第13話 バイト先の先輩
紬はガラス扉を開けた瞬間、コーヒーの匂いが先に身体へ入ってきた。
エスプレッソの苦さと、甘いシロップの香りが混ざった、店の中だけの空気。外の湿った風を背中に残したまま一歩入ると、後ろでドアが閉まり、小さな電子音と一緒に街の音が遠ざかる。
「おはようございます」
カウンターの奥へ声を掛けながら、紬はそのままバックルームへ向かった。
まだ朝のピーク前とはいえ、店内にはすでに何組か客が入っている。ノートパソコンを開いている人、イヤホンをつけたまま俯いている人、参考書を広げている学生。ずっと小さな音が流れ続けていた。
ミルクを泡立てる蒸気音。
氷を入れる音。
カップを置く乾いた音。
番号を呼ぶ声。
全部が重なっているのに、不思議とうるさくはない。
制服へ着替え、髪を後ろでまとめる。
鏡を見ながら前髪を軽く整えたところで、ふと昨日のことが頭を掠めた。
――湊。
名前を呼んだとき、思ったより自然に返事が返ってきた。あれだけで距離が変わるなんて、自分でも少し変な感じがする。
紬は無意識に鏡から視線を外し、小さく息を吐いた。
別に、深い意味があったわけじゃない。
ただ、いつまでも他人みたいな距離は違う気がしただけだ。
準備を終えてカウンターへ出ると、先輩が「紬ちゃん、レジお願い」と声を掛けてくる。
紬は「はい」と返事をしながら端末の前へ立った。
客の流れを見て、次に何が必要になるか考えて、足りないものを先に動かす。
忙しい時間帯は、考える暇なんてない。
でも紬は、その感覚を嫌いじゃなかった。
頭の中が余計なことで埋まらなくなるから。
「紬ちゃん」
ミルクピッチャーを洗っていた手を止め、紬は振り返った。
背後に立っていた先輩は、エプロンの紐を片手で結び直しながら「おはよ」と笑う。出勤したばかりなのに、もう店の空気へ馴染んでいるみたいだった。
背は少し高めで、立ち姿に変な力みがない。
綺麗な人だと思う。けれど、それより先に目につくのは、相手を見るときの癖だった。
先輩は人の顔を見るとき、ほんの少しだけ顎が下がる。
視線を合わせる時間も長い。
笑っているのに、反応を見逃さない目をしていた。
「今日も早いね」
そう言いながら、先輩は自然な動作でカウンターの内側へ入り込んでくる。近い、と思う前に距離へ入ってくるタイプだ、と紬はぼんやり考えた。
しかも本人にその自覚があまりない。
「おはようございます」
紬は軽く返しながら、カップを重ねる手を止めない。
変に避けると距離を意識しているみたいで嫌だったし、逆に合わせすぎると向こうのペースへ乗せられる気がした。
先輩はそんなこちらを見て、小さく笑う。
たぶん、反応を見られている。
「そういえばさ」
その声で、紬はなんとなく次の話題を察した。
先輩は一度だけ周囲へ視線を流す。
客席ではノートパソコンを開いた大学生がイヤホンをつけたまま画面を見ていて、レジ側には注文待ちの客もいない。エスプレッソマシンの低い駆動音だけが店内に流れている。
それを確認してから、先輩は少しだけ声を落とした。
「この前の写真」
「あー……」
やっぱりその話か、と紬は小さく息を吐く。
「見てましたね」
「うん」
先輩が笑う。
でも、その笑い方は“面白かった”より、“興味ある”に近い。
「びっくりした」
「何がですか」
聞き返すと、先輩はすぐには答えなかった。
視線だけが一瞬横へ逃げて、それからまた戻ってくる。
「あれ、お兄ちゃんなんだよね?」
「そうですね」
短く返す。
すると先輩は「へえ……」と小さく呟き、思い出すみたいに目を細めた。その間が、少し長い。
顔を思い出しているだけにしては、妙に丁寧だった。
「なんかさ」
それから先輩は、少しだけ笑いながら続ける。
「普通にかっこよくない?」
紬は小さく肩をすくめながら
「どうなんですかね」と曖昧に返した。
すると先輩は、その反応を少し面白そうに眺めてから、「いや、あれは普通にモテるでしょ」とあっさり言い切る。
迷いのない口調だった。ただ軽く褒めているというより、相手の反応まで含めて観察している感じがある。しかもそれを、わざとらしく見せない。
「連絡先どうだった?」
その流れのまま自然に続けられて、紬は一瞬だけ言葉に詰まった。
押されているわけではない。断りづらく空気を固められているわけでもない。それなのに、気づけば会話の流れを向こうが握っている。
人との距離を詰めるのが上手い人なんだろうな、と紬はぼんやり思った。
「…あとで教えますよ」
少しだけ間を置いて返すと、ほんの一秒か二秒。短い沈黙のはずなのに、その間だけ妙に視線が残る。
返事そのものより、“どう返したか”を見られている感覚があった。
やがて先輩は小さく笑い、「ありがと」と軽く言う。そのまま会話を終わらせる空気だったのに、カップを片付けながら「今日にでも連絡してみようかな」
言い方は軽い。本当に雑談の延長みたいな声だった。
紬は思わず先輩を見る。根拠なんて、たぶんない。けれど“何となく”で言っている感じもしなかった。
相手の反応や空気を見て、その上で距離を測っている人の言い方だった。
先輩はそれ以上何も言わず、そのままドリンク側へ戻っていく。ちょうど客がレジへ来て、紬も反射みたいに仕事へ戻った。
注文を確認し、レジを打ち、袋を渡す。もう身体が覚えている流れだ。考えなくてもできるくらい繰り返してきたはずなのに、さっきの会話だけが妙に頭の奥へ残っていた。
――かっこいい。
――モテる。
そんな言葉、自分だって初めて聞いたわけじゃない。
湊は昔からそういう扱いをされることが多かったし、紬もそれを否定する気はなかった。顔は整っていると思うし、外で見れば目立つ方なんだろうとも思う。
でも、それだけだった。
少なくとも、自分の中では。
兄は兄でしかない。
それ以上でも、それ以下でもないはずなのに、不意に昨日の公園が頭に浮かぶ。
少し離れた場所から見えた横顔。隣には誰かがいて、特別なことをしていたわけでもない。ただ同じ場所に立って、同じ空気の中にいただけだった。
なのに、あのときの湊は、家で見る姿と少し違って見えた。
うまく説明できない。
“かっこいい”とも少し違う。
もっと静かで、触れづらい感じだった。
写真の中にいる湊。家にいる湊。公園にいた湊。
全部同じ人間のはずなのに、並べると微妙に印象が噛み合わない。そのズレが、妙に引っかかる。
「……変なの」
理由は分からない。
ただ、その違和感だけは、簡単に流してはいけない気がしていた。
先輩の言葉と、公園で見た横顔と、昨日名前を呼んだときの反応が、頭の中で勝手に重なっていく。
その瞬間、さっきまで聞こえていた店内の音が、少し遠くなった。
「……あの女の人は誰なんだろ」
小さく漏れた声は、自分でも思っていたより静かだった。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
この話で何か一つでも残ったなら、ブックマークで応援してもらえると嬉しいです。
感想やレビューも本当に力になります。




