぎて、責める気にもならない。
「なんか、いいなって思って」
さらっと続けられた言葉に、紬は眉を寄せる。
「なにがですか」
「写真」
彩音はそう言って、もう少しだけ顔を寄せた。
香水ともシャンプーとも違う、柔らかい匂いが一瞬だけ近づく。
「見てもいい?」
断られると思っていない声だった。
でも、押しつける感じもしない。
紬は少し迷ってから、スマホを戻す。
彩音が画面を見る。
何秒か、そのまま黙っていた。
「……やっぱり、いいね」
小さく落ちた声は、さっきより少し静かだった。
紬はもう一度、画面へ視線を落とす。
いつもの写真。
何度も見ているはずなのに、隣で誰かが見ているだけで印象が変わる。
「普通ですよ」
思わずそう返すと、彩音はくすっと笑った。
「うん。そういう感じ」
意味が分からず、紬は視線を向ける。
彩音は画面を見たまま続けた。
「ちゃんとしてるのに、頑張ってない感じするんだよね」
指先でスマホの端を軽くなぞる。
「こういうのって、結構出るから」
作ってるかどうか。
見せようとしてるかどうか。
ほんのちょっとの違いなのに、不思議なくらい分かる。
「別に格好つけてないのに、ちゃんと見える人っているじゃん」
紬は返事をしなかった。
代わりに、画面の中の湊を見る。
部屋着のまま椅子へ座っているだけの写真。
表情も自然で、カメラを意識している感じはない。
でも、彩音に言われたあとだと、確かに少し見え方が違った。
「名前、湊くんだっけ」
彩音が聞く。
「……はい」
「湊くん、か」
その名前を口の中で転がすみたいに呟いて、彩音は少しだけ笑った。
それから、不意に顔を上げる。
「もう連絡したよ」
あまりにも普通の調子だった。
紬は一瞬、意味が入ってこなかった。
「……は?」
間抜けな声が漏れる。
彩音は肩を揺らして笑う。
「だって、紬ちゃん前に教えてくれたじゃん」
「いや、でも」
「大丈夫だよ。変なこと送ってないから」
その言い方が逆に不安だった。
紬がじっと見ると、彩音は視線を逸らして小さく笑う。
「ちゃんと返してくれたし」
その一言だけで、妙に空気が止まる。
紬は無意識にスマホを握り直していた。
画面の中には、変わらない顔が映っている。
家で見慣れている兄。
いつも通りの湊。
なのに、さっきまでとは少し違って見える。
彩音はロッカーへ軽く背中を預けながら、楽しそうに続ける。
「なんかね、返信も湊くんっぽかった」
「……どんなですか」
「短い」
即答だった。
紬は思わず吹き出しそうになる。
それを見て、彩音も笑った。
「でも、ちゃんと返してくれる人って感じ」
軽い口調なのに、その言葉だけ妙に残る。
紬はもう一度、写真を見る。
知っている顔のはずだった。
毎日同じ家で見ている。
なのに今は、自分の知らない場所にいる湊が、その写真の向こう側に薄く重なって見えた。
学校での顔。
バイト先での顔。
ミアといる時の顔。
彩音とメッセージしている時の顔。
自分の知らない時間の中にいる兄。
「……」
言葉にはならない。
別に嫌なわけじゃない。
取られるとか、そういう感覚とも違う。
ただ、今まで家の中だけで完結していた“兄”という存在に、急に外側ができたみたいで、うまく整理がつかなかった。
彩音はそんな紬の顔を見て、少しだけ目を細める。
「紬ちゃん、お兄ちゃん好きだよね」
からかうでもなく、本当にそう思ったみたいな声だった。
「は?」
反射で顔を上げる。
「いや、そういう意味じゃなくて」
彩音は笑いながら手を振る。
「なんていうんだろ。ちゃんと見てる感じ」
その言葉に、紬は返事ができなかった。
代わりに、スマホの画面を閉じる。
暗くなった画面に、自分の顔だけがぼんやり映った。
その黒い画面を見ながら、紬は小さく息を吐く。
さっきまで、ただの写真だったはずなのに。
今はもう、前と同じ見え方をしていなかった。




