第22話 また明日、答え合わせを
ホームに立つ。
改札を抜けて、階段を上がって、いつもの位置へ向かう。流れてくるアナウンスも、並んでいる人の数も、見えている景色はほとんど変わらない。
ただ、昨日の紬との会話が頭の奥に残っている。
『ちゃんと見ておきなよ』
あの言葉だけが、妙に離れなかった。
湊は無意識に視線を上げる。
白線の近く。人の流れから半歩外れた、いつもの場所にミアはいた。
ホームへ吹き込む風をそのまま受けている。通過電車が横を抜けても、髪が揺れるだけで、本人はほとんど動かない。
周囲の人間だけが、その場所を避けるみたいに流れていく。特別目立つわけじゃない。でも、不思議とすぐ見つかる。
「……よっ」
湊が声をかけると、ミアはゆっくりこちらを見た。
「はい」
愛想がいいわけでもないし、感情が表に出るタイプでもない。それでも、その声を聞くと妙に落ち着く。
湊はそのまま隣へ並んだ。
近すぎず、遠すぎず。最初は落ち着かなかった距離も、今ではほとんど意識しなくなっている。
会話は続かない。けれど沈黙が苦にならないのも、もう今さらだった。
通過電車がホームの向こうを抜け、少し遅れて風だけが流れてくる。
「更新だろ」
言ってから、自分から切り出したことに気づいた。
ミアがわずかに目を細める。
「先に言うんですね」
「たまにはな」
ミアは小さく頷いた。それで会話は終わると思った。
「みなと」
不意に名前を呼ばれる。
湊は視線だけ動かした。
ミアは前を向いたまま、線路の向こうを見ている。
「なに」
「今日の理由」
少し間が空く。
「もう決めてますか」
湊はすぐに答えなかった。考えていないわけじゃない。
「……まだ」
結局、それだけ答える。
ミアは何も言わなかった。
頭上でアナウンスが流れ、向かいのホームへ電車が滑り込んでくる。
「これからでいいだろ」
口にしてから、自分でも曖昧な言い方だと思った。
ミアは静かに頷く。
「はい、それでも、きっと続くので」
今日は、その声がいつもより近く聞こえる。
当たり前のことを確認するみたいな声だった。
湊は返事をしない。
否定する理由は浮かばない。でも、素直に頷くのも違う気がした。ただ、その言葉だけが、電車の音が消えたあとも妙に頭の中へ残り続けていた。
ーーーー
ーーー
ーー
ー
コンビニの外へ出た瞬間、自動ドアが背中側で閉まり、外の冷たさがじわりと肌へ戻ってきた。
横ではミアがコンビニ袋を片手に提げたまま、いつも通りの速度で歩いていた。急ぐわけでもなく、こちらへ合わせるわけでもない。それなのに、気づけば隣にいる距離が自然になっている。
街灯の光が、ミアの髪の端にだけ触れていた。
湊は一度だけ視線を向け、それから前へ戻す。
袋の中で缶がぶつかり、から、と乾いた音が鳴る。
「……それ、何選んだんだっけ」
湊が聞くと、ミアは袋の中を覗き込み、そのまま一本取り出して見せた。見慣れないラベルに、期間限定の文字が小さく入っている。
「自分で選んでおいて、覚えてないんですね」
「なんとなくで取ったし」
そう返すと、ミアは呆れたみたいに息を吐いた。
「雑です」
「そっちも似たようなもんだろ。“目に入ったから”って言ってたし」
「ちゃんと見てます」
言い方が妙に真面目で、湊は思わず笑った。
そのタイミングで風が抜け、ミアの手の中で缶が滑る。
「あ——」
小さく漏れた声より先に、湊は反射で手を伸ばしていた。落ちかけた缶を掴み、そのままミアへ返す。
「危な」
「……すみません」
受け取る瞬間、指先が一瞬だけ触れる。本当にそれだけなのに、離れたあとも妙に感覚だけ残って、湊は無意識に手を握り直す。
歩き出したあと、二人の歩幅が少し噛み合わなくなる。揃いかけて、また外れる。
「……昨日さ」
湊は前を向いたまま口を開く。軽く聞けば、多分そのまま流せる。でも、今日はそれができなかった。
「なんかあったのか」
ミアはすぐには答えなかった。数歩ぶん沈黙が落ちる。遠くを走る車の音が、夜の奥へ長く伸びていた。
「少し」
誤魔化している感じはないからこそ、余計に引っかかる。
「気になったから」
言ってから、自分で少し変な感じがした。そんなふうに口にするつもりはなかったのに、思ったより自然に出てしまった。
「忘れてください」
あまりにも普通の声だった。だから、軽く流せなかった。
「普通、気にするだろ」
湊がそう返すと、ミアはわずかに首を傾ける。
「どうでしょう」
赤信号で止まった車のブレーキ音が、近くで短く鳴る。その音が消えたあと、ミアは静かな声のまま言った。
「私のことなんて、誰も気にしません」
軽い調子の声、だけど、軽く聞き流せる言葉じゃない。
湊は反射みたいに口を開く。
「俺は——」
そこまで出て、止まった。
違う、とは思う。
でも、何がどう違うのか、自分でもまだうまく分からない。
否定したいわけじゃない。放っておきたいわけでもない。ただ、言葉にしようとすると、どこかで引っかかる。その沈黙を切るみたいに、ミアが口を開いた。
「今日の理由」
視線は前を向いたまま。
「まだ決めてないですよね」
「ああ」
湊は少し考え、それからミアの持っている袋を指した。
「それ、ちゃんと味覚えて帰るってのは」
ミアは袋を見る。それから、小さく頷いた。
「いいですね。明日、答え合わせできます」
「テストかよ」
思わず笑うと、ミアは少し考えてから、「近いです」と真面目に返した。
「……覚えてなかったら?」
「もう一回です」
即答だった。
「覚えてないって言えば終わらねえじゃん」
「じゃあ、終わらなくていいです」
さらっと言う。
湊は、その言い方に少し笑う。
「……いいな、それ」
「なにがですか」
「いや、なんか」
言いかけてから、一度言葉が止まる。うまく説明できる感じじゃない。それでも、そのまま続けた。
「続いてく感じ」
ミアはすぐには返さなかった。少しだけ視線を落としてから
「はい」
その声は妙に静かで、ちゃんと残る。
二人はまた歩き出す。コンビニの光はもう後ろへ遠ざかっていて、前には夜の道だけが続いていた。
「また明日」
ミアが言う。
振り返らないまま。
「味、覚えておいてください」
「忘れてたら?」
「もう一回です」
同じ返事に、湊は思わず笑った。
ミアもほんの少しだけ口元を緩め、そのまま人の流れの中へ混ざっていく。
離れていく背中を見ながら、湊はポケットへ手を入れた。
「……悪くない」
小さく漏れた声は、思ったより自然だった。
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