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駅で出会った女の子と不思議な関係に。明日も死にたくなる彼女に、俺は毎日、生きる理由を渡すことになった。  作者: 逢華 (最後の挑戦)
春休み ( 出会い編 )

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第21話 まだ名前にならない感情

夕飯のあとだった。


食べ終わった皿を流しへ置くと、水の音が思ったより大きく響いた。蛇口をひねる音も、陶器の表面を水が叩く音も、静かな家の中では妙にはっきり聞こえる。


すぐ横に、紬が立っていた。ぶつかるほどではないのに、意識を抜けば肩が触れそうな距離で、その近さだけがいつもより先に気になった。


「タオル取って」


「ん」


湊は手近にあったタオルを取って渡す。紬はそれを受け取り、手を拭きながら「ありがと」と短く返した。ただそれだけの動作なのに、今日はやけにゆっくり見えた。


水の音が続く。気まずいわけではない。けれど、何かがそこに残っているような間だった。湊は皿に落ちる水を見ながら、先に口を開いた。


「……なあ」


紬が顔を上げる。視線が合ったのはほんの一瞬だったが、その短い間だけ、キッチンの空気が少し近づいた気がした。


「なに」


「さっきの話。ミアってやつ」


名前を出した瞬間、紬の視線がわずかに揺れた。小さな反応だったが、聞き流すつもりがないことはそれだけで分かった。


「……うん」


「気になってんだろ」


軽く言ったつもりだった。深く踏み込む気はない。けれど、完全に流してしまうのも違う気がした。


紬は目を細め、タオルの端を指で挟んだまま少し黙った。


「まあね」


否定はしなかった。その返しが妙にまっすぐで、湊の方が少しだけ言葉を失う。


「どこで会ってるの」


「バイト帰りの駅とか、公園」


「もしかして、最近毎日?」


軽い聞き方だった。けれど、そこだけ水音の合間に引っかかる。湊は少しだけ間を置いてから、短く答えた。


「……ああ」


紬の手が止まった。タオルを持ったまま、指先だけが動かなくなる。水は変わらず流れているのに、その数秒だけ、妙に長く感じた。


「結構じゃない?」


「そうか?」


「うん。湊がそんなの、珍しい」


からかうでもなく、驚くでもなく、紬はそう言った。知っていることを、今ここで確かめるみたいな声だった。


「……そうかもな」


否定はできなかった。誰かと毎日会うなんて、今までほとんどなかった。まして、自分からその場所へ向かうようなことは。


紬がこちらを見る。さっきまでよりも逃げ道の少ない、まっすぐな目だった。


「なんで会ってるの」


「……なんとなく」


答えたあとで、弱い言葉だと思った。けれど、それ以外に近いものが見つからない。理由を探しているのに、理由より先に足が向いている。


紬は眉を寄せた。


「なんとなくで毎日?」


「分かんねえんだよ」


少し強く返してしまった。湊はすぐに視線を落とす。言い訳でも開き直りでもない。ただ、自分でも説明できないことを、うまく丸めて言う余裕がなかった。


「理由とか考えてるけど……結局、なんとなくって感じで行ってる」


それが答えになっているのかは分からなかった。紬もすぐには何も言わない。タオルを畳む手だけが、ゆっくり動いている。


「……そっか」


その声は納得というより、飲み込むための返事に近かった。紬は畳んだタオルを置き、もう一度こちらを見る。


「その人って、湊の彼女?」


湊は息を止めるより早く答えていた。


「ちがうよ」


紬はすぐには返さない。試すように、確かめるように、ただ湊を見る。水の音が、やけに近く聞こえた。


「好き……とか?」


今度は、湊もすぐには答えられなかった。


ほんの短い沈黙が落ちる。その間に、さっきよりも自分の内側を覗かされた気がした。


「……そんなんじゃないよ」


今度は、確かめてから出した言葉だった。紬は小さく息を吐き、肩の力を抜く。


「ならいいけど」


言葉だけなら引いたように聞こえた。けれど、紬の視線はまだ少し残っている。


「でもさ」


紬は目を逸らした。


「ちゃんと見ておきなよ。その人のこと」


「何を」


「湊、たぶん自分で思ってるより流されてるから」


紬は小さく笑った。からかう声ではなかった。だからこそ、湊はすぐに返せなかった。


「……言うなよ」


「事実でしょ」


その一言で、張っていた空気が少しだけ緩む。紬はタオルを置き、何事もなかったみたいな声に戻った。


「じゃあ寝るね」


重さを引きずらない言い方だった。踏み込んだ分だけ、最後は自分から距離を戻す。


「おやすみ」


その一言を残して、紬は部屋へ戻っていった。廊下を遠ざかっていく足音がゆっくりと小さくなり、少し遅れてドアの閉まる音が響く。


カチ、と乾いた音。


それだけで、さっきまでの空気がきれいに切り替わった気がした。


隣にあった気配が抜けて、部屋の中に静けさだけが残る。冷蔵庫の低い駆動音や、外を走る車の音は聞こえているはずなのに、それとは別の静けさがゆっくり広がっていく。


シンクの中では、水滴がゆっくり流れている。蛇口から落ちた水が銀色の底を滑っていくのを、意味もなく目で追った。


頭の中では、さっきまでの会話がまだ終わっていない。


「……流されてる、か」


口に出してみると、その言葉は思っていたより重く残った。否定したいわけじゃない。実際、思い当たるところはある。


ミアと会う理由を考えれば、いくらでも並べられる気がした。帰り道だからとか、たまたま時間が合ったからとか、放っておけない感じがしたからとか。


でも、そうやって言葉にしようとすると、どれも少し違う。実際は、気づけばホームへ向かっていて、気づけばあの場所に立っている。ただ、それだけだった。


湊は蛇口をひねり、水を止める。


流れ続けていた音が消えた瞬間、部屋の静けさがまた一段深くなる。その中で、紬の言葉だけが妙に残っていた。


『ちゃんと見ておきなよ』


思い返した瞬間、湊はわずかに眉を寄せる。


見ていないつもりはなかった。ミアがどんな顔で立っていて、どんな声で話して、どんなタイミングで視線を逸らすのか、それくらいは自然に頭へ入っている。


でも、それは“見ている”ことになるのかと聞かれると、自分でも分からなかった。


考えすぎると、今までと何かが変わりそうだった。


その変化が嫌なのか、それとも怖いだけなのか、そこまではまだ整理できない。ただ、今日は紬に言われた言葉が、いつもより長く頭の中に残り続けていた。

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