第20話 湊と紬 (3) 優しさ
別の日のことだった。
家へ帰ると、リビングのテーブルに小さな袋が置かれているのに気づく。見慣れたコンビニの袋だった。
紬は肩から鞄を下ろしながら、そのままテーブルへ近づく。部屋の中は静かで、奥からテレビの音だけが小さく流れていた。
袋の中を覗いた瞬間、指先がわずかに止まる。
入っていたのは、好きなお菓子だった。
前に一度だけ話したことがある。最近は人気で、近くのコンビニではずっと売り切れていたやつだ。
「……なんで」
思わず声が漏れる。
誰かに聞かせるつもりのない独り言だった。理由は、たぶん分かる。でも、その答えをそのまま受け取ってしまうのも、どこか落ち着かなかった。
紬が袋を持ったまま立っていると、部屋のドアが開く音がする。タイミングを見ていたみたいに、湊が部屋から出てきた。
音を立てたわけでもないのに、妙にちょうどいい間だった。
「それ、近くのコンビニに売ってたから」
湊は軽く言う。説明というより、ただ事実だけを置くみたいな言い方だった。
「食べていいぞ」
続ける声にも、特別なことをしたという感じはないそれが逆に、紬を少し困らせる。近くのコンビニには、もうずっと置いていなかったはずだ。
それを知っているから、その言葉をそのまま受け取る気にはなれなかった。けれど、それ以上聞くのも違う気がした。
どこで見つけたのかとか、何件回ったのかとか、聞けばたぶん普通に答えてくれるのだろう。でも、それを聞いた瞬間、今ここにある空気まで変わってしまう気がした。
「……ありがと」
小さく言う。
少しだけ声が落ちる。それでも、湊にはちゃんと届いたらしい。振り返らないまま、軽く手を上げる。
それだけで返事を済ませると、そのまま自分の部屋へ戻っていった。
足音が遠ざかる。ドアが閉まる音がして、それで終わりだった。会話が続くわけでもない。何か特別な出来事が起きるわけでもない。
それなのに、そんなやり取りが何度か重なるうちに、二人の間には少しずつ曖昧な距離ができていた。
話さない日もある。でも、完全に無関係ではない。同じ空間にいて、必要なときだけ短く言葉を交わす。踏み込みすぎることはないまま、それでも離れきることもない。
不思議な距離だった。
時間が経つにつれて、その曖昧さは少しずつ自然なものになっていく。最初の頃に感じていた居心地の悪さは、いつの間にか消えていた。
だからといって、急に距離が縮まったわけではない。
ただ、気づけばその位置が当たり前になっていた。
それが一番近かったのかもしれない。
今さら無理に変えようとすると、逆にぎこちなくなる気がした。話しかけようと思えば話しかけられる。
でも、その最初の一歩をどこで出せばいいのかが分からない。変に踏み込めば、今の空気が壊れてしまいそうで、結局いつも通りの距離へ戻ってしまう。
名前もそうだった。
ずっと一緒に暮らしているのに、ちゃんと呼んだことがない。
呼ぶ必要がなかったのか、それとも呼べなかっただけなのか、自分でも分からないまま時間だけが過ぎていった。
だから——あの日。
「白石湊くん」
自分の口からその名前が出た瞬間、紬は少しだけ驚いた。もっと引っかかると思っていた。
変に意識して、ぎこちなくなると思っていた。
でも、名前は思ったより自然に口から出て、そのまま空気の中へ溶けていった。
湊も、一瞬だけ目を丸くした。
ほんの少し反応が遅れて、それからすぐにいつもの表情へ戻る。けれど、その短い間だけで十分だった。
変に茶化されることもない。大げさに反応されることもない。ただ自然に受け取られたことが、なぜか少し嬉しかった。
紬は小さく息を吐く。
思い出しているのは、ほんの少し前の出来事のはずなのに、不思議と今へ繋がっている感覚があった。
遠すぎず、近すぎない。
無理に踏み込まなくても成立する関係。ずっと、その距離でやってきた。そしてたぶん、自分はその空気を嫌っていない。むしろ、心地いいと思っている。
それでも最近、ほんの少しだけ考えてしまう。
このままでもいい。でも、少しくらい変わってもいいのかもしれない、と。
「……変なの」
小さく呟く。
こんなふうに考えるようになった自分が、少し前なら信じられなかった。けれど、その変化は嫌じゃない。
胸の奥へ静かに馴染んでいくみたいに、むしろ自然なものとして残っていた。
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