第18話 湊と紬 (1) 近づいた二人
家のドアを閉めた瞬間、外の音が一気に遠くなった。
さっきまで耳の近くにあった車の走行音も、ホームで聞いたアナウンスも、全部が壁一枚向こうへ押し戻される。
代わりに残ったのは、静かな家の空気だった。
廊下の奥からテレビの音が聞こえる。
バラエティ番組なのか、誰かの笑い声が小さく漏れていて、それがやけに生活感のある音に聞こえた。
湊は靴を脱ぎながら、小さく息を吐く。
外にいた時間が、まだ肩のあたりに残っている気がした。
玄関の照明が床に細長い影を落としている。
見慣れた景色なのに、今日は少しだけ感覚が遅れてついてくる。
リビングへ入ると、ソファに座った紬が顔を上げた。
片膝を抱えるような座り方のまま、手にはスマホを持っている。
けれど画面はほとんど見ていないらしく、視線だけが先に湊へ向いていた。
「おかえり」
「ただいま」
短いやり取りだった。
それだけで終わるはずだったのに、湊が通り過ぎかけたところで、紬がふと口を開く。
「最近さ」
呼び止めるというより、独り言の続きみたいな声だった。
「コンビニ寄ること増えたよね」
湊は少しだけ視線を向ける。
紬はスマホをくるりと回しながら、わざと軽い調子を作っていた。
「この前、公園で会ってた人と関係ある?」
聞き方は自然だった。
探るみたいな嫌らしさはない。
でも、なんとなく見逃さずに見ていた感じがある。
湊は数秒だけ黙る。
否定する理由もない。
だからといって、簡単に説明できる関係でもなかった。
「……まあ、ある」
曖昧に返すと、紬は「ふーん」と小さく頷いた。
興味がなくなったわけじゃない。
むしろ逆だ。
でも、それ以上無理に聞いてこない。
その止まり方が、紬らしかった。
「ご飯作るけど食べる?」
「食べようかな」
「じゃあ手伝って」
湊が少しだけ笑う。
「あいよ」
「美味しいご飯作ってあげますか」
紬も小さく笑って立ち上がる。
そのまま二人でキッチンへ入ると、空気が少しだけ近くなる。狭いわけじゃない。
でも、一人で立つ時とは感覚が違う。
紬は冷蔵庫を開きながら、後ろ手で軽く場所を空けた。
「そこにお皿あるから取って」
「これでいいか」
言われた通りに棚から皿を出す。
何度も繰り返してきた動きみたいに自然だった。
前は違った。
同じ空間にいるだけで妙に気を使って、何を話せばいいのかも分からなかったのに、今は黙ったままでも普通に立っていられる。
包丁の音が一定のリズムで続く。
トントン、という乾いた音が静かなキッチンに広がって、その合間を換気扇の低い音が埋めていた。
「ねえ」
紬が手を止めないまま言う。
「その人、名前なんていうの?」
湊は少しだけ間を置いた。
なぜか分からないが、すぐに答える気にはならなかった。
「……ミア」
口に出した瞬間、その名前だけが妙に鮮明に残る。
紬は包丁を動かしながら、小さく繰り返した。
「ミア」
響きを確かめるみたいな言い方だった。
「どんな人なの?」
「…言葉にするのが難しいけど、まあ普通の人だよ」
反射で返した瞬間、自分でも雑だと思った。
案の定、紬が呆れたみたいに笑う。
「普通って、なにそれ」
「説明むずいんだよ」
「ふーん?」
少しだけ疑うみたいな声だった。でも、その空気は重くない。むしろ少し楽しんでいるようにも見える。
湊は冷蔵庫にもたれたまま、小さく息を吐く。うまく言葉にできない。
ミアのことを考えると、頭の中に浮かぶものはあるのに、それをそのまま説明へ変えられる気がしなかった。
紬はそんな湊を横目で見ながら、鍋へ火をかける。
ジュッ、と小さな音が鳴った。
その瞬間、さっきまで会話の中心にいたはずのミアが、急に現実の中へ入り込んできた気がする。
知らない誰かだったはずなのに、もう家の中で名前が出るくらいには近づいている。
その感覚が、少しだけ不思議だった。
「できたら呼ぶ」
紬はそう言って、味噌汁の鍋を覗き込む。
会話を終わらせるタイミングが自然だった。
湊も「あいよ」とだけ返し、リビングへ戻っていく。
その背中を見送りながら、紬は小さく息を吐いた。
換気扇の音だけが残るキッチンで、さっき聞いた名前をもう一度だけ頭の中で転がす。
ミア。
知らない相手のはずなのに、妙に耳に残る名前だった。
「……湊の、なんなんだろ」
小さく呟く。
答えが欲しいわけじゃない。
ただ、その名前を聞いた瞬間から、胸の奥に小さな引っ掛かりが残っていた。
その感覚を辿るみたいに、紬はふと思い出す。
まだ今みたいに自然に話せなかった頃。
同じ家にいることすら、どこか落ち着かなかった頃のことを。




